祝祭の歌

(※過去捏造注意)


久方ぶりに帰宅した我が家は、家主をよく知る者が見れば拍子抜けするような、所謂『普通』の家だった。

「只今戻りました」

どこか他人行儀な口ぶりで帰宅を告げる。と、間を置かずしてぱたぱたと軽い足音が聞こえた。
馴染みある、けれど久しぶりに耳にするその音に、斜堂は知らず知らず口元に笑みを刻んだ。薄暗い戸口と相まって、傍目には不気味な笑みでしかないのだろう。笑っている自分と合わせてそんな点に途中で気付いてはいたが、それは敢えて知らぬ振りを決め込む。

大丈夫だ、彼女なら。……多分。それでも少々気弱なのは、離れて暮らす日々を思ってか。多少の後ろめたさを感じ始めたその時、どん、と軽い衝撃が斜堂を襲った。
咄嗟に飛びついてきたものを抱き留めたが、それが何であるのか理解した瞬間、斜堂は今度こそ柔い笑みを浮かべた。

「おかえりなさい!」

弾む声、そしてぎゅう、と音がしそうな程力を込められた腕。淡い花の香り。

「只今戻りました。――なまえ」

頭を撫でながら、先ほど告げた帰宅を繰り返せば、腕の中の女――なまえは嬉しそうに笑いそうして彼女も繰り返した。

「おかえりなさい。影麿」

久しぶりに感じる温かさとくすぐったさ。それは離れているからこそ味わえるものなのかもしれない。帰宅する度に、斜堂は彼女を一人にする少しの申し訳なさと共にそんなことを思う。
そんなことを思う斜堂の袖を、なまえは急かすように引く。

「ちょうどさっきお饅頭を買ってきたの。蒸かしたてだから温かいですよ」

だから早くと楽しげに斜堂をせっつく。
二十を少し越えたはずだが、未だに十代の少女のように愛らしい姿に、気付けば、斜堂はその細身の身体を腕に閉じ込めていた。苦しくないようにと気をつけて抱きしめたはずだが、腕の中から不思議そうな声が彼を呼んだ。

「影麿?」

影麿、と斜堂を名で呼ぶ者は少ない。殆どいないといってもあながち間違いではない。その数少ない人間の中で、彼女は間違いなく筆頭だった。
と言っても、その呼び名が現在に至るまでには少々ややこしい変遷があったのだが。

出逢った当初からなまえ「様」と呼んでいた少女をなまえと呼ぶようになったこともそうだが、初めにそれを言い出したのはなまえの方だった。曰く、市井に暮らす年下の娘が親しい年上の異性を呼び捨てにするのは可笑しいのではないのか、とどこで聞きかじってきたのかわからない一般常識を持ち出してきたのである。
言い出したからには実践あるのみとばかりに、なまえは斜堂の名に付ける敬称を模索し始めた。さすがに斜堂さんでは変だというのが主張だったが、影麿「さん」だとか影麿「殿」だとか、果ては影麿「様」など、なまえも一時は呼び方で苦労していた節がある。けれど先に違和感に根を上げたのは呼ばれる斜堂本人だった。


『もう勘弁してください』


なまえが影麿「様」などと言い出した時には、さすがに平伏して訴えた。影麿でいいからもう本当に止めてくださいいたたまれなさ過ぎます!
ほんの僅か数ヶ月前まで主であった存在に『様付け』で呼ばれるとかコレは一体なんの罰なのか。気恥ずかしいではなく心苦しいといった方面で何かの針が振り切れる。
半ば悲鳴混じりの懇願に、なまえは不思議そうに首を傾げ『でも…』と世間の常識でもって打ち返してきた。

『でも、世間では背の君を呼び捨てになどしないでしょう?』
『せッ……!?』

その言い分には斜堂の声が盛大にひっくり返った。
背の君?せのきみ、セノキミ、背の君?気のせいだろうか、何かすごい単語を聞いてしまった気がする。伴侶を指す言葉にそんなのがあった気がするけれど、まさかそれではあるまい。斜堂が知らないだけできっと他に同音異義語があるに違いない。いや不勉強とはこの様な時に心臓に悪い事態を招くのかひとつ学んだ……等々。そんな思いが秒速で脳裏を駆け抜ける程度に混乱する斜堂を余所に、当の問題発言を投下した本人はきょとんと目を瞬かせただけだった。

『どうかしました?』
『……!どうかしましたよ!貴女のような方が軽々しくそのような言葉を口にされてはいけません』

まさに言い聞かせる口調で諭す斜堂に、なまえは可笑しそうに笑った。

『私のような、も何も、もう私はただの『なまえ』でしょう?』
『――ッ』

生まれも身分も、既に無いもの。彼女が失ってしまったもの。暗に彼女はそう言った。それを誰より知り尽くしているはずの自分がそれを言わせた。その事実に猛烈な後悔が襲ってきた。しかし押し黙る斜堂を余所に、なまえは別の角度から更なる追い討ちをかけてきた。

『それに一つ屋根の下で暮らす男女を世間では『夫婦』と呼ぶのではないのですか?』
『ち、違いますッ!』
『違うのですか?』
『同じ屋根の下で暮らす男女にも様々な形がありまして、なまえ様もご存知でしょう!?主と女中……はこの場合違いますね……。えー…。……えー……と』

何故だか例えが全く思いつかない。先ほどとは別の意味で斜堂はだらだら心の汗をかきつつ必死で頭を動かした。普段からあまり良いとは言えない顔色と相まって、妙例を探しぶつぶつと小声で呟く姿ははっきり言って結構不気味だった。

『影麿?』
『…はッ!ほら、例えば姫と下男とか!』
『下男ですか?でも下男は主を養いはしないでしょう?』
『…………』

どうしてかこの日は一向に反論が浮かばなかった。後々考えても不思議としか言いようがないのだが。

『それに、私にはもう貴方に守ってもらっても返すことができないのですもの。……心以外何もあげられない』
『そんな…そのようなことは…』
『いいえ?こんな私は貴方の主ではあれないでしょう?』

斜堂は黙って頭を振った。そんなことはないのだと、伝えたかった。わかって欲しかった。
何を代償とできるのか、ではない。ひとはそれに膝を折るやもしれないけれど、それに忠節を誓うわけではないのだから。

初めて城に上がったのは、十六の頃。
今でもあの頃を思い出すと斜堂は首を傾げる。まだまだ小僧の域を出ない未熟な忍だった自分が、どうして彼女の護衛を任されたのか。
彼女は愛らしい少女だった。
城主と正室との間に生を受けた一人娘。姫と呼ばれ傅かれるやんごとなき身の上。切り揃えられた艶やかな黒髪と、長い睫毛に縁取られた瞳はまるで磨き上げた黒曜石のよう。
愛される為に生まれてきたような、齢八つの姫君。身体が弱く臥せりがちだった彼女にせがまれて語ったお伽話は数知れず。その先に、今の自分があることは確かで。
そんな彼女を連れて焼け落ちる城から逃れたのは、それから七年の後のことだった。
あの頃は、こんな日々を想像することすらなかった。けれど――。

心など、それこそ本当に大事な人が現れた時に取っておくべきだ。自分などになど勿体無い。そんな綺麗なものを受け取る資格など、きっと自分にはありはしない。

『影麿』

彼の主はそっと己の忍を呼んだ。斜堂はそろそろと視線を上げた。彼の方が随分と長身なのに、どうしてか二人で向き合えば大概斜堂はなまえを見上げている。それはまるで二人の関係そのもののように。

『なまえ様』

情けない声で斜堂は主を呼んだ。幼い主。幼く愛らしい、彼の『姫君』。
なまえは白い手を伸ばした。ここ数ヶ月――たった、と言えてしまうその間で以前では考えられなかった傷の増えた手。その指先が斜堂の頬に触れた。
傷だらけの手を厭うでも嘆くでもなく、どこか誇らしく笑うその強さを、斜堂こそが誇らしく思っていた。影が際立つには強い光が必要で、影(自分)にとっての光(それ)は彼女そのもの。
大切な、幼い姫様。
斜堂を見つめるその顔に、彼の知る幼さは既になかった。

『影麿。私はね』

いつの間に、成長したのだろう?いつの間に、こんなにもお美しくなられたのだろう?その眩さに、斜堂は目を細めた。

『私は、もう『なまえ』でしかないけれど、唯一の持ち物であるこの心だけは決して渡さないわ。――唯一の人以外』

そうしてそれは。

『できるなら、貴方がいい』

言って抱きついてきた彼女の耳朶が真っ赤に色付いていた事を今も覚えている。

「……影麿?」

腕の中でなまえが斜堂を呼んだ。
肩口に額を預けるようにして動かなくなった彼を訝しく思っているらしい。

「どうかしました?」

具合でも悪いのかとだんだん不安げな色を帯び始める声に、さすがに顔を上げた。

「大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ?」

ただ、少し昔を思い出しただけです。穏やかにそう告げれば、大きな瞳を丸くして、なまえは「昔?」となぞった。

「どんなこと?」
「まあ色々、です」
「色々、ですか?」

ふふ、と笑う斜堂に、なまえは首を傾げる。学園の彼を知る者が見れば驚愕しそうなほど、穏やかな微笑だったが、なまえが驚くことはない。
『怖い?影麿が?どうして?』と真顔で尋ね返すような人間である。この時もなまえは「それってどんなことですか?」と問い返しただけだった。

「知りたいですか?」
「ええ、とっても!」
「そうですねえ、ではお茶でも飲みながら話しましょうか」

その一言になまえの顔が輝く。早く早くとせかす彼女に背を押されながら、斜堂は奥へ足を向けたのだった。


祝祭の
(何よりも愛おしく響く日々へ)
(20120410)

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