壊れた日常の音を聞く

夜が降りてくるまでにまだ間があるとはいえ、食堂は暇ではないだろう。その証拠に、奥ではおばちゃんがせっせと鍋の火加減を見たり野菜の下処理をしたりと忙しなく動いている。
包丁がまな板を叩く音を掻き消すように響く笑い声に、私は内心眉を寄せた。深緑の制服の一団が、今日は若草色の小袖を纏ったそのひとを取り囲むようにしてなにやら話に花を咲かせている。

天女様はお手伝いさんという肩書きで学園逗留を認められているのだというのに、一体貴女は何をしているのですか。それとも貴女は自分が『天女様』だから逗留を許されているとでも思っているのですか。天女なんてものは通称愛称の類であって、決して肩書きではないというのに。
大体、君たちも君たちだ。委員会も後輩も放っておいて、こんなところで毎日毎日飽きもせず女の子に鼻の下を伸ばしている場合か。何事もにも節度と限度ってもんがあるでしょうが。
ああ、まったく頭が痛い。

今更でしかない脳裏を過ぎるそんな思いを振り払うように進める歩調を速めた。
気配を消すでもなく、むしろ常よりひとつ大きく足音を立てながら近付くが、誰も振り向きやしない。入り口に向って座っていた伊作や仙蔵もその視線は間に置いた天女様に釘付けで、入ってきた人間の存在すら感知していないようだった。
背を向けている小平太の後に立ち、私は足を止めた。ほとんど触れそうなほど近付いたというのに、誰もこちらに顔を向けようとはしない。

「小平太」

名前を呼んで、軽く肩に触れた。当たり前のように。普段通りに。
その後に続いた友人の反応に戸惑う事になるだなんて知る由もなく。

「うわッ!?」
「え!?」

小平太が跳ね上がるように音を立てて振り返った。

「なんだ、朔じゃないか。いきなり声掛けるからびっくりした」

いやむしろ驚いたのは私の方なんだけど。

「な、何もそんなに驚かなくても……」

気配を消したわけでもなく、いたって普通に声をかけただけだ。そう言うけれど、小平太に「気付いてた?」と尋ねられた同級生たちは、皆一様に少し目を丸くして首を振った。

「え、文次郎も留三郎も気付いてなかったの…?」

動物的直感を誇る体育委員長も、学園一忍者していると言われる会計委員長も、その彼に張り合える武闘派用具委員長すらも?

「そんなことより朔、どうしたんだ?唯歌さんに会いに来たのか?」

戸惑う私をよそに、小平太がにこにこ笑いながら訊ねてくる。そうして体をずらすと、六人に囲まれるようにして座っていた少女の姿が現れる。

「朔くん?久しぶりだね!わたしに何か用?」

大きな黒の瞳が私へと向けられる。声はあくまで明るいけれど、その目に宿る色の中に潜む負の要素を見つけてしまうことが今は煩わしくて、天女様からそれとなく視線を外しつつ、私は緩く首を振った。

「いや、天女様に用というか君たちに用があってきたんだけど」
「へ?私たちに?何だ?」

小平太が目を瞬かせ小首を傾げた。

「たいしたことじゃないんだ。ただ、最近どうかなと思って」
「最近どう、とはまた随分抽象的だな?」

口を開いた仙蔵は相変わらず男のくせに美人という形容が相応しい。

「どうもこうも、変わりは無いが。それがどうした?大体、しょっちゅう顔をつき合わせているのにどうしたんだ一体」

おかしなヤツだな、と笑う仙蔵に私はへらりと笑い返した。

「え、何となく。ちょーっと気になっただけ」

何でもない何でもないと顔の前で小さく手を振って見せる私の顔を立ち上がった伊作がそっと覗き込んでくる。

「ほんとに?何かあるんじゃないの、朔」

少しだけ心配そうな伊作の声に口許を緩めて「大丈夫だよ」と返した。

「私は、大丈夫」
「本当かァ?」

胡乱気な声を上げたのは留三郎だ。

「お前、意外と無理するからなあ」

ぽんぽん、と撫でるように軽く頭を叩く留三郎に、私は目を伏せ小さく笑った。
伊作は最強に不運だけどその分ひとに優しいし、そんな伊作と六年同室である留三郎は、不運すら受け流せる器量を持ち合わせている。もっと自分のことを心配してもいいだろうに、彼らが心を砕くのは大抵他の誰かのことだ。

「……は組は心配性だねえ、相変わらず」

呟くようにそんなことを口にすれば、頭の上から溜息が落ちてくる。

「バカタレ、それだけお前が間抜けなんだよ。忍としてっつーか人として」
「あっはっはっは。おいこら文次郎、喧嘩売りたいのかい君は。買わないけどね」
「誰が売るか!そして買わないのか!」

そして、言葉は足りないけれど結局この男も心配性で優しいのだ。なんて本人には決して言ってやらないけどさ。言った所でどうせ「何だそりゃ、嫌がらせか!?」とか何とか言われるのが落ちだしねえ。
毎度毎度よく飽きないなと集まる視線たちが呆れを滲ませながら語っている。
それでも普段と同じように暑苦しく声を張り上げる文次郎と私との間に、正反対の静かな声がぼそりと割って入った。これもまた、常と変わらない。お決まりのパターン。

「……二人とも。……その辺で止めておけ」

ああ、現状を忘れそうになるなあ。でもやっぱり、今は今で、ほんの少し前とは皆違っていたけれど。

「……唯歌さんが驚いている」
「そうだぞ二人とも!唯歌さんは大きい音とか怒鳴り声が苦手なんだからな」
「……そういうお前の声もでかいだろうが小平太!」

長次の指摘に文次郎が慌てたように口を押さえた。
え、何潮江君。若干そのポーズ乙女っぽくて気持ち悪いよ夢に見そうだよ伝子さんインパクトには匹敵しないけどなどと突っ込む前に、小平太が悪意なく大声で注意勧告をし、気を使っているらしく心持ち声を潜めた文次郎が言い返す。

「どっちもどっちだろうが、馬鹿者」

すぱーん!と気持ちいい音を立てて仙蔵が二人の頭を叩き、伊作が「もうッ。みんな止めなよ」と君はどこのヒロインだいと聞きたくなるような口調で制止を掛けた。

「ほらほら、唯歌さんに謝って。朔も」
「え、私も?私悪くないよ今回は」

私は心外だと唇を尖らせる。大体大きな音や怒鳴り声が苦手だと言っても、こんな些細なものその類には入らないだろうに。
この程度でだめなら、学園では暮らしていけまい。文次郎たちとて本気で声を荒げたわけでもなし、そも実習などで使う石火矢や火縄銃などの火器の音はこんなものではない。
しかし学園一忍者していると言われていた彼は、清々しいまでにあっさりと折れた。

「ゆ、唯歌さん、すまない!驚かせてしまったか?」

音の割りに痛くは無かったのか、後頭部を擦りながらも文次郎が慌てたように天女様へと向き直った。

「大声を出すつもりはなかったんだ。その…悪気があったわけでも」
「…………文次郎、お前、謝るんだねえ」

ふつり。
胸の奥で音がする。
呟いた私の声など、きっと誰の耳にも届いていない。届いて欲しいのか、届かないでいて欲しいのか。私にも本当の所よくわからない。


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