蓮咲寺朔という人間は、一度懐に入れた者に対して本人は否定するがかなり甘い。それが自分に懐く後輩であるのなら尚のこと。

じとりとした目を向ける小平太に、朔は諦めたようにため息をこぼした。

「何だい小平太」

言いたいことがあるなら言えばいいじゃないか。
文机に向かい書き物をしていた手を止め、朔が振り返る。面倒くさそうなその顔に、面白くないのは小平太だった。

「……ずるい」
「は?」

小平太の口から転がり出た一言に、朔は目を丸くして首を傾げた。

「何が」
「五年生だ」
「五年?」

意味がわからないとばかりに、朔は小平太の言葉をなぞる様に繰り返す。

「だって朔、お前今日は忙しいと言ったじゃないか」
「……ああ、うん。言ったね」

今日中に委員会の報告書を書き上げてしまわなければならない。それは確かだ。頷く朔に、小平太は「なのに」と唇を尖らせる。

「なのに五年と約束してるんだろう?それが終われば、一緒に街へ行くって」
幼い子供のようなその仕草に、朔が小さく苦笑する。
「そうだよ?それがどうかした?」
「私とは一緒にバレーをしてくれないのに!」

せっかくの晴天、せっかくの休日。だから一緒に遊ぼうと誘ったのは朝食後だった。ウキウキしながら声をかけてみれば、少しだけ申し分けなさそうに無理だと言われた。それが委員会の仕事のせいだとわかれば、不承不承でも諦めはついた。自分も体育委員会委員長を務める身だ。委員長としての責務は理解している。
問題はその後だった。丸一日仕事に掛かりっきりかと思えば、午後からは五年連中と過ごすのだという。
面白いはずがない。
やれやれと、朔は小平太に背を向けるようにして再び文机に向き直った。

「そんなに暇なら、文次郎か長次でも誘ってみたら?」
「……朔は?」
「だから私は今日は無理だってば」

振り返らない背中がますます面白くなくて、小平太は朔へ近付き半ば無理やりその膝の上に頭を乗せた。

「…小平太」

書きづらいんだけど?
暗に邪魔だと言いたいのだろうが、そんなことは知ったことではない。朔が悪い。

「だってそうだろう?私が誘っても忙しいって言うのに、五年の相手をしてやる時間はあるんだろう?」

口を尖らせて不満を零せば、眦を下げて「だって仕方ないだろう?」と諭すように続ける。それは大概こういう場合では常のことで、しかし何と言われるのかわかっていても不満を飲み込む理由にはならなかった。

「だって三郎たちと先に約束してしまったんだもの、仕方ないじゃないか」

まるで頑是無い子どもをたしなめる親のような口ぶりで、朔は仕方ないと言う。
小平太は、その膝に顔を押し付けた。

「朔は私たちより後輩の方が大事なんだ」
「……あのねえ」

本当に呆れたような声が「小平太」と名を呼んだ。

「何でそういうことになるのさ」

ことん、と筆を置く音がする。かと思えば、小平太の髪を梳くように掌が頭を撫でた。

「後輩が可愛いのは私だけじゃないだろう?小平太だって、他の皆もそうじゃないか」
「…………」

確かに後輩は可愛い。だけどこれはまた別の話である気がする。
たった一つ違いの後輩たち。「朔先輩」と、暇があれば朔に甘えるその姿が不意に浮かんで、小平太は思わず顔を顰めた。

「何。どうしたのさ」

絡んだ髪を解くように、朔の指が動く。
密着しなければわからないほど微かに香る少しだけ甘い匂いは、朔の匂いだった。
小平太は目を細めた。

自分のものとはまるで違う、細い指先。だけどくのいちたちが挑発的に気まぐれに伸ばす指のような、警戒心を煽るようなものともまた異なるそれ。
ちらりと目を上げれば、自分を見下ろす朔の視線と出会った。
どうしたのと小首を傾げた朔は、怒っているわけでも煩わしげな顔をするでもない。仕事の邪魔をしようと幼子のように駄々を捏ねようと、結局朔は大概にして怒らない。

――だからだ。

小平太はふいと視線を逸らし、朔の腰にしがみつくような形で顔を伏せた。

「小平太?」

不思議そうに朔が呼ぶ。甘い匂いと指先。制服越しに伝わる体温。じわりと沁み込むその全て。

「……明日」
「ん?」
「明日は私とバレーをしよう」
「うん。いいよ」
「次の休みには街に行こう」
「街?そうだね。久しぶりに一緒に行こうか」

柔い声が降り落ちる。自分たちのように低いわけでも、巷の少女たちのように華やいだ声でもない。それは、『朔』の声だった。

「約束だ」
「約束ね」

指きりでもしようか。からかい混じりにそう言って、朔は小平太の手をとった。指を絡めて歌を口ずさんで、下級生の頃から変わらない、他愛ない約束の証。たったそれだけで、満足している自分がそこにいる。
朔は甘い。後輩にも、そして懐に入れた人間にも。何だかんだと言って、理由なく突き放す事もなく厭うわけでもない。

――だから、あいつらは、朔に懐くんだ。

ちりちりと胸の奥を焦がすような名も知らぬ感情を持て余す。だけど朔は約束をくれたから。

「約束だぞ」

繰り返した言葉に、朔は笑って頷いた。


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