※本編クリア後推奨
それを見た時、杉浦は文字通りに腰を抜かした。
ざあざあという音を響かせながら振る雨の中、傘もささずに女が仏花を抱えて墓前に立っていたのだ。
長い髪にワンピースを纏ったずぶ濡れの女、墓地という場所。そのふたつが結びついて「幽霊」という二文字が頭に浮かぶ。
そんな杉浦の立てた音が聞こえたのか女がゆっくりこちらを向くーーその瞳を見て、今度は動けなくなった。恐怖からではない、その瞳の内側に湛えた感情を、杉浦はよくよく知っていたからだ。
杉浦はその瞳を見つめたまま、女の傍によると差していた傘を傾けてやる。奇遇にも、杉浦の姉が眠っている墓の隣だった。
ぽた、ぽたと伝った水滴がひとつになって顎の下に溜まり、落ちていく。細くこまかい睫毛のその奥の瞳はぼんやりしている。
女はいつの間にか杉浦から、目の前の墓へと視線を移していた。
「・・お姉さん、いつからここにいるの?」
「・・・・分からない」
「・・・・誰のお墓?」
初対面の人へ向けるには無神経かもしれないこの問に女は暫く間を置いて、
「・・分からない」
とまた答えた。杉浦は「そっか」とだけ返し、自分の目の前にある姉の墓へ向き直る。
少し前も自分もこんな感じだったと思う。
晴れて無罪を勝ち取った恋人と慎ましく、それでも確かに幸せの中で生活していた姉。次に会った彼女は酷く変わり果てていた。受け入れ難い事実を突きつけられて、杉浦もこうして暫く姉の墓の前で立ち尽くしていたーー少し前ことに思いはせながら、ふと杉浦は言葉を零していた。
「・・僕はね、姉さんの墓」
「お姉さん、どうしたの?」
返ってくるとは思っていなかった返事に少し驚きながら杉浦は曖昧に笑う。
「・・さあ。どうしたんだろうね。でもね、突然、本当に突然死んだ」
人に殺された、という事実は伏せた。それが本当かどうかはこれから確かめに行く。その決意を姉に聞かせたくて、今日はここに来たのだ。
「・・・・わたしも、突然。よりによって、いってきますって言葉に返事出来なかった日だった」
隣の女の顎にまた水滴が溜まっていく。
「分からない。行ってらっしゃいって言えていればこんな思いにならなかったのかとか、どうしてだろう、とか、そんなことを考えてたら時間ばっかりが過ぎてた。いつになったら今の貴方みたいな表情、できるかな」
杉浦は答えなかった。
代わりに差していた傘の柄をそのまま女に差し出した。差し出された女は涙を湛えた瞳をキョトンとさせる。傘の柄を差し出す手を女に近付ければおずおずと受け取る。
「分からない。だから僕はそれを今から確かめに行くんだ。だから、これはお姉さんにあげる。きっと、今の貴女に1番必要だから」
女は目を数度瞬かせ、曖昧に笑った。
「ありがとう、素敵な人。貴方のその行き先に光がある事を願うわ」
「お姉さんこそ」
少しだけ強くなってしまった雨を駆け出していく。屋根のあるところまで一息で駆け抜けて、振り返る。渡した味気ないビニール傘はまだそこに居た。
「晴れたなあ」
雲ひとつない青空を見上げて隣の大久保が思わずそう零したのを隣で聞いていた。杉浦は別の物に視線を奪われていたからだ。
それは曇りひとつない青空からさんさんと注がれる温かい陽の光を一身に受け止めていた。透明な部分には青空が写りこんでいる。
ようやく黙りこくる杉浦に気付いた隣の大久保は彼を見、視線の先を追う。無罪になったと言えどもほんの数日前までは、恨む人と恨まれる人という関係だった。その間に大きな誤解と誰かの意思があったと言えども、それがようやく解けたと言えども、まだお互いにギクシャクはしていた。てっきり黙りこくっていたのはその気まずさからだと思っていた、が。
「こんな晴れの日なのに」
そこには傘をさした人がいた。風にさらわれる白いワンピースを纏う華奢な後ろ姿から察するに女だ。ちょうど今から杉浦と向かう寺澤絵美の墓のあたりに佇んでいる。
雨とは無縁のこんな日に、ましてや安物のビニール傘をさしている。ふと、隣の杉浦を見たあとに大久保はその手から手桶を取る。そこでようやく、杉浦は我に返った。
「え、えと、何?」
「・・いいや。なんとなく歩きたい気分になって」
「・・・・は?」
眉を潜めた杉浦に大久保は頭をかいた。まだお互いに分かっていない事の多い関係だ。正直に言った方がお互いの為か。
「・・話してくれば、傘の人。君だって時間、動き出したでしょ」
杉浦はしばし逡巡し、大久保、それから傘の人を見ると、
「・・・・・・ありがと」
と小さく零して駆け出していく。その背中を見ながら大久保は空を仰ぐと息を吸った。あの一連の事件で時が止まってしまったのは自分だけではなかったのだと杉浦や八神と話していくうちに知った。そう、それはあの杉浦も。
空はどこまでも青い。そういえば寺澤絵美と出会ったあの日もこんな天気であった。
「お姉さん」
そう声をかければ、目の前の女がこちらを振り向いた。あの雨の日よりいくらも澄んだ瞳がこちらを捉え、大きく見開いた。しばらくお互いをまじまじと見つめた後に、どちらからともなく笑い出す。あの雨の日より随分雰囲気が変わっていた。今日の陽気のようなからりとした笑顔で女は笑う。
「ねえ、どうしたってこんな天気の日に傘さしてるわけ?」
「これ、さしてここに来たら貴方に会えると思って」
これ、とビニール傘を回す。遠目から見ると感じなかったが、細かな部分に時間を感じる。まさか、と杉浦は女を見る。女はにっこり笑うと傘を閉じた。その動作一つ一つから目が離せなかった。
「ありがとう。ずっとこれが言いたくて。良かった、貴方もどうやらあの後答えを見つけたみたい」
「貴女こそ」
「ええ。そうだ、お連れの人いたでしょ。待たせてるんじゃない?」
「・・っ、待って!!」
去ろうとする女の手を掴む。女は驚いたように杉浦を見れば、当の杉浦も戸惑ったような顔をしていた。思わず掴んだはいいが、その先を全く考えてなかった。それでも、いま、このまま手を離せばこの人とはもうこれきり会えないーーそんな予感がしたのだ。
「・・僕、杉浦文也って言います。えっと、その、」
女はじっと待っている。青空を写した瞳が、こちらを見つめている。
「よかったら、話をしたい、です。今度も・・・・晴れの日に」
「・・もちろん。私はアオイ。よろしくね、杉浦くん」
さあ、と風がかけて行った後に2人してまた笑った。