夏侯惇には、奇妙な妻がいた。
 お前も、もうそういう年なのだからと曹操を介して紹介されたその女は、身分も顔立ちも体つきも(この辺りは曹操の好みな気がしてならない)申し分なく、彼女を一目見た同僚はみな口を揃えて美女と野獣かとそれは夏侯惇を揶揄ったものだった。

 しかし、蓋を開けてみれば奇人、変人・・とにかくそんな部類の女だった。思えば、顔を合わせたその日、

 「私、今日は何故こちらに伺ったのかしら」

 と、ぽけーっと夏侯惇の顔を見るなり不思議そうに答えた時よりその兆候は現れていたのだ。さっさと断れば良かったと気付いた時には遅く、彼女の奇怪な言動に振り回される日々が始まったのである。

 例えば、小鳥を近くで見たいからと果物を串で刺して窓際に立てて並べたり、服にシミをつけてしまった時には「模様のようだわ・・いっそ模様を変えてしまおうかしら」と熱心にシミを増やしたり、雪の降った日に屋敷にいないと思えば、庭先で雪に墨で字を書いていた時は流石に頭を抱えた。なんでも、やってみたかった、らしい。
 そんな日が続くものだから、ある晩にぼんやり宙を見る妻を見てとうとう妖の類が見えると言い出すのかと夏侯惇は心底ヒヤヒヤした。事実は天井のシミを見ていただけだったが。

 もちろん、夫婦である以上はやることはやっていたが、やはり距離は置いていたし、酒の席で曹操があやつはどうだと尋ねて出てくるのは、奇想天外な妻の愚痴ばかりで、そんな愚痴はやがて酒の席以外にも零すようになっていった。
 ぎこちない夫婦生活に転機が訪れたのは、夏侯惇が戦の過程で左目を失ったことより始まる。

 戦場から屋敷へと帰ってきた夏侯惇は類を見ないくらいにピリピリしていた。それを受けて縮こまる使用人たちや兵士の雰囲気をなんのその、迎えに出てきたアオイはいつも通りだった。

 「あら、雨が降り出してしまったようですね。肩が濡れてますわ」

 左目を失い、戻ってきた夫にかけた言葉がこれだ。いつもならため息ひとつで終わるその奇妙な一言は、今は火に油を注ぐようなもので夏侯惇はろくに妻の顔も見ずに荒々しくその横を素通りした。アオイはあら、と少し首を傾げただけだった。
 その途中、屋敷のあちらこちらの壁に一部だけ日に焼けていない丸や四角の跡があるのに、夏侯惇はさして疑問を抱かなかった。

 「元譲さま、今日は早く寝てしまったらいかがでしょう」

 明日は晴れますかねぇ、と呑気に呟くアオイを無理やり寝台に引きずり込んで組み敷いてもなお、彼女はいつも通りだった。ただ、一瞬だけ、アオイの瞳が揺らいだがそれを見ないふりをしてさっさと彼女の寝間着に手をかけた。


 夏侯惇が奇妙な丸い跡にやっと気付いたのは、次の日の朝だった。
 陽の光に思わず目を開け、腰にやんわり巻きつく細い腕と背中に感じる温もりに身をよじって妻を見る。その寝顔は穏やかそのもので、流石に怒りに任せて散々乱暴に抱き潰した事に後悔した。

 そう、アオイは悪くない。

 戦に大敗こそしてはいなかったが始終後手に回った上に、左目を失い、あまつや盲夏侯と囁かれたことの苛立ちを全て彼女一人にぶつけたのだ。それでも、アオイは泣き言も文句も言わなかった。左目について、触れもしなければ怒りに満ちた夏侯惇を遠巻きにせずに、受け止めたのだ。
 罪悪感からたまらず彼女から目をそらし、やっと気付くーー壁に、丸い跡がある。

 そこだけ見事に壁が日に焼けていないのだから、今までそこに何かあったのだろうが、見慣れてしまったが故にいざ変わると何がなくなったのか思い出せないーー代わりに思い出したのは昨日、同じような跡をこの部屋以外にも見たということだった。
 そっと寝台を抜け出し、部屋から出て屋敷の中を見て回る。そして、気付く。

 鏡だ。
 鏡が、ない。

 「おい」

 アオイの世話を丸投げしている侍女の後ろ姿が見えたので、呼び止めて慌てて駆け寄る。
 昨日の大荒れしていた夏侯惇を見ていた侍女は、何でしょう、と小さく答えてすっかり縮こまってしまった。

 「鏡はどうした」
 「・・お、奥様が、旦那様が帰る前に全て処分なさい、と・・」

 それを聞いた夏侯惇は弾かれたようにその場を足早に立ち去る。ふと、止まると侍女の方に振り返り

 「今日はアオイを起こしに来なくてよい」

 と一言だけ言うと、寝室へと戻って行く。侍女はその一部始終をぼんやりと見、我に戻るとわかりました、と小さく呟いた。彼が妻を初めて名前で呼んだのを聞いたからだ。


 「あら、元譲さま。起きていらしたの」
 「・・・・アオイ」

 部屋に戻ると、床から昨晩邪魔だと寝台脇に放り投げた寝間着を拾い上げているアオイと目が合った。
 たまらずその体を抱き寄せれば、不思議そうにアオイは首をかしげる。しかし、夏侯惇の髪を梳くようにして頭を撫でる手は優しいことこの上なかった。

 「・・・・鏡」
 「あぁ、鏡。元譲さまが帰る前に商人の方から、鏡に住む妖のお話を聞いてしまったの。そうしたら怖くて怖くて。外してしまったわ」
 「すまない」

 冗談めかしたように言うアオイの顔を見、夏侯惇が謝れば彼女は優しく目を細めた。

 「何がです? 怒ったり凹んだり謝ったり、忙しい元譲さま」

 きっともう彼女は鏡を外した理由なんて答える気なんてないのだろうから、余計なことを言うなと言わんばかりに優しく唇を重ねる。だんだん深くなる頃には、アオイと夏侯惇は寝台に逆戻りしていた。

 「まって、もう起こしに人が」
 「いらんと言っておいた」
 「あらまあ嫌だわ」

 何が楽しいのかアオイは笑い出す。しかし、ふと真顔にもどると夏侯惇の両頬に手を添えた。瞳が揺れていた。

 「おかえりなさいませ。御無事で、ほんとうによかった・・」

 そろそろ、と左の頬に当てた手だけが上へと上り、親指がそっと矢傷をなぞる。散々言われた負の傷跡を彼女に触られることに不快感はなかった。
 それ以上に甘ったるい雰囲気がどことなく気恥ずかしくて、頬に添えられた手を優しく外すとアオイに覆いかぶさった。

 「もう、痛いのは嫌です」
 「・・悪かった」

 再び響いたアオイの笑い声はすぐまた消えた。大方、夏侯惇が唇をふさいだのだろう。

 それからというもの、アオイの奇妙な言動は相変わらず続いたが、それを夏侯惇が酒の席で笑い話としてあげる事はあれど、愚痴めいた話題としては挙がらなかった。
 屋敷に鏡が戻ることもなかったが、女としては身だしなみをきちんとしたいだろうと夏侯惇が手鏡を与えてやれば、アオイは幸せそうに笑った。

 やがて年月は流れ、屋敷の壁の丸い跡も周りと同じようにすっかり日に焼け、曹操も病で去った頃、主君を追うようにして死んだ夫を見送ったアオイは或る日、「少し眠いから」と横になったそれきり目を覚ますことはなかった。
 奇妙な逸話を残した妻はその生涯の最期までも奇妙だったという。
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