そして異常な現状へ

ぎゅうと抱きしめる腕の力に安堵を覚える。
勿論目の前のこの人は、私の「実父(ちち)」などではないけれど、私を我が子と呼んでくれるその人が私の「養父(ちち)」であることに変わりなどない。

「……朔?どうしたんだい?」

父様と呼んだ声が水気を帯びていたことに気付かれないはずもなく、抱きしめられたまま身じろぎもしない私にその人――タソガレドキ軍忍組頭・雑渡昆奈門は不思議そうに訊ねる。
探るでもなく暴こうとするでもなく、ただただ、彼は不思議そうなだけだ。
その胸に顔を押し付ければ、父様は何を言うでもなく私の背中をそっと撫でた。

「……朔。どうしたんだい?」

繰り返すように頭の上から落ちてくる声は、どこまでもただ優しい。

「父様」
「うん」
「父様?」
「うん」

父様はまるで癇癪を起こした幼子を宥めるように、ぽんぽんと規則正しく背中を叩く。
私を抱えたまま、父様は屋根瓦の上に腰を下ろした。

「父様」

確かめるように三度呼び、そして私はそろりと顔を上げた。
私の視線に「ん?」と首を傾げる父様は、当たり前だけれどこの間会った時となんら変わりないいつも通りの父様だった。
私は思わず唇を噛み締めた。そうしなければ、私の堤など容易く決壊してしまいそうだったから。
父様の存在が、私に変わらない日常の欠片を教えてくれる。それだけのことがひどく胸の奥を揺さぶる。
私はまだ、何もしていない。何もできていない。だからまだ、私に泣く事なんて許されない。
目を伏せた私に、父様が何を思ったのか苦笑する気配がした。
微かに揺れた空気が静まると、父様は囁くように「朔」と呼んだ。

「朔」
「……はい」

きっと今、私は情けない顔をしているだろう。そう思ったけれどその声に抗えるはずなどなく、私はのろのろと顔を上げる。
父様は少し、困ったような顔をしていた。

「そんなに唇を噛むもんじゃない。せっかくの顔が台無しだ」

ほらほら、止めなさいよと、頬を撫でられてこそばゆさに首を竦める。何だか自分がとても子ども染みたことをしているような気がして、急に恥ずかしくなって、私は敢えて憮然とした表情を作った。

「……そんなに大層な顔じゃありません」

喜ぶべきか悲しむべきか、私はこの年になっても男装に特に違和感をきたさない顔をしているらしかった。何も知らない人間は、口を開かなければまず性別を疑いもしないし口を開いても違和感を感じる者が少々いるという程度で申告しなければそうバレもしない。仙蔵の方が綺麗なくらいで、私には少女らしい華やかさや可憐さは無縁だった。更に加えて私の顔の造作自体は私が「鈴村楓」であったころと特に変わっていない。要するに平々凡々な十人並みなのである。間違ってもあの天女様のような可愛らしさは持ち合わせていない。

奇しくもこんな所でまたしても彼女を思い出す破目になろうとは。誰にともなく恨み言を言いたい気分になって沈みそうになる私の耳にさらりととんでもない発言が飛び込んできた。

「何を言っているんだろうね、この子は。お前は私と彼女の子だ。お前がこの世で一等可愛いに決まっているだろう」
「……父様と母様の目にはきっと妙な膜でも張っているんですよ」

親馬鹿フィルターという名の膜が。沈みそうになってきた気分が浮上する。もっとも嬉しさというには些か異なった角度でだが。
脱力と呆れを混ぜた視線を向けるが、当の本人はいたって真面目だった。

「私は事実を言ったまでだよ?」

何が怖いって父様はこれを素で言っているらしいということだ。この人は時折さらりとこんな発言をしてくれる。最初は気を使ってくれているのかと思っていたけれどどうやらそうではないらしい。あくまで本心でそう思っているのだと知ったときには嬉しい以上に心配になった。主に養父母の感性的な部分が。

「そんなに言うなら今度尊奈門や陣左にも訊いてみるといいさ。同じこと言うから」
「いや、さすがに尊くんや陣左兄が相手でも、私自分でそれを訊くのはちょっと…」

私ってこの世で一番可愛いと思います?なんて神経が注連縄並みに太くないと聞けやしないと思うんですが父様。

「注連縄は大袈裟だと思うよ。せめて荒縄くらいじゃない?」

例えが微妙だ。突っ込むべきか流すべきか際どい境界線に投げ込んでこないで欲しい。処理に困る。

「おや、変な顔するもんじゃないよ」

むにと鼻を摘まれる。

「もっひょへんにゃかおになってまふけど!?」

私の抗議に、父様はあっさりと手を離した。
「ごめーん」って何ですか軽いな!

「えー、ちゃんと謝ってるよ?」

父様は悪びれるでもなくそんな事を言う。

「まったく、だから陣内さんが胃を痛めそうなんですよ?」
「え、あいつ胃を痛めてんの?」
「知りませんけど。でもなんか痛めそうじゃないですか」
「何かその言い方、母様に似てきたねえ」
「そりゃ光栄ですね!だって親子ですし!」
「私とも親子だって忘れないでね」
「どうやったら忘れられるんですか」

「…………」
「…………」

思わず二人で押し黙る。突如落ちた妙な沈黙に先に耐えかねたのは私だった。

「…ふ……あはは!」

こらえきれずに吹き出した。そのまま火がついたようにひとしきり笑う。
やっと落ち着いた時には目尻に涙まで滲んでいて、そう言えばこんなに声を出して笑ったのが久しぶりだと気付いた。
すっと伸ばされた自分のものではない乾いた指がこぼれそうな水滴を拭った。

「やっと笑ったねえ」

お前は一等可愛いけど、笑っていたらもっと可愛い。
仔犬や仔猫にするように咽喉元を撫でられて、その子ども扱いに顔を顰めてみせる。
父様は楽しそうに笑うだけだ。私がこうされる事――子ども扱いを嫌っていないことなどこの人にはお見通しだ。

学園長先生を始め、先生方は私たち生徒をまるで我が子のように慈しみ時に厳しく接してくださるけれど、それでも教師と生徒である以上容易く甘えられる相手ではない。学年が上がるに従って先輩と呼んだ存在は去り、増える後輩たちを前に私たちは成長を余儀なくされた。それが決して厭わしいというわけではない。成長は必要なことであり、後輩たちから先輩と呼ばれそれなりに慕われることは誇らしく嬉しくあった。
だけどそれでも、許して欲しいと思うことがある。子どもであることを許して欲しいと。

この人は「親」という肩書きを持つだけで甘えることを許してくれる。先生方と同じように甘いだけではないけれど、父様が父様である限り、私はこの人の前だけではいつだって無条件に子どもであることを許される。本当は「子」など背負わずともよかったはずだった。だけど捨てることなく背負い、この人は躊躇いなく抱きしめてくれるのだ。いつだって。

「で、一体どうしたんだい?」
「え……」
「お前がそんな顔をするなんて滅多にないからね。……何があった?」

表情を改めて問う父様に、話すべきか話さざるべきか私は迷った。
天女様とそれに関わる諸々は、学園の問題だ。話してどうこうなるでもないし、そもそも外部に漏らすべきではない。
今は辛うじて些細なものとはいえ、綻びは綻び。父様は私の父であると同時にタソガレドキ軍忍組頭だ。私や伊作の存在により「雑渡昆奈門」個人は忍術学園に対し比較的友好的な態度を見せてはいるが、タソガレドキ自体は忍術学園の敵でも味方でもない。弱点となり得るかもしれないことを容易く口にすることは憚られた。

「いえ、別に……」
「別に、という話じゃないんだろう?誤魔化そうと思うなら、さっきお前は躊躇いを見せるべきじゃなかったんだよ、朔」
「ですよね……」

紛いなりにもプロ忍――しかも一国の忍組の頂点に立つ男。気付いていても見逃してくれればいいものを、こういう時の父様は容赦なく粗を突いてくる。

「そりゃ、子どもが心配じゃない親なんていないだろ?」
「そう言われると返す言葉に困りますけど」

どうしたもんかなー。学園長は好きに動いていいとは言っていたけれど。それにいくらなんでもこうして学園に父様が入ってきていることに気付いていないわけもないよねえ。でもなあ。
うーん?と割と真剣に悩み始めた私に、父様は「そうしてると彼みたいだねえ。ほらえーと五年の不破雷蔵君」などとのん気なことを言ってくれる。

「さすがにあそこまで悩みませんよ。…ってこんな言い方したら雷蔵に失礼ですけど」
「まあねえ」

それはどっちに対する肯定ですか?
ふざけたような曖昧な返事をしながらも、父様はコレに関して譲るつもりはないようだった。ジッと私を見据える目は逸らされることなく、その奥に隠すつもりがないのかあるいは隠しきれていないのか真摯な光が揺らめいては消える。


[ 22/86 ]

[] []
[目次]
[しおりを挟む]

×