この手は何を望んだろう
※死ネタ注意
『みょうじが、消息を絶ちました』
目を伏せながら、同僚が告げた言葉が、耳の奥で響き続けている。
「斜堂先生?」
どうされたのですか?と手を繋いでいた生徒に声をかけられ、斜堂は己が足を止めていたことに気付いた。
不思議そうに自分を見上げる幼い顔に「何でもありませんよ」と笑ってみせたけれど、咽喉の奥に魚の骨が掛かったような不快感と違和感が斜堂には付きまとっていた。
生徒に気付かれないように落としたため息の理由など、先日同僚の教師より得た情報以外にありえなかった。
先ほど入った情報だが錯綜していて真偽の程は確かではないと言ってはいた。けれど斜堂とて忍術学園の教師だ。学園へもたらされた以上、その情報はある程度確かなものであるはずだった。
『現在、捜索隊として木下先生と厚着先生が出向いておられるそうですが……』
何より隠し切れない鎮痛な面持ちが雄弁に語る事実だけがそこにはあった。
告げられた内容に自分はどう返しただろう。曖昧に頷いた記憶はあるが、その辺りはどうにもはっきりしなかった。
その後長屋に戻り、寝て起きて食事をして授業を行い、食事をして風呂に入ってまた寝て。
そうして斜堂の日常は何ら変化を伴うことなく続いている。
今もこうして委員会帰りの子どもの手を引いて、長屋へ戻るのだというその子と一緒に歩いている。
「あ、先生。見てください」
担任同様暗い暗いと言われても、それだけがすべてではない。不意に足を止めたかと思うと、子どもが控えめだがそれでもはしゃいだ明るい声を上げる。
「花が咲いています。何の花でしょうか」
見遣れば、草陰にひっそりと淡い紅の花が開いていた。
「さあ。何でしょうねえ」
私はあまり詳しくないんですよ。
苦笑しつつ答えると、子どもは驚いたように目を丸くした。
そんなはずがあるわけないと、雄弁に語る幼い表情に、斜堂は笑みを深くした。
「斜堂先生でも知らないことがあるんですか?」
「それはありますよ。私もまだまだお勉強をしなければならないんですよ?」
「おとなでも?」
「……ええ。大人でも。生きているうちはね。だから、頑張らなければいけないんです」
子どもは何か考え込むように俯き、じっと花を見つめている。かと思えばパッと顔を上げてひどく真剣な顔で斜堂を見上げた。
「じゃあ、僕も勉強がんばります!」
ぎゅうと力をこめて握られた繋いだ手から、子ども特有の高い体温がじわりと伝わってくる。
その温もりが、生きていることを当然のように斜堂に伝えてくれる。
「……そうですねえ。一緒に頑張りましょうね」
はい!と元気良く頷いた子どもの手を引いて、斜堂は再び歩き出した。
ふと見上げれば、茜色に染まる空が世界を包み込んでいく。直に日は落ちて、世界は夜に沈んでいく。
確か今夜は新月だと、取り留めなく考えた。
闇が濃ければ濃いほど、忍にとっては都合が良い。光の差さないその場所を忍んで行くことこそ有るべき姿といってもあながち間違ってはいないだろう。
けれど、と斜堂は思う。
『あの子』はきっと違ったのだろう。
花の好きな子だった。
陽の光が似合う、あどけない笑顔の可愛らしい子だった。
(なまえさん)
――私、立派な忍になってみせます!
実習に失敗しては、幾つも傷を拵えていた子。
忍務に成功しては、心に傷を拵えていた子。
それでも、目に涙を溜めても、いつも顔を上げて全身でそう叫んだ子。
――先生、斜堂先生!
みょうじなまえ。
くのいち教室の生徒ながら、自分を慕ってくれた教え子の姿が、斜堂の脳裏を過ぎった。
『どうしたんですか?みょうじさん』
小柄な生徒の為に少しだけ体を屈めて顔を覗き込むと、薄く水の膜が張った瞳に自分の姿が映りこんだ。
『聞いてください、斜堂先生』、と微かに震える声が言う。
『文次郎が言うんです。お前は忍になんて向いていない。行儀見習いに留めておけばいいって!』
真白の包帯が幾重に巻かれた腕で、なまえはごしごしと涙の滲む目元を擦る。
そんな風にすれば折角巻いた包帯が縒れてしまうだろうに。それ以前に、強く擦れば元々肌の白い子なのだから目元などすぐ赤くなってしまうのに。
思った通り、腕を離した少女の目元は赤く腫れぼったくなっていた。泣いたせいで赤くなった目と合わせてまるで兎のようだ。
『潮江君が、そう言ったんですか?』
拳が白くなるほど握り締め、唇をぎゅっと噛んだなまえは何かを堪えるように頷いた。
彼女と同い年の忍たまの名に、斜堂はそっと目を細め小さく笑った。
潮江文次郎という少年は、決して不用意に他者を傷つけるような子ではない。ただ少しだけ言葉足らずで不器用なだけなのだ。
(心配なのだとは、言えないんでしょうねえ……)
自分の口から教えたところで、きっと妙なところで頑固ななまえは納得しないだろうし、文次郎もそんなこと望んではいないだろう。
さてどうしたものか、と小首を傾げる斜堂に、なまえは言い募る。
『留三郎も、そうかもな何て言うんですよ。いつも文次郎とケンカばっかりしてるくせに!』
『ああ、ほらそれは、喧嘩するほど仲がいいと言うでしょう?あの二人も本当に仲が悪いわけではありませんよ。それは私よりみょうじさんの方が良く知っているでしょう?』
その言葉に、なまえはぐっと押し黙った。僅かな沈黙の後、なまえはしぶしぶと言った体ながらこくりと首肯した。
『知って、います……』
『ええ』
斜堂は俯いた少女の頭を撫でた。
本当はきっと理解しているのだろう。実技の授業や実習で、大なり小なり傷を拵えてばかりの自分を心配しての言葉であったのだろうという事は。
それでも友人の言葉が許せなかったのは、彼女自身に譲れない目指す場所がある為か。それとも、忍となる以外生きる術を持たない寄る辺なき身の上の為か。
『先生』
『……何ですか?』
『私、絶対に忍者になります!』
真っ直ぐに自分を見つめる瞳は、忍を抱く夜の闇に似ていた。月の欠片のような星が煌く夜のようだった。
『私は、誰にも負けない立派な忍者になってみせます!』
わかって、いた。
この子はきっと、忍となるだろうと。
そしてこの子はきっと、忍には向いていないのだろうと。
「斜堂先生?早く行きましょうよ」
急かすように腕を引く手と、幼い声が斜堂を呼び戻す。
「あ。……ええ。そうですねえ」
「先生。今日の晩ご飯、何だと思いますか?」
「さて、何でしょうねえ」
いつか、あの子と交わしたこともある他愛ない会話だった。
それが何故か、胸の奥を締め付ける。
戦乱の世にあっても、それぞれの人間は各々日常を持ち、日々を過ごしてゆく。
斜堂にとってのそれは、忍の術を稚い子等に授けることであり、子どもたちにとってのそれはこの学び舎で闇を駆ける術を仲間と共に学ぶことだ。
その先に待つものが、決して輝かしいばかりでないことを斜堂は知っている。
それでも。
『いってきます。斜堂先生』
いつものように笑って、実習へ出かけていった少女。
『いってらっしゃい。みょうじさん』
いつものように笑って、見送った自分。
思い出すあの日。それもまた、斜堂にとってのそしてなまえにとっての日常だった。
(みょうじさん…貴女は今、何処にいるんですか?)
早く早く、帰ってくればいい。
きっと彼女はやはり傷だらけで帰ってくるだろう。保健委員長が血相を変えて手当てに走って、会計委員長と用具委員長は「この馬鹿!」と珍しく呼吸を合わせて怒鳴るに違いない。不安げな顔をした体育委員長がその周りをちょろちょとして、図書委員長に窘められて、作法委員長は呆れたように溜息を吐く。
そうして言うのだ。
『お帰り』と。
おばちゃんは温かいご飯を作ってくれるだろう。風呂に入って、布団に包まれて、そうして彼女は眠りにつく。
(みょうじさん。早く、かえっておいでなさい)
ぬるま湯のようなこの小さな世界へ。
早く早く、還ってくればいい。
貴女の日常へ。
さわりと吹いた風が、斜堂の頬を掠める。見上げた空はいつの間にか薄藍に塗り替えられようとしていた。
「あ、一番星ですよ!」
子どもがまるで星を掴もうとするように手を伸ばす。
そんな無邪気さなど自分にはもうないけれど、己の思うがままに手を差し出せるその姿が小さな星のように眩かった。
「……今度」
「え?」
「今度みんなで裏々山へ行きましょうか」
「裏々山ですか?」
「ええ。日向先生にお話してみなければなりませんが、一日課外授業をしましょうか」
野に自生する山菜やキノコを採り、薬草を摘み、そこに潜む方法を学ぶのだ。
そう言えば、子どもの目がきらきら輝いた。
「本当ですか?」
日陰ぼっこもしていいですか?
「そうですね。皆でしましょうかね」
「はい」
こくりと頷いた子に小さく笑い、伸びる影を連れて歩く。
自分の日常はこうして続いていくのだ。
慕ってくれる彼らに自分の持てるものすべてを与えることが、斜堂の選んだ道である限り。
あの子にそうしたように、この子たちにも教えていく。たとえそれが結果傷付け奪うことであっても、己を守り生きて帰ってこられるならば。
別離も痛みも悲しみすら、飲み込んで笑って見せよう。
「明日は晴れそうですね」
空に散り始めた星の数が、晴天を予感させる。
なまえがかえってくるに相応しい日になりそうだった。
そこにまるで太陽があるように、斜堂は手を翳し空を仰ぐ。骨ばって冷たい己の手ですら、これは血の通った人の手だと何故かふとそう思った。
この手は何を望んだろう
(願わくば、逝きて還る君に、生きる術をあげたかった)
企画
戦下に散る様提出作品
(20110525)
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