夜陰の逢瀬

少し欠けた月が空から私を見下ろして嗤っているようだ。
そんな被害妄想紛いの思考になってしまう程度には、どうやら私は落ち込んでいるらしい。

あれ以上食堂にいたくなくて出てきたが、長屋に戻る気分にもなれずに私は校舎の屋根の上に上った。
学園内でもっとも高い建物といえば鐘楼だが、それに次いで高い校舎の屋根からは昼間であれば校庭や演習場を越えて続く裏山、裏々山まで見渡せる。闇に塗られたこの時刻ではどれもこれもそう見えはしないけれど。
膝を抱えるようにして丸くなり、そよそよと髪を揺らす夜風に当たっていると次第に落ち着いてきた。
そうするにつれて、自分がいかに取り乱していたのかがわかる。

学園長と交わした約束云々の話はともかく、母親の話は私を大いに動揺させていた。そんなことを知るのはこの学園内でも限られた人間で、間違いなく限られた人間の一部である級友たちの誰かあるいは全員が彼女に語って聞かせたのだろう。
口からこぼれたため息は、自然重苦しいものとなる。鉛を飲み込んだような息苦しさに私は膝に顔を埋めた。
理由など知らない。理由があろうがなかろうが、私にとって触れられたくない類の話であるそれを、よりにもよって彼女に語ったということが問題だった。
きっと口にした彼女にとっては、些細な話題のひとつに過ぎなかったのだろうが、すべてを知るでもなく自分の基準で計られただろう言葉たちが、私の記憶を無遠慮にかき回していた。

彼女が私をよく思っていないことなんて初めて会ったあの日から知っていたし、私が近付いてもいい顔をしないだろうなとは思っていた。けれど彼女の言葉で一喜一憂する人間なんて彼女の崇拝者たちしかいない。私はそうではないのだし、別に何を言われようとも受け流せる自信はあったというのに。

こんなことなら、行かなければよかったかな。

食事時でもないのに食堂に行った理由なんて些細なものだった。本当にただ、私は友人たちとごく普通に話をしたかっただけだった。
授業以外の四六時中天女様に張り付いているような友人たちと話す時間は格段に減った。皆無の日もある。だから、たとえ天女様に侍っていようが何をしていようが、話ができるのならと足を向けたのだ。
まあもっとも、仙蔵は「しょっちゅう顔を合わせているのに」と言ったけれど。ほんの半月前までは確かにそうだった。時間が空けば、私たちはつるんでは他愛ない馬鹿話に花を咲かせ、時には一緒に街にだって出かけた。けれど彼らが天女様の下に集うようになって、私は基本的に彼らの傍にいることがなくなった。だというのに、仙蔵たちにとってはそんな意識どこにもなかったということだ。私がいてもいなくても大して気にも留めていないとそういうことだ。

……駄目だ。我ながら思考が卑屈になっている。

膝を抱える腕に、私は少しだけ力を込めた。
こんなこと、現在進行形で迷惑をかけている後輩たちには決して言えないが、私は彼らに『朔』と呼んで欲しかった。いつものように他愛ない話をして笑い合いたかった。そうすれば、たとえ色恋に現を抜かし己の職分を忘れていようとも彼らの本質は決して変わっていないと実感できると思ったから。

私はただ、安心したかったんだ。三之助に言ったように大丈夫だと、そのうちあいつらは帰ってくるのだと、他の誰でもなく自分に言い聞かせたかった。
面倒な事になったとか、馬鹿なやつらだなあと呆れ、その挙句広がり始める事態に対して私はそれほど有益な対策を打てずにいる。最初から色におぼれているとされる彼らを容易く呼び戻せる自信はなかったし、かといって私一人で六人の穴埋めなどできようはずもない。最上級生として情けなかろうが、余裕を取り繕ってあれこれ指示を出して、その上で後輩たちに縋ることしかできないのだ。現状をできるだけ長く維持し、時間を稼ぐことが先決だなんて、ふがいなさ過ぎる。

私は決して強くない。だけどそうする必要があるのなら精一杯強がって見せる。
今はまさにその時で、だからこそ強がる心が折れないように、変わらないものを見ておきたかった。
だというのに。

「これはあんまりだよ…みんな…」

天女様へ賛辞を送っていようが愛を囁いていようが、その程度のことは目を瞑る覚悟をしていたさ。
今は仕方ないんだと思えるから。
だけど、あんな目を容認して笑える程大きな器は生憎と持ち合わせがなかった。

「母様」

そっと呼んだ声に当然ながら応えはない。それでも私はもう一度呼んだ。

「母様」

久しく口にしていなかったその言葉。私を、蓮咲寺朔にしてくれたひと。私の大好きなひと。
そんなあの人を「ひどい」と言われ、友人たちにまで哀れみを向けられて、噛み付くことも訂正する事もできなかった。

「あんまりだよ……」

一番ひどいのは私だ。その時ではないのだと、逃げるように背を向けた私。

「ごめんなさい、母様」

この後のことを考えてといえば聞こえはいいけれど、結局いつだって上手くできない子どもで。
私は貴女に何も返すことができなくて、今もやっぱり貴女を守ることができなくて。
歪みそうになる視界に慌てて、制服でごしごし目元を拭った。情けなさに無性に笑いたくなって、結局喉の奥からは引き付けを起こしたような奇妙な音しか出なかった。

夜に支配された世界は、静かだ。
やはり鍛錬に明け暮れる声なんて聞こえやしない。
静かで、寂しいその世界を私はぼんやりと眺めた。

明日からは忙しくなるんだ。私は自分の委員会の他に保健委員長代理と作法委員長代理を務めなければならない。後輩たちに頼る分、もっとしっかりしなければならない。
こんな私でも、こんな私しかいないのだから。

「大丈夫、私は大丈夫」

歌うように私は繰り返した。
我ながら安っぽいマインドコントロールだ。自嘲の笑みを浮かべて、私は月を仰いだ。やっぱり月は、わらっているようだった。
たったひとり、取り残されたような錯覚を覚える。お前はひとりなのだと月が言うような、そんな、とても馬鹿らしい錯覚。
でもそれも、あながち間違いでもないのかもしれない。だって傍にいてくれたひとたちは今、同じ場所にすら立ってもいない。

「さみしい…」

その言葉は、口をついて出た。無意識にこぼれた呟きは私自身の耳が拾うより先に風に流され消えていく。

「……寂しい?寂しいのかい?」

不意に、背後でふわりと空気が揺れる。瞬時、思わず反射的に身構えたのは同時に現れた気配が学園関係者のものではなかったからだ。けれどそれは警戒するにはよく知りすぎたもので、肩から力が抜けていくのを感じながら私はゆっくりと振り返った。

何てタイミングで現れるんですか。とか、ちゃんと入門表は書きましたか?とか言いたいことはあるのだけれど、改めてその姿を目にした瞬間に諸々の言葉は霧散した。
音もなく屋根の上に降り立った黒の忍装束。包帯だらけの長身の体躯。唯一覗いた右目が、私を認めて細められた。
そのひとは躊躇いなく私に近付くと、ぎゅうと音のしそうなほどきつく体を抱きしめた。

「やあ、久しぶりだね。朔」
「…………父様」

どこか懐かしい匂いと温もりに、我ながら情けないほど声は湿り気を帯びて掠れていた。


笑う月のお膝元にて

(110506)

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