転落

最近どうにも忙しかった。

学園長先生にお使いを言いつけられたり、割のいいバイトがあるからと飛びついてみたり。何やかんやとバタバタしていたせいで、食堂が閉まるぎりぎりの時間に駆け込むことが殆どで、級友たちが目を輝かせてその素晴らしさを語る『天女様』とまともに顔を合わせたこともなかった。
まあ、別にそれで何か問題があるでもなし、同じ学園にいるんだから会う機会もあるだろう、なんて軽く考えていればその機会は割りと早くにやって来た。
その日は何事もなく授業が終わり、やはり何事もなく委員会活動も終わり、私は久々にまともな夕食の時間に食堂へ向かったのだ。
受け取ったばかりの焼き魚定食を手に、生徒でごった返すそこで空いている席を探してきょろきょろしていると、よく知る声に名前を呼ばれた。

「おーい、朔!」

奥へと目をやれば、立ち上がった小平太がぶんぶん腕を振っていて思わず小さく笑った。

「こっち、こっち!」
「そんなにしなくてもちゃんと見えるよ」

焼き魚定食の乗ったトレーを片手に近付けば、六年六人が顔を揃えていた。文次郎や仙蔵とは数日振りに顔を合わせることもあり、知らず知らず頬が緩む。

「久しぶりだな、朔」
「そうだねえ。文次郎はちょっと見なくてもまるで変わらないねえ」
「そうそう文次郎が変わってみろ。気持ち悪いだけだろう」

にこやかに毒を吐く仙蔵に、文次郎が低く呻る。

「仙蔵…テメェ…」
「ん?何だ?何かあるのか?」
「あっはっはっは。仙ちゃん笑顔が怖い」

数日顔を合わせなかっただけなのにそのいつものやり取りが何だか嬉しくて、だからだろうか、『彼女』の存在に気付くことが遅れた。

「……あの……?」
「へ?」

馴染みのない女の声に首を傾げ、そして声の方へ顔を向ける。
図体のでかい男六人に囲まれていたせいで見えていなかったけれど、彼らの中央にちょこんと座る小柄な少女が不思議そうにこちらを見ていた。くのたまではない。少女――と言っても私たちより少しばかり年長のようだが――の着物は桃色の制服ではなく、明るい色合いの小袖だ。

「ねえ、伊作くん。誰?」

隣に座る伊作の腕を引きそっと訊ねるが、声の音量を落としていないせいで私にまでしっかり届いている。
もしかして、と思うこともなく、彼女の正体には早々に気付いた。
にこにこと私たちのやり取りを眺めていた小平太に視線で問えば、勢い良く頷かれる(どうでもいいけど、首もげるよ)。
彼女が噂の、天女様なのだろう。
艶やかな黒髪とぱっちりした大きな目。美しいというよりは愛らしいように思うが、確かに整った顔をしている。
なるほど、これはそこいらに転がっている顔ではないな。はしゃぐ気持ちもわからなくはない。

「初めまして、えっと……天女様」

とりあえず、焼き魚定食を机の上に置き、私は天女様へと声を掛けた。確かなんとかという名前だったはずだ。小平太たちがしきりに口にしていたその名が、しかし今ひとつ思い出せず、私は濁すように「天女様」と呼び掛けた。
私が口を開いたその瞬間に彼女に浮かんだのは戸惑いの色だけだった。男にしては高い声に驚いたのか、しきりに目を瞬かせている。

「あ、あの…?あなた誰?」

直接本人に向かって誰、とは随分ご挨拶だなあ。見れば生徒であるとはわかるだろうに。しかしまあ、自己紹介もしていないのだから、と私は改めて軽く頭を下げた。

「私は六年ろ組、蓮咲寺朔と申します」

すると彼女は、戸惑いを隠して天女様らしくにこりと微笑みかけてきた。

「朔、くん?初めまして、有村唯歌っていいます。よろしくね?十七歳だから、少し年上なんだけど唯歌って呼んでね?」

そう言って、天女様は私の頭の先から爪先まで眺め、そして小首を傾げて見せる。仕草自体は可愛らしいが、まるで値踏みするようなその視線は実に不躾である。
しかし級友たちには微笑ましいものに映るのか、先ほどから揃いも揃ってにこにこと笑顔を貼り付けている。正直、文次郎や留三郎がそんな表情を浮かべていると何だか怖いのは私だけだろうか。
夢に見そうで何か嫌だ。
十七ということは高校生か。それにしては何だか幼く見えるなあ。だから可愛いなんて感想になるのだろうか。
そんなことを考えていると、「気を悪くしたらごめんね?」と前置いて天女様が口を開いた。

「朔くんて、女の子みたいだね」

声とか、顔とか。
確かに女のようだと言われて喜ぶ男もそういないだろうなと苦笑する。

「ああ、私は……」
「朔は女だからなー」
「……え?女、の子…?」

私が答えるより早く口を挟んだ小平太の言葉に、天女様は困惑を露にする。

「え、でもくのいちの制服じゃないよね?それに今、ろ組って…」

私と他の六年生を見比べるように視線を動かしながら、答えを求めているようだった。それに気付いてか、傍らにいた伊作が助け舟を出す。

「朔はちょっと事情があって、忍たまとして学んでいるんだよ」

その説明に、彼女はますます戸惑ってしまったようだ。眉を寄せて繰り返す。

「事情?」
「ええ、ですので学園長先生にいくつかの条件付で認めていただいているのです」

にこりと笑って、私はそう言い切った。別に隠しているわけではないし、私の性別も数年前ならいざ知らず今やほぼ周知の事実だが、その事情までいくらなんでも初対面の人間に語る必要もないだろう。
今はここまで、と暗に滲ませた笑顔だったがいまいち伝わらなかったらしく、彼女は顔を曇らせた。

「でもそれって、いいの?」

いいの?と言われても返答に困るんですが天女様。私はこの六年そうして過ごしてきたのだから。
曖昧に笑う私に、天女様は眉を潜めた。
何か言いたげに私を見つめているが、結局その唇からは何も発せられることがなかった。
「それよりも」と話しかけられた方に気を取られた為だが、それ幸いとばかりに、私は目の前の焼き魚定食に集中する事にした。鯖がおいしい。
天女様も天女様で、私に興味を無くしたのか、他の面々と話をすることに夢中になっている。
……あれ、でもこのひとって食堂のお姉さんだよねえ。こんなにバタバタしてるのに、ここで喋ってていいのかな。
カウンターの向こうへ目をやれば、忙しなく働くおばちゃんの姿があるんだけれど。
味噌汁を啜りながらおばちゃんの動きを追うとはなしに眺めていると、目が合った。おばちゃんは仕方ないわねと言うように苦笑を浮かべ小さく首を振った。
まるで何だか諦めているようなんですが。え、何?どういうこと?このひと仕事してないのか?でもなあ、直接本人に聞くのも何か失礼だよなあ。
そんなことをつらつら考えていたら反応が一拍遅れた。

「朔も行くだろ?」
「へ?」
「何だ、聞いていなかったのか?」

仙蔵が呆れたように溜息を吐いた。

「何?」
「だから、次の休みに街へ出ようと話をしていたんだ」
「街?」
「……唯歌さんが……行ってみたいと……」

ぼそぼそと呟くように長次が補足を入れてくれた。

「街、ねえ……」

次の休みは特にバイトも何もなかったなあ。
見るとはなしに天女様へ目をやって、それから私は首を振った。

「ごめん。ちょっと用事があるんだ」
「えー。そうなの?残念だねえ」

お土産買ってくるよと言ってくれる伊作に「楽しみにしてるよ」と返し、私は掻き込むようにして早々に食事を終えた。天女様を中心にお喋りに花を咲かせる友人たちを置いて、足早に食堂を後にする。そうしなければ笑い出しそうだったから。主に苦笑とか失笑とかそういう類で。
あれが天女様だって?
紛いなりにも私とて忍たまだ。六年最弱などという不名誉を戴いていようが、六年間忍の道を学びここまで来た。そうすれば、望もうが望むまいが多少なりとも空気ぐらい読めるようになる。
私に向けられた彼女の瞳には、不信感と敵意とそんなもので彩られていた。
不信感はともかく、初めて顔を合わせたというのにいきなり敵意を向けられる覚えはないんだけれど。最近の女子高生とはそういうものなのだろうか。昔は自分も辿った道だけれど、すっかり褪せてしまった記憶の中から拾い出すことは難しい。

「随分俗物的な天女様だなあ」

軋む廊下を歩きながら零した呟きを聞くものは、幸か不幸か誰もいない。
負の感情を向けられて喜ぶ人間なんて稀だ。残念ながら、私はその稀な人間ではない。そして私は決して優しい人間でもない。敵意を向ける彼女に優しくあれるほど、できた人間ではないんだよねえ。
それでも心のどこかに故郷を同じくする彼女に対する同情心があったのだろう。
直接学園にやって来た彼女はきっと外の世界など知らないだろう。知識として知っていたとしても、それを現実に体験などしてもいない。生まれたての赤子のように無力な存在だ。あの頃の私のように、誰かに傍にいて教え守ってもらわなければ何も知ることなどできない、生きてすらいけないかもしれない。
だから、彼女に関わらない事を選んでしまったのだ。私以外の誰かが彼女に世界を教えてくれるだろうと、放置することを選んでしまった。そうすることで起こりうる事態を知る由もなく。


それがすべての始まりなのだとしたら、元凶は彼女ではなく私なのかもしれない。


(あなたは私と同じものなのでしょう。)

(20110414)

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