幸せな食卓は骸の山の上

くるくると器用にペンを回しながら綾部はちらりと、斜め前の一列挟んだその先にあるデスクに座る黒岩を見やる。
事務の女が黒岩へ何か話しかけたらしく、整った顔に女受けの良さそうな笑みを浮かべながら短く二言、三言答えている。ちらりと聞こえた限り何ら大した事のない話で、黒岩へ話しかける口実といったところか。事実、女は熱っぽい視線を黒岩に向けていた。

「相変わらず、気に食わないねぇ」

ようやくペン回しをやめたかと思えば、椅子を引いて浅く腰掛け直し足を組んだ綾部は回していたペンを机に放り投げる。一連の流れを見ていた桜庭はとうとう自分の手を止めると綾部を睨んだ。
先ほどから持っている、と言うより指先で遊ばせていたペンで仕上げなければならないはずの報告書が未だに白紙だ。

「人に文句言う前にお前は自分の事をしっかりやるんだな」
「だいたい、このデジタルに移行してこうってご時世にわざわざ手書きで報告書出せってのがおかしいんだよ」
「じゃあお前、手書きじゃなかったらやったんだろうな?」
「やると思うか?」

綾部は悪びれもせずそう即答すると椅子を座ったまま左右にゆらゆらと揺らした。右に左にと椅子と揺れる綾部を見ると途端に自分も馬鹿馬鹿しくなってくる。下がるやる気のゲージと戦いつつ、報告書を埋めるためのあと数行をひり出しながら桜庭は呻く。

「お前も少しは黒岩さんを見習うんだな」

今や極道と呼ばれる反社会的勢力が淘汰されつつあるこの時代でも、関東一番の極道組織である東城会の根が張り巡らされたこの街、神室町は未だに彼らの街であることには変わらなかった。だからこそ、いつだってこの街は極道達の争いに巻き込まれ踏み荒らされてきた。
彼らには彼らの生き方だかポリシーやらがあるにせよ、所詮は正しい道から反れた集団だ。法治国家の元で許されるべきではない――これが桜庭の認識であり、神室署の中でも一際危険の伴う組織犯罪対策課へきた理由だ。

そんな混沌とした街を管轄に持つ神室署の組織犯罪対策課で徐々に頭角を現したのが黒岩満という男だった。
極道相手に怯むことなく毅然と立ち向かい、確実に検挙していく。彼がひとたび捜査の指揮を取ればどんなに頓挫していた事件でも必ず検挙に繋がっていった。文字通りにうなぎ登りの検挙率にたちまち噂は広がり、今や神室署内にとどまらず本庁でも黒岩の評価は高い。

「俺もああなりたい」
「分かんないぜ、ああいう奴ほど裏があんだよ」

思わず零れた独り言を拾われた上に、きっちり嫌味な返事が返ってきた。報告書を書き終えた桜庭は顔を上げて声の主、綾部を睨む。相変わらず白紙の報告書を前にした綾部はヘラヘラ笑って黒岩を一瞥した。黒岩は何やら書類に目を通している。

「知ってるか?だいたい、人間って生き物ほど完璧なんて言葉から遠いんだよ」
「お前が言うと説得力あるが黒岩さんみたいな人だっているんだよ」
「そうかねぇ、」

その後の言葉は「黒岩さん!」という事務の女の大きな呼び声で消えてしまった。声につられて綾部、桜庭も声の方を見れば、何やら部屋の入口あたりに事務の女ともう一人、見覚えのある女がいた。明るく短い茶髪をセンターで分けている女はたちまち自分に注目が集まった事に少し苦笑いしている。そんな女に黒岩は顔を綻ばせて立ち上がった。

「莉子。どうしたこんな所まで」
「ほら、だってあんなに素敵な奥さんと結婚してるんだぞ」

妻へと駆け寄る黒岩の背を目線で追いかけながら桜庭は綾部に言い聞かせる。綾部は肘掛に肘を着いて手に顎を預けながら心底どうでも良さげに「まああの人はいい人そうだけどよ」と呟いて目を逸らした。

「結婚してもう二十年くらいは経つんだろ?奥さんは優しいし、黒岩刑事だって時間が合えば必ず迎えにいって一緒に帰ってるんだ。何をどう考えればあの人たちに影があるって言うんだよ」

管轄である神室町へ彼女が勤めている喫茶店がある事もあって、黒岩莉子とは桜庭も綾部も面識はあった。
人当たりよく柔和な彼女は少なからず人気だったし、店で「黒岩」の姓で名乗っていない為に何も知らずに彼女目当てに通うやつもいる。あれだけああだこうだ人に言う捻くれ者の綾部が珍しく悪く言わない一人でもあった。

「迎えにいくとかそういうとこだよ。テンプレみてぇな幸せ夫婦ってのを周りに見せてますって感じがよ」
「テンプレみてぇな幸せっていうのも案外悪くねぇんだな、それが」

降ってきた声に綾部は体を強ばらせる。
ぎし、と背もたれが重さを受ける音がしたその直後椅子が回転し、背もたれに手をかけてこちらを見る黒岩が目の前に現れた。綾部はぎこちなく姿勢を正すと誤魔化すように笑う。黒岩もにっこり笑うと近くの椅子を引き寄せて座った。これは戦闘態勢だ。

「あ、あの、報告書出来ました」

気まずくなった桜庭は話を逸らすついでに報告書を渡す。しかし意に介さず、黒岩は綾部から目をそらさないまま桜庭から報告書を受け取った。

「おう、お前は優秀だな。で、だ。綾部、その目の前の紙は?」
「やりますって…」

ヘビに睨まれてすっかり小さくなった綾部は椅子に座り直すと放り投げたペンをようやく持ち、報告書へと向き直った。
それを鼻で笑うと黒岩は足を組み、改めて桜庭の報告書へと目を通した。どうやら綾部が書き終えるまでは動かないらしい。
暫く桜庭はそんな黒岩とそそくさとペンを動かす綾部とを交互に見ていたが、重たい沈黙に耐えかねて黒岩へ声をかけた。

「そう言えば、奥さんはどうしていらしたんです?」
「あぁ、職場用の携帯をリビングに置きっぱなしだったのを届けに来…おう、それで報告書はあがりか?」

失敗を突っついてやろうと口を開きかけた綾部を見逃さなかった黒岩はすかさず鋭い一言を投げる。綾部はまた、報告書の作成へと戻って行った。それを見届けると黒岩の視線はまた桜庭の報告書へ。

「今日は午後のシフトらしくてそのついでだとよ」
「本当に仲がいいですよね。学校とか地元が同じだったんです?」
「いや、偶然知り合った」

ふ、と報告書を見ている黒岩の視線がどこか遠くへ飛ぶ。それも一瞬の事で、足を組み直すと言葉を続けた。

「……共通の知り合いがいてな」
「そういえば、なんで奥さんお店だと白瀬さんなんです?」
「あの街のヤクザ共には俺たちは目の敵だろ。莉子をそういうゴタゴタに巻き込まないように旧姓で名乗らせてる」
「…だったら別のとこで働かせりゃいいんじゃないスかね」

報告書を書きながら綾部が呟いた一言に黒岩は笑った。

「そりゃそうだが目の届く範囲にいて欲しいんだよ。あいつには」

うわぁ、と見るからに引いた表情の綾部は特段気にならなかったらしい。
桜庭の報告書を読み終えた黒岩がトントンと紙を整えたと同時に昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。ならば後でと報告書を裏返した綾部の肩を黒岩は叩く。

「おいおいどこ行くんだよ。昼飯はそれが終わったらだ、な?」

な?という確認の疑問符ーーと言うより脅しの疑問符と共に強めに肩を掴まれて綾部は「もちろんですとも」と誤魔化すように笑った。
流石に「根に持ちやがって」という悪態は心の中で留めたので聞こえてない、はずだ。



自宅であるマンションの玄関扉を開けると漂ってきた匂いにぐうと腹がなった。リビングまで続く廊下の途中にある洗面所から、ちょうど莉子が出てくる。莉子は黒岩を見るなり嬉しそうに目を細めて笑うと駆け寄ってきた。

「あらおかえりなさい。ご飯もお風呂も大丈夫だけれど、どっちが先がいい?」
「…飯。腹が減った」
「じゃあほら、手を洗ってきて。鞄は貰っちゃうから」

ほらほら、と鞄を取った莉子に洗面所に押し込まれながら手を洗い、リビングへ行くと机には夕飯が並べられていた。
ジャケットを脱いでネクタイを解くと椅子の背にかける。首元のボタンを緩めながらざっと今晩のメニューを見た。昨日の残りの煮物に焼き魚と味噌汁。
席に着いた黒岩を見て莉子は「あ!」と何か思い出したように座りかけていた腰を上げて冷蔵庫へ向かう。戻ってきた莉子が持っていたのはふりかけだった。

「これ、あなたこの前美味しいって言ってたでしょ」

いただきます、と揃って二人で手を合わせる。

(テンプレみたいな幸せ…な)

綾部の言葉を思い出しながら箸を持った。
上司の秘密を知ったその日、他人と比べて何か欠けていた自覚のあった黒岩にこれほど合うやり方はないと思った。計算外だったのは彼女を拾ったこと。そして気まぐれで始めたままごとが、いつの間にが欠けていた部分を埋め始めていること。

「続いては、昨日起きた殺人事件のニュースの速報です。容疑者の男は以前、無罪となった男でした」

あ、と画面に出てきた顔に莉子は声を上げる。つられて黒岩もテレビ画面を見れば、そこにはどこか見た事のある男の顔が映っていた。

「この人、覚えてる。創薬センターの事件。無罪になった事でも弁護士さんがカッコいいってのでもすごく話題になってたわよねえ?」
「弁護士は知らねぇが、本庁が煮え湯飲まされたってのはすごい騒いでたな」
「でも今回また殺人ってことなら、本庁はまた大変なことになりそうね」
「だろうな。結果的に殺人鬼を野放しにした上に女が1人、死んだわけだ」

莉子は箸を置くとテレビ画面をじっと見つめた。腕を組むとそのまま爪を立てて肌を掻く――これは彼女が考え事を、特にあまり良くない記憶に関する事を考える時の癖だ。

「…あのひとが、言ってた。社会ってのはピラミッドみたいに出来てるって。幸せっていうのは、蹴落とされた誰かの不幸の上にしか成り立たないって。だから、不幸な人はどれだけいてもいいんですって。その分誰かが笑えるから」

黒岩も箸を置くと莉子の手をとって机の上に置く。そして自分の手を彼女の手の上から押さえつけるように重ねた。そこではじめて莉子は自分がいつもの悪い癖をやっていたことに気付いたようだ。

「それでそいつはどうなった?」

莉子はしばらく何も言わなかった。重なった手を見、黒岩の方へ顔を向ける。

「貴方のおかげで私の足元に」

その顔はすっかり穏やかな表情だった。




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