黒に歪む

お昼時を少し過ぎた頃。
平日のこの時間でも喫茶アルプスは人で賑わうのだが、いつもより人が少ない。お陰で昼休憩が早めに取れた莉子はバックヤードで作ってきた弁当をレンジで温めていた。
背後にあるテレビがついたらしい。いつもの昼時にやっているニュース番組のアナウンサーの聞き慣れた声が室内に響き渡る。

『こちらの薬について、詳しく解説をいただけますでしょうか…』

ここでレンジが軽快な音と共に動作が止まった。莉子は温めた弁当を取り出して椅子に座る。向かいにはレポートと格闘する皆川がいた。
シフトは今日の17時からだが、本人曰く『誘惑が多い家にいるよりはここが集中できる』らしい。ただ、お昼時の空気が流れているバックヤードで流石に集中力が切れたのか、テレビに反応して振り返る。

「なーんか朝からこの話で持ち切りですよねえ…なんかすごい薬なんですっけ?」
「皆川先生は論文の進捗、いかが?」
「まあなんていうか、ボチボチですねえ」

皆川はそう言って苦笑いしつつ、伸びをした。
きりがいいところまでは進んだから昼にするかとタブレットパソコンを畳み、小難しいことが山ほど書いてある資料を閉じて重ねる。気持ちを切り替えたら腹が減ってきた。

喫茶アルプスのバックヤードにある冷蔵庫にはサンドイッチが入っている。
店頭で出していたが消費期限が近くて客に出せないもので、こうしてバックヤードの冷蔵庫にいれて従業員が自由に食べていいことになっていた。
それを取り出すと手を洗い、皆川も昼食を食べ始めた。賞味期限が切れているらしいが、皆川は構わない。特段不味くなっている訳でもないし、その上お昼代が浮く有難い代物だ。

「あ、そういえば莉子さん。昨日からキャンペーンの試運転が始まったの、引き継ぎノートで見ました?」
「…利きコーヒー、だっけ?」

莉子は箸で持っていた野菜を口に入れると机の隅にあった引継ぎノートをめくる。ここには従業員間で共有する情報が書かれていた。一番最後のページには『利きコーヒーキャンペーン開催中!』と書かれたポップが挟み込まれている。
そういえば、最近あまりデスク仕事をしない相良がパソコンに向かっていたなと気付く。そうかこのポップを作っていたのか――絶妙な出来栄えのポップを見ながら莉子はその後ろ姿を思い出していた。
まだ試運転の段階で、今回数人の客にやってみて評判が良ければ本格的に始めるという話なので、このポップが日の目を浴びる日は来ないかもしれないが。

「いやまあ、企画自体はいいと思うんですけど、いかんせん、その、お客さんと店長の熱量が、その…」
「あぁ…」

喫茶アルプスの店長、相良はとにかくコーヒーが好きだ。人柄も穏やかな性格で物腰の柔らかさから親しみやすい人ではあるのだが、欠点がその「コーヒーが好きすぎる」という点だ。
他の事柄に対してはそうでもないのだが、コーヒーにまつわることを聞いたら最後、とんでもない物量のレスポンスが返ってくる。皆川曰く「オタクの悪い部分が出ている」そうだ。
彼に店長が変わった時に『チェーン店ではあるが、店長の個人的な趣味と愛情でコーヒー豆にこだわる』という方針に切り替わった時にはそれほど好きなのかと少し感動していた莉子は初日、うっかり相良にコーヒーの事を聞いてしまったが為にその後長い時間話に付き合わされ(拘束され)てしまったことがある。
その後めちゃくちゃに希少だという豆(莉子自身興味がなかったので名前は憶えていない)が手に入った時、その匂いに感動して倒れたときはさすがに『これはやばい人だ』と思ったものだ。
そんな相良がこのキャンペーンでお客相手にコーヒーの話を延々とする姿はすぐさま想像できる。

「穏やかなお客さんだといいけれど、ここは血の気の多い人が多い街だからなあ」

それでもそれなりの年数をこの街この店で店長をしてきた人物なので、人柄としては信用しているがそこに『コーヒー』がかかわってくると一気にその信用は消えていく…気がする。
莉子は事務所の壁にかかっている時計を見やった。いつもこの時間ならそろそろ昼休憩に来るはずの相良がまだ来ていない。食べ終えた弁当箱を持つと流しへ向かう。少しまだ休憩時間は残っているが、キャンペーンで相良に捕まっている客がいたら少し可哀そうだ。

「私、すこし早めにお昼を切り上げちゃうね。様子を見てくる。レポート、頑張って」
「さすが莉子ねえさん!夜はオレが監視しますね」

調子のいい皆川の言葉に莉子は笑いつつ、バックヤードを出た。



(あら、さっそく被害者が)

バックヤードから店内へ出てすぐにあるカウンター席に相良はいた。捕まっている客は男だ。年齢は三十代くらいだろうか。黒革のライダースジャケットを着た男は真面目に相良の話を聞いていた。
莉子は制服であるエプロンの紐を結びながら相良へ声を掛けた。

「相良さん、お昼休憩ですよ」
「おや、そんな時間でしたか」
「ええ、そんな時間です。代わりますよ」
「それなら大丈夫です。こちらのお客様は見事正解されましたので、あとは参加賞をお渡しするだけです。それでは私はここで。ご協力、ありがとうございました」

相良はそういって莉子と入れ替わるようにしてバックヤードへと入っていった。
入れ替わった相良と一緒にこちらを向いた男へ莉子は笑いかける。

「正解、されたんですって?おめでとうございます」

そのままキッチンにある冷蔵庫から景品であるミニケーキを取り出して渡す。
男は愛想良く笑うとケーキを1口、口に入れて息をつく。ため息のようなそれに莉子は笑った。

「…もしかして、だいぶ店長に捕まっちゃいました?」

『捕まる』の単語に男は少し考えたあと、取り繕うのを辞めたのか苦い笑顔を浮かべた。

「まあね。相良さんがすごくコーヒーに情熱を注いでるってのは分かったかな」
「やっぱり…この企画、まだ試運転の段階で評判が良ければ本格的に…しない方がいいかしら。その顔」
「いや、その時は是非他の人に機会を譲るよ」

そう言って男はケーキへ視線を落とす。ぼんやりしたような、物憂げななんとも言えない表情に莉子は思わず会話を続けてしまった。
いつもなら客へ深入りはしないのだが、その時だけは聞いてみたくなったのだった。

「今日はお仕事、お休みなんですか?」
「ああ…いや、なんというかその仕事を探している途中というか…」
「探している?」

どこか自嘲気味に笑う男はそういうと、自分の隣の席に目を落とす。
そこには紙束が無造作においてある。ずいぶん枚数があるようで厚みのあるその束の一番上を莉子は、カウンターから身を乗り出しながら黙読したつもりだった。

「八神探偵事務所…あら、探偵さんなの」
「まあ、といっても猫探ししたり不倫調査したり…といった具合の何でも屋みたいな感じですけど。最近立ち上げたばっかりで宣伝中でして…よかったらこちらどうぞ。無駄にたくさん刷ったので。ビラだと邪魔だろうし」

男はそういって胸元から四角い箱を取り出す。
そこにはびっしり名刺が入っていた。その中から一枚取り出すと、莉子に差し出した。

「八神…所長さんって呼べばいいのかしら」
「その肩書は形式ですよ。八神で大丈夫です」
「ふうん、八神さんはどうして探偵に?」

それはほんの好奇心から出た言葉だった。
しかしその問いかけがまずかったのだと少しの沈黙で気付いた莉子は慌てて名刺から八神へと目線を動かした。八神は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そして、

「これなら、何か見つけられるかな…とか」
「ごめんなさい、なんだか――」
「探偵さんって何かを探す側じゃないですか」

立ち入ったみたいと謝る言葉は昼休憩を終えた相良の言葉とぶつかって消えた。
八神はその言葉に笑う。

「それはごもっとも」
「…にしても…そのビラ、まさか全部配るおつもりで?」
「まあ…あとはどこかにおいてもらったりとか。あては一か所だけあるんですが」
「でしたら少しうちにおいていかれたらどうですか。利きコーヒーキャンペーンの試運転手伝いのお礼です」
「それはぜひ、ありがとうございます」

八神のビラの束から三分の一ほど取った相良は入り口近く、ほかの飲食店のビラなどがおいてあるラックの一番上に八神のものも加えた。

「新しいお仕事、頑張ってくださいね」

莉子にそう言われた八神はぐいと残りのコーヒーを飲み干す。その顔は何か決意したような顔だ。

「ええ。頑張らないと」

コーヒー代を払って店を後にする前に八神の背中をなんとなく見送る。
何かを見つける新しい道なんて、自分にはそんなものがなかった。ただ、それでもがく事には覚えがあるような気がする。




日はすっかり暮れている。
ネオン煌めく色とりどりの光を避けるように、ひっそりとその廃ビルは裏路地に立っていた。そのビルの暗がり――もっと暗いところに黒岩はいた。
どれくらいそこにいただろうか。やがて足音が二人分近づいてくる。一つは見知った人物のものでもう一人は知らない足音だ。

「なるほどなるほど…違うお顔のお噂はかねがね聞いておりましたが…まさか初めてお会いするのがこんなお顔だとは」

作った笑顔を張り付けた小柄の男と羽村がやってきた。
黒岩と目が合った瞬間、上質そうな黒い革の手袋をはめた男の手が、アタッシュケースの持ち手を不安げにぎゅっと握ったのを見逃さなかった。もっとバックにいる何者かの使いっぱしりといったところか。身なりはいい。事前にあった『大口の仕事が舞い込んだ』という羽村の言葉は嘘ではなさそうだ。
黒岩は男を一瞥した後に、羽村へ視線をよこす。羽村は居心地悪そうにしたのちに、一言。

「クライアントだ。以前、創薬センター副所長殺しを依頼してきたのもここから依頼を受けた」
「…で、次は?」

殴った時のあの感触を思い出して黒岩は拳を握り、ほどく。
それに気付かない小男はへらへら笑って羽村の言葉に続ける。

「次は殺しのお仕事ではありません。共礼会に所属するヤクザを攫い、所定の場所まで連れて行った後に、死体を処理してほしいのです」
「所定の場所で殺せと?」
「いえ、今度はあなたが手を下す必要はありません。所定の場所まで攫っていただけましたら、こちらからご連絡申し上げます」

その時には攫ってきた人間は物言わぬ物体になっている。
誰も言葉にしなかったが、「連絡をよこす」の後にはそんな言葉が続くのだと理解ができた。羽村は居づらそうに体を動かしている。
共礼会とういうのは関西からこっちへ進出を目論むゼネコンの兵隊だったはずだ。
なぜ、という疑問はあったがそこを追求したところでこの仕事を受けることには変わりないし、特に追求するつもりもなかった。興味がないからだ。

「共礼会の奴ならだれでも構わないのか?」
「構いません。死体の処理方法もお任せいたします。ただ、共礼会のメンバーということは徹底してください」
「いつからだ?」
「それはこちらから羽村さん経由でご連絡を。その際に連れてくる場所の指定もいたしますので、改めてお会いできたらと」

おい待て、と今まで黙り込んでいた羽村が割って入る。

「その連れてく場所ってのはあいつにだけ教えるのか」
「……ええ。秘密は抱えている人数が少ないほどリスクも少ないので」
「分かった」

複雑そうな表情の羽村を小男は一蹴し、その後に黒岩へ視線を戻す。

「……聞かないのですか」
「何が」
「報奨金の金額のことを」

黒岩は鼻で笑った。

「前の仕事で羽振りがいいのは知っているからな」
「…そうですか。我々としても詮索がないのはやりやすい。よいパートナーとなれますよ、お互いにね」


小男が去っていく。
ゆっくり闇へと消えていくその背中を見つめながら羽村は呟く。

「一億だとよ……幹部とかでもなく、ただの下っ端一人攫うたびに一億」

黒岩は何も言わない。
やがて沈黙に耐えかねた羽村は黒岩へ向き直ると吐き出すように言葉を続けた。

「何も聞かねえのかよ! 理由とか、あいつらの正体だとかよ!」
「聞いてどうなる? 今更怖くなりましたからやめますとでも?」

黒岩も羽村へと体を向ける。
いつも威張り散らしているその姿はひどく怯えていた。

「お前、怖くなったんだろ。自分に教えられない情報が、ましてや俺だけに与えられる情報があるってのが」

軽い気持ちで受けた受注先が思いの外巨大な組織だったが、彼らに対して羽村には「黒岩とコンタクトが取れる」という役割であり、武器があった。
しかし今回、小男との場を設けたことで彼らが直接黒岩とやり取りができるようになり、それが使えなくなってしまった。
つまり、羽村はどうしようもなく怖いのだ。いつ彼らから「次の標的は羽村だ」と黒岩へ直接命令が下る可能性もなくはないことを。

「お前、今までやってきた事を考えてみろよ。これから起こりうる死に方に、病院のベッドで愛する家族に見守られて死ぬって選択肢があるとでも?」
「……お前もだぞ。お前も、あの莉子って女もそうだ」
「そうだろうな。あいつとはお互いロクな死に方でもいいって話で契約してる。お前、あいつに何したらそんな恨まれるんだ?」

羽村は何も言い返せなかった。
黒岩はしばらく待って、言葉が返ってこないのを確認したのちに廃ビルを後にした。
羽村はしばらく、そこで動けないでいた。




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