小さな背に続く

朔先輩が学級委員長委員会室を後にしても、三郎はしばらくぼんやりと開いたままの障子を見つめていた。
その背中に、ふと思ったことが口をついて出た。

「三郎はさ、ほんとに朔先輩が好きだよね」

手慰みにその辺りに置いてあった帳面をぱらぱら繰りながらそう言うと、「ん?」と三郎が振り返った。
不思議そうなその表情が、顔の本来の持ち主である雷蔵のようで何だか面白い。俺が小さく笑うと、三郎はますます首を傾げた。

「何だ?勘右衛門」
「いやいや。三郎は先輩が好きだなーって思っただけ」
「そりゃ好きさ。だって私の先輩だからな」

三郎は怪訝な顔をしながらも当然だとばかりに胸を張るという器用なことをやってのけた。

「俺の先輩でもあるんだけどねえ」
「だって今の言い方だと、私の方が先輩をより好きだと認めているようなものじゃないか」
「別にそういうわけでもないんだけどさ」

胡坐をかいた膝の上に肘を立て頬杖をつく。確かに言われてみればそう取れなくもないが、三郎が一番先輩を慕っていると認めるのは少し癪だった。

「俺だって、先輩のことは好きだよ」

俺だけじゃない。兵助も、八左ヱ門も、雷蔵だって。俺たちはみんな朔先輩が好きだ。今も昔も変わらずにへらりと笑って頭を撫でてくれるあの人が好きだった。

「知ってる……っておい!何で帳面投げるんだ!?」

今さっきまで手元にあった帳面は、三郎の顔面向かって飛んで行き、鼻先すれすれのところで叩き落され床板と抱擁を交わした。べしゃりと落ちた音に思わず舌を鳴らす。

「勘ちゃん若干性格が変わってるから!」
「だって何かその余裕が腹立つんだよなあ、三郎のくせに」
「三郎のくせにって何!」

三郎はぶつぶつ言いながらも落ちた帳面を拾い上げ、皺を伸ばしている。
それを眺めながら、呆れ混じりに笑いながらも結局後輩を甘やかす我らが委員長を思い出す。

「……朔先輩が心配?」
「は?」
「……いや、だってさっきからずっと廊下眺めてただろ?」

まるで飼い主を送り出す忠犬のようだった、とからかおうかと思ってやめた。先輩の足音が聞こえなくなるまで耳をそばだてていた自分に言えたもんじゃない。
学園内で、先輩の足音はよくわかる。下級生程ではないにしても、最上級生のものとしては随分軽い足音だからだ。
遠ざかっていったそれが他の六年生よりもいくらか軽いのは、目方自体が軽い為だろう。男と女の成長し従い生じる体格差は、埋めるに埋めがたい必然としたものだ。先輩が六年最弱と呼ばれる所以もそこにある。

接近戦を想定した組手などでは組み合った時点で小柄で軽くその上力でも劣る先輩はどうしても不利になる。勿論、実戦において有る程度それを補う技術は持ち合わせているのだろうが(でなければ最高学年まで進級する事は不可能だ)、朔先輩は実技の授業の中でも体術の授業を最も苦手としていた。授業の度に打ち身や打撲、擦り傷を拵えては七松先輩に担がれて保健室へ放り込まれるなんて見慣れた光景だ。

先輩は食堂へ行くと言っただけだ。食堂には恐らく九割の確率で天女と他の先輩方が揃っているだろうが、別に遣り合いに行くわけではない。先輩は後輩の為に動かれているし、役目を放棄した同輩たちに呆れたような目を向けてはいるが見捨てたわけでも軽蔑しているわけでもない。そんな要素がないとわかってはいたけれど、もし万が一何かの弾みで対峙することになりでもしたら、あの六人が相手では先輩の勝率はいかほどだろうかと考えずにはいられない自分がいる。あの六人――特に七松先輩が朔先輩に敵意を向ける姿などどうにも想像できないが、色恋はひとを変えるというしさ。
我ながら、過ぎた仮定の話だとひっそりと苦笑する。そんな俺を知ってか知らずか、三郎は少し考えるような素振りを見せ、それから溜息混じりに頷いた。

「……ああ。まあ心配ではあるな」

しかし続けて口にしたその理由は、俺のものとは少々異なっていたのだけれど。

「先輩が天女に会うなんて最悪じゃないか」
「天女?」

何でまたと、首を傾げた。
確かに、今回の事の起こりは彼女が学園に『落ちてくる』などという非常識な登場を果たした事に端を発しており、原因もまた彼女だ。しかし、この半月傍目に見た彼女自身は世間知らずで働きもしない厄介者ではあるにしろ、先輩を傷付ける程の力など持ち合わせてはいないように思えた。
直接害することができなくとも、周囲の忍たまに訴える事で何らかの手出しは可能だろうが、大体そもそも天女は、傅かないくのタマを面白く思っていない節があるにしろ概ね忍たまには好意的だ。

「忍たまにはな。でも先輩は忍たまだけど、天女の考える忍たまじゃない」
「天女の考える忍たま?」

何だそれはと目で問えば、三郎は口元を歪めた。

「先輩はくのいち教室と同じ共通点を持っているじゃないか」

くのいち教室と同じ共通点?それは――。

「先輩はそもそも男じゃない」
「あ」

くのいち教室が天女を敵視した理由の大半は、同性として許しがたいその振る舞いにあったと聞く。そしてそんな彼女たちは当然の事ながら天女に惹かれることなどない。故に傅きもしない。
そして先輩もまた、その感性は忍たま寄りとは言え同性故に彼女に溺れ傅くことなどないのだ。
それに、と三郎は続けた。

「あの女はこう言ったんだぞ?」

三郎は鼻を鳴らし吐き捨てるようにして言った。

――特例で忍たまとして入学って、学園長先生も優しいのね。でもそれは辞退するべきだったんじゃないかなあ。だって。

「『女の子なのに忍たまってすっごく変でしょう?』だとさ。……朔先輩の何も知らない天女様が」

ご丁寧に天女の声色まで真似ておきながら、三郎は顔を顰めた。

「三郎、それどこで聞いたのさ」
「食堂。多分、先輩と天女が始めて顔を合わせた時だと思う。初めましてって先輩が言ってたし」
「見てたの?ていうか、天女は直接先輩にそんな失礼なこと言ったのかい?」
「雷蔵と八と夕飯を食べてたら先輩が入ってきたんだ。声を掛けようと思ったけど先に七松先輩が呼んでたから、見てたんだよ」

先輩は先に食事を終えひとりで出て行ったらしいけれど、その後天女は周囲も憚らず先輩が忍たまであることのおかしさを声高に訴えていたのだという。

「ついこの間やってきたよそ者が口出しするような問題じゃないだろう?」

そりゃそうだ。だって先輩が忍たまとして学んでいるのは、それなりの理由があるのだから。

「だけどその時、結局六年の先輩方は誰一人最後まで先輩を肯定しなかった。最後まで守ろうとも庇おうともしなかった。果ては天女に同意を求められて「そうかもしれない」なんてご機嫌取りみたいに頷いたんだ。他のどの学年より朔先輩と共にいたあの人たちがだぞ?……だから私は、本当は先輩には天女とあまり関わって欲しくない」

天女がまた不用意な発言をしないという保証はないし、その発言から先輩を守るものが今はない。

「先輩は、今更天女如きの言葉に惑いやしないかもしれない。でもだからって不快でないはずないだろう?」

それに、七松先輩まで天女側だ。

唇を噛み、三郎が呟いた言葉に、ひどく落ち着かない気分になった。
彷徨う視線を向けた廊下に、足音は既に消えていた。


揺らぐものには蓋をしましょう。

(20110503)

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