天女様は口許を押さながら堪えられないというように可愛らしい笑い声をこぼした。

「ふふふ、わたしは大丈夫よ。それより文次郎は頭大丈夫?」

そう言って、文次郎のそっと見上げる。
頭大丈夫?って、また聞き様によっては笑えるか非道に聞こえる台詞だよなあ……などと可愛らしさの欠片も無い半笑いを浮かべる私を尻目に、上目遣いに見られることとなった文次郎は、ぱっと天女様から顔を背け、ぶんぶん手を振った。

「こ、これくらい大丈夫です!忍たるもの軟弱では務まりませんので!」

軟弱では務まらない……ねえ。確かに弱い人間が戦場など駆けられないだろうさ。
なのに君たちは、何故鍛錬もせず日がな一日天女様に引っ付いているんだい?

ふつり。ふつり。湧き上がるものを何とか飲み下した。

「……もんじろー。顔真っ赤だよー」
「朔!やかましい!」

茶化すように口を挟めばぎろりと睨みつけられる。まあ湯気が出そうなほど真っ赤になったその顔では迫力などないようなものだけれど。

「ごめん、唯歌さん。私は驚かせるつもりじゃなかったんだ……」

その隣で、しゅんと項垂れる小平太からは、垂れ下がった尻尾と耳が見えた気がした。

「ちゃあんとわかってるわ。小平太は、わたしを心配してくれたのよね?」

いい子いい子、と幼子をあやすように真っ白ですべらかな手が小平太の頭へ伸ばされる。何をしようとしているのか気付いた小平太が背を屈めると、天女様は「よしよし」と小平太を撫でた。

「そうだわ。そんな小平太にご褒美あげましょうか」

いいことを思いついたと言わんばかりに顔を輝かせ、天女様はぱちんと手を鳴らした。

「ご褒美?何何?」
「明日の放課後は街へ出掛けましょうよ」

それで一緒においしいものを食べて、いろんなお店を見るの。わたしと二人でデートしましょ?わたしもおしゃれするわ。ほらこの間買ってもらった簪と着物で。

「でーと?」

耳慣れない単語をなぞるように小平太が繰り返す。

「それって、私と唯歌さんでってこと?」
「ええ」

小平太の頬が、次第に赤みを帯びていく。興奮からなのか、それとも別の何かからなのか。六年間共に過ごしてきたけれど、私にはよくわからなかった。
ただわかったのは、委員会の存在など抜け落ちた頭はきっと今明日の今頃の事でぎゅうぎゅう満たされている。だからそこには、天女様が持つ本来の肩書きも彼女が衣食住に不足しないで済んでいる理由も、彼女が言うところのデートの費用の出所も、割って入る余地など無いのだろう。

「小平太だけずるい!」

「僕も一緒に行きたいです」と子どものように駄々を捏ねる伊作に、他の四人もそれぞれ同意を示す。小平太は勿論今回はだめだと言い天女様も困り顔を作ってはいるが、その目に宿るものは楽しげで嬉しそうな色だった。

「じゃあ仕方ないなあ。みんなで行こっか!」
「えー!唯歌さん、私と二人でって……」
「二人で行くのは今度にしましょう?ね?お願い」
「……まあ唯歌さんがそう言うなら」

不承不承頷いた小平太の頭を、天女様はまた「いい子」と撫でた。
急速に醒めていく意識の中で、ぼんやりと目の前で繰り広げられるものを眺める。
何なんだろう。この茶番は。これが、忍術学園最高学年だろうか。私の友人たちなのだろうか。

「街へ、出掛けられるのですか?」

思わず漏らした声に、七対の目が私へと集まった。不思議そうな六対の中にあってたった一対、微かに鬱陶しそうでそれでいて勝ち誇ったような瞳が私を見ていた。

「あ、そういえば朔くんもいたんだあ。ね、朔くんも一緒に行く?」
「そうだ。せっかくだから朔も行こう」

さっきあれだけ二人で出かけたいと言っていたくせに、同じ口で小平太は唯歌さんもこう言っているしなどと言う。
わざとらしい誘い文句。甘ったるい声。君たちはどうして、気付かない。
天女様は無邪気に笑って言う。

「朔くんも、私みたいにたまにはおしゃれしたら?だって女の子なんだから!」

女の子。今の私とは縁遠い言葉。

「私は……」

私は忍たまだ。男ではないけれど、忍たまである私は女の子でもない。女の子であってはいけない。
ため息を無理やり飲み込み、笑って辞退しようとした。そんな努力をあざ笑うように、天女様は私に近付く。
私も大柄な方ではないが、それより更に小さな天女様は、私の目を覗き込むように見上げる。ここまで近付かれては目を逸らす事もそうできやしない。諦めてまっすぐ見返した天女様の瞳には、何故か愉悦の色が合った。
訝しく思う私の耳を、天女様の声がなおも掠める。

「女の子らしい着物着て、ね?」

楽しそうで嬉しそうでふわふわとした甘ったるい声。それが、不意に翳った。

「……あ、でも朔くんは男の子の格好してなきゃだめなんだっけ?そういう約束なんだよね?」
「え……」

約束。確かに、私と学園長の間で交わされたいくつかの約束のひとつではあった。けれど、何故?

「六年間男の子と同じ格好で同じ生活をするっていうのが忍たまでいる条件なんでしょ?元々は、お母さんとの約束なんだっけ?それなら仕方ないのかなあってわたしも思ったの。でもやっぱりそういうのってちょっと可哀想だなって……だって朔くん女の子なんだよ?そんな約束させるなんて、朔くんのお母さんってひどいよね」

今、何と言った?
白く、柔らかな手が、私の荒れて固くなったそれをぎゅうと握った。
哀れみの口調。愉悦混じりの瞳。ぞわり、と背筋が粟立った。
誰が、どこまで、この女に喋った?
そしてこの女は今なんと言った?可哀想?私が?ひどい?誰が?

私は思わず、助けを求めるように友人たちに目を遣った。
誰も彼も、私なんて見ちゃいない。彼らが見守るのは、その瞳に薄っすらと涙を滲ませた天女様で。

「ね。みんなもそう思うよね?朔くんが可哀想って」

唯歌だったらきっと耐えられないよ。
天女様は涙交じりの声でそんなことを言う。
貴女なら耐えられない?そりゃそうかもしれないけれど、私は貴女じゃない。

「唯歌さん……」

そっと、仙蔵が天女様の肩を抱く。天女様は目尻に滲んだ涙を拭いながら仙蔵の胸に擦り寄った。

「ごめんね…唯歌がもっとしっかりしなきゃいけないのにね。ありがとう、仙蔵」

何だ一体。何でそこで貴女がしっかりしなきゃいけないという話になるんですか。しっかりしなきゃいけないのは確かにそうだけど、貴女がしっかりすべきなのはちゃんと与えられた仕事をこなすという意味でだと思うんですが。

「大丈夫ですよ。貴女は貴女のままであってくれさえすればいい。そうすれば、我々も朔も救われるのですから」

待て仙蔵。何でそこで私の名前を出すの?私が救われる?彼女に?頼むから、ねえ本当に頼むから止めておくれよ。

「本当?ね、文次郎も留三郎もそう思う?」
「も、勿論です!唯歌さん!」
「ああ、仙蔵の言う通りだ。朔のことだって、貴女のせいじゃない」

ああ、なんて安い茶番劇だろう。そりゃそうだろうさ。私のことなんて貴女になんら関係ないんだから。
目を伏せ訳知り顔で痛ましげなものを見るように私について語る天女も、そんな彼女に憂いを向ける級友たちも、まるで別世界にいるように遠い。
当然の顔をして存在した世界が、ぐるりと反転する。唐突に遠ざかっていく。
忍たまである私は、男になれず、女でもない。
忍たまである私は、蓮咲寺朔だ。
それを君たちはわかっていてくれたんじゃなかったのか?ねえどうして、そんな顔で私を見るの。そんな哀れむような視線を向けるの。そして何故――。

「唯歌さんはやっぱり優しいな……」

ぬくもりを噛みしめるような小平太の呟いた声が、胸の奥で一際大きく波紋を描く。
ふつりふつりと湧き上がった感情があふれ出しそうだった。
爪が掌に突き刺さるほど強く拳を握り締める。貼り付けた笑顔が歪んでいない事を祈りながら、私は何とか搾り出すようにして答えた。

「心配していただいて、ありがとうございます。母のことはともかく、せっかく誘っていただき申し訳ありませんが、どのみち私は明日委員会がありますので」
「えー、そうなの?残念だね」

先ほどまで散々可哀想だのひどいだの涙ながらに語っていたというのに、言った傍から「じゃあ明日はどこのお店に行こうか?」なんて、説得力が欠けるにもほどがある。どんな大根役者なんですか、貴女は。
そんな女優の傍らで委員会という単語に微塵も反応しなかった友人たちが、どこそこの紅屋はどうだ、甘味屋はどうだとはしゃいでいる。

ほんの半月前まで、君たちは会計帳簿やバレーボールと戦って、壊れた壁や生首フィギュアの修繕をして、不運に振り回されていたじゃないか。お茶菓子の予算で揉めて、委員会対抗バレーをして、漆喰鉄砲の開発を応援して、生首フィギュアに一緒に化粧をして、薬草の天日干しを手伝った。

私たちは、同じ場所にいたじゃないか。

こんなはずじゃなかったのに。こんな疲労感を覚えるために、わざわざ話をしにきたわけじゃないのに。
背を向けて立ち去ろうとした私に、天女様が思い出したように声を掛けた。

「そういえば、朔くんは何委員なの?」

今はこの場から立ち去りたくて、私はおざなりな返事をした。

「……私は、学級委員長です」
「学級委員長……?」

私を見遣るその目に敵意や嫉妬とも違う奇妙な感情が浮かぶ。
その意味を私が知るのは、まだもう少し後の話。


涙は終ぞ流れない

(20110504)

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