痩せて薄汚れた小さな身体。肩まで伸びた髪は不ぞろいで、前髪など目に掛かるほど伸びている。ずいぶんとくすんだ小麦色だが、その間から覗くマルコを見つめる瞳は深く澄んだ青。 海の色だと、そう思った。 「洗ってやれ」 絶対の船長命令で下された二つの事項、その一つは単純で簡潔だった。 だからマルコはそれを実行せんと風呂場へ直行した。断じてこれ以上あの場にいたくなかったとかそういうのではない。断じて。 彼が小脇に抱えた子どもに興味や揶揄の声が先ほどから引っ切り無しに掛かるが、綺麗に無視した。というか早々に諦めた。この船でなくとも海賊船に子どもなど、目立たない方がおかしいのだ。 本日一体何度目になるのか、最早自分でもわからないため息を吐き、風呂場の扉を乱暴に開けると蝶番が情けない悲鳴を上げた。子どもは不思議そうにマルコの腕の中から周りを見回している。 出逢ってやっと一時間ちょっと。その短時間のなかでマルコが学んだ事はいくつかある。 この子どもは元々の性格なのか人見知りも物怖じもしない。白ヒゲの目の前にぶら下げられた挙句、膝に落ちてもにこにこ笑っていた。一部始終を見ていたマルコの方が、内心少しひやりとしたがその程度だ。 あの船長に対してそうなのだから、マルコが普段通りに振舞った所で別段怯えもしなければ泣きもしない。それに気付いた彼はとっとと「できるだけ優しく」を心がけることを止めた。面倒すぎる。自然体が一番だ。 広いとは言いがたい浴室だが、特別に許可を得て入ったここは白ヒゲ海賊団では珍しくもないナースたちが主に使用する所謂「特別室」である。普段マルコたちが使うそれとは、分類としては同じものであるはずだが、入った瞬間にまず匂いが違った。 微かに香る潮の匂いと石鹸の匂いが混じり、浴槽にはたっぷりと湯が張られている。昼を少し過ぎた所というこの時間、準備が整っている浴場はここくらいだと直行してみたはいいが、何だか自分とこの薄汚れた子どもには場違いなような気がした。少しだけ。 「まあそんなこと、どうでもいいかい」 とりあえず、目の前の目的を果たす事が先決だ。乾いた床の上に子どもを降ろし、マルコも目線を合わせるように屈みこんだ。 「ほら、風呂に入んだからその服脱いじまえよい」 子どもはきょとんと首を傾げる。 その瞳に微かな戸惑いが滲んだのをマルコは見逃さなかった。 「あー…、まだひとりじゃ無理ってかい」 密航までしでかしたくせになあ。 まあ仕方ないかとも思う。先ほど聞いた言葉を信じるならば、まだ五つ。仕方ないで辛うじて許される年齢だ。 「ほら、腕上げろー」 言われるままにばんざいをしたのを確かめて服の裾に手を掛ける。 ちっとも楽しくはないが、楽しめていたら変態だ。 子どもが着ているそれは所々にほつれが目立ち、痩せた身体の割りには大きなものだから細い身体を余計に貧相に見せていた。 新しいものを用意しなければならないが、それまではどうするべきかとつらつら考えながら、子どもの首を服から抜いて、何気なく視線を戻したマルコは一瞬固まった。 「……お前……女だったのかい」 「?」 何ということだ。子どもで、しかも女の子! 「俺が一体何をしたってんだい……」 その場で崩れ落ちそうになった自分を誰が責められようか。部下に見せられない姿ではあるが。 刺激があって何ぼの海賊稼業。しかしこんな意味で目まぐるしすぎる展開は求めていない。 「いくら親父の命令だっても…これは断れ…ねえよな…」 船長命令は絶対。それは船員にとって等しいことで、マルコといえど突っぱねることは難しい。 それをわかっていて親愛なる親父殿は言い放ってくれたのだ。 『お前が面倒みてやれ、マルコ』 密航だろうが迷子だろうが、船に乗った以上、捨てるわけにもいかない。 にこにこ笑う子どもがお気に召したのか他の何かなのか、とにかく何でそうなるという反論も許さずに、白ヒゲは一言こう言った。 『ガキが一匹増えたなあ』と。 (育てる気満々かい)と呆れはしたが、白ヒゲの元に連れて行ったのは自分でありそういう展開を全く予想していなかったわけでもない。だからその決定自体にはまあ納得した。海賊船で子育てなどというアンバランスにしてミスマッチな響きも、ナースが山と乗り合わせているこの船であるなら何とかなるだろうとも思った。だから次の一言は想像していなかったのだ。 『お前が拾ったんだからお前が面倒みてやれ、マルコ』 『は?』 そんな犬猫を育てるんじゃあるまいし。 これだけ女がいて何でわざわざそんなことを。 マルコが表情も変えずまじまじと白ヒゲを見ていた間に、わずかな常識人たちがそんなことを言っていたような気がするが、すべて無駄に終わった。 船長命令。その一言の元、子どもの保護者は決定したのだ。 だから断れないし、覆されない。 「どこでどうするとこういうことになるんだろうなあ…と、悪い悪い」 頭が痛くなるような現実にマルコを引き戻すように、小さなくしゃみが響いた。 いくら風呂場でも素っ裸で放置されて寒くないはずがない。とりあえずはこの子を洗ってやる事が最優先だなと、適当に湯の温度を確かめながらマルコはふと気付いた。 「そういや、お前の名前は?まだ聞いてなかったよなあ」 始めにすべき事はそれだったのではないかと思ったが今更だ。 「……なまえ?」 にこにこ笑うし物怖じしない割りに、口数が少ない子どもの顔を覗き込む。髪も切ってやるべきだろうか、その前髪はえらく邪魔そうだ。 しばらく待ったが、子どもは口を開かない。 「何だい。無いのかい、名前が」 ふるふると子どもは首を横に振る。 「んじゃあ、なんだい」 青の瞳はジッとマルコを見る。何かを探るように、推し量るように。 吸い込まれそうだと思った。その小さな海に。 柄にも無い。 「……リオ」 「あ?」 小さな小さな声に思わず聞き返す。 「リオ?…って言ったのかい」 こくりと子どもは首肯する。 「俺はマルコだよい。その何だ、これからしばらくよろしくな。リオ」 しばらくって一体いつまでだとか、何だこの状況はとか、突っ込みどころが多々あるのはご愛嬌ということにしていいだろうか。 ぐしゃりと髪を撫でて名前を呼べば、子ども――リオは擽ったそうに笑った。 >小さな海に出逢った日。 (20190417再掲) |