爪痕

*プレイ済み推奨


昼下がりの病院を歩く。
人が多いロビーをぬけて病棟のとある一室へ向かっていくとどんどん人が少なくなっていった。窓が少なくなったこと、そして今の自分の気持ちのせいだろうか明るさも減ってきた気がする。今、廊下に響いているのは自分ーー渡辺の足音だけだ。
その廊下の先に、たったひとつだけ人影があった。スラリと伸びたその人影は、病室のドアにもたれ掛かるように立っている。ちょうど渡辺の目的地だ。
響く足音に向こうもこちらに気付いたらしい。人影はゆっくり預けていた背を戻して、まるで渡辺の前に立ちはだかるかのようにこちらを向いて立った。

「…何であんたがここに」
「それはこっちのセリフだ。とうに神室町に帰ったとばかり思ってたよ、八神」

八神は「依頼でね」としか答えなかった。そのくせ、こちらは答えたからお前の番だと言わんばかりに見つめてくる。渡辺は面倒臭いな、後頭部を掻いてから見つめ返した。今日は八神の邪魔をしに来たわけじゃなかった。
八神がこの場にいる理由も察しがついてるーー扉の向こうにいる人を、守っているのだ。守らなくてもいい約束を彼は守っている。

「捜査だよ、捜査。お前がうっかり捕まえ損ねた殺人犯のな……っていうのは神奈川県警に所属している刑事としての表向きの理由だ。俺個人としては、報告に来たんだ。彼女に。もう指一本、公安には触れさせないと」

八神は渡辺の言葉の誠実さを推量るように、しばらく黙っていた。が、何か思うところがあったのか扉を開けると中へ入っていく。渡辺もそれに続いた。

柔らかな陽の光が窓から射し込む明るい病室のベッドの上に彼女はいた。窓の外を見つめていたらしい彼女は、音に気付いてこちらを振り返る。八神、それから渡辺を見て体を強ばらせたーー膝にかけている布団を握りしめる。

「アオイちゃん、大丈夫。この人は神奈川県警の渡辺さん。君に話があるって言うからいいかな?もちろん、俺もここにいるから」
「だ、大丈夫、です。八神さんが連れてくる人だから」
「そっか」

了承を得たのを確認した渡辺はそのままベッド脇にあった椅子に座る。アオイと呼ばれた女は距離を置くように体をベッドの上で動かす。仕方ない。あの一件で公安から目をつけられたなんて聞かされてしまえば、見知った人以外は怖くなるはずだ。

「八神からあったように俺は神奈川県警の渡辺だ。今日は表向きには捜査として来たが、俺個人としては君に報告するつもりでここに来た。君は神奈川県警が必ず守ると。それにあたって上はやっぱり君と彼の話を少し聞きたいんだ。いいか?」

アオイはいっそう強く布団を握りしめた。

「…いいですけど、皆様が思っているほど、私は彼とどういった関係でもないんです」

ここで一拍置いて、彼女は話し始めた。

「おそらく、あの人がそうしなかったから」

***

それは冷たい雨が降る夜だった。
アオイは賑やかな表通りを避けて裏道を傘もささずに歩いていた。
クリスマスイヴが連れてきたこの浮かれた空気も賑やかなイルミネーションも、赤と緑の装飾も、それに喜ぶ人々もとにかく当時のアオイには眩しすぎた。
何でこうなったんだろうなあ、何がいけなかったのかなあ、答えの出ない疑問が頭をめぐって溜息になって口からこぼれた。人間、心底傷つくと案外涙は出ないものだ。
そんな調子で俯いて歩いていたのだから、莉子は目の前にいかにも悪そうな男たちが居るのに気付かなかった。

「ねえ、アオイさん。ダメだよ、彼氏と一緒ならまだしもこんな暗いとこ1人で歩いてたらさあ。明るいとこまで送ってあげよっか?」

声につられて顔を上げる。視界に入ってきた男たちの顔はどれも知らない。なんでこちらを知っているのか到底分からなかったが、それでも、彼らの表情と声音でアオイにとって良いことが起こりそうもないことは瞬時に理解出来る。
大丈夫です、と繰り返し呟きながら後退りする。男たちはアオイが下がったぶんだけ詰めてきた。それどころか取り囲まれてしまった。

「大丈夫じゃないんだ。オレたちだって依頼でさあ。キミが会社を辞めたくなるようにしてくれって。意味、わかる?」
「わ、分かりません」
「じゃあ分かるように教えてあげるからさ」

ね、と手を掴まれたアオイが色々考えを巡らせる前に引っ張られていく。いや、やめて、単語は浮かぶのに震えた喉が言葉にはしてくれない。
その時だった。

「おいおい、華奢な女の人相手にずいぶん大人数だな?」

背後から聞こえた声に男たち、そしてアオイも振り返る。
目に入ったのは赤い革のジャケット。その男は大通りから差し込むイルミネーションの灯りを背に立っていた。
くわえていた電子タバコから口を離して煙を吐き出すーーその少し横を向いた瞬間に見えた目の鋭さにアオイは怯んだ。

「んだよてめえ、」

逆上した男たちはアオイから離れて赤い革のジャケットを着た男へと向かう。それらを難なく倒していくのをアオイはただただ見ていた。
全てが済んだ後、男がアオイの方へ振り返る。その時には先程までの剣呑さはどこへやら、人の良さそうな顔をした男がそこにいた。

「あんたもあんただよ。この街は闇が深いんだがら、うっかりでも暗いとこに来たらダメだ。ほら、立てるか?」
「あ、えと…その、」

ほら、と人懐っこい微笑みを浮かべた男の手を借りて礼を言いつつアオイはなんとか立ち上がるーーそこで、初めて一粒涙が落ちてきた。

「こ、こわ、こわかった…!」

一回溢れ落ちてくると止まらないもので、名前も素性も知らない男の前でアオイはわんわん泣き出す。男はそんなアオイを優しく見つめていた。

「そうだな、怖かったな…こいつらとは、知り合いって感じでもなさそうだが、何か心当たりは?」

アオイはしゃくりあげながら首を横に振る。そうか、と頷いた男は胸元からなにやら取り出すとアオイへ渡した。アオイは瞬きしながら確認するーー名刺だ。そこには「桑名仁」と書いてある。

「俺は桑名っていうんだ。この辺りで便利屋を最近始めてな、特にこういう……なんと言うか、荒っぽいやつらが関わる事にも顔が利く」

こういう、と地面に伸びている男達を一瞥する。アオイは名刺、桑名と交互に見た。悲しみよりも興味という感情が心を占めたのか、涙は止まりつつあった。

「な、なんでも、してくれるの?」
「あー、えっと、なんか綺麗な人にそう改めて言われると戸惑うけど…まあ、そうだな。なんでも。金がちょっと弾む場合もあるが…」

アオイはばっと桑名を見る。その勢いに桑名は思わず驚いたが、その後に続く言葉にもっと驚く事になる。

「私の家に、来て」



「あのなあ…親切心から言っておくが、出会ったばかりの男を家に呼ぶのはどうかと思うぞ」

そのまま半ば引っ張られる形でアオイの住むマンションの一室にやってきた桑名はなにやら支度を始めるアオイの背に投げかける。
当のアオイは腕まくりをして冷蔵庫と向き合っていた。

「…あー、えーと、なんだ…その名前、」
「アオイ。染井アオイ」

アオイは冷蔵庫から色々な物を出しながら淡々と自己紹介をする。桑名は立ち上がって傍によるとただただその流れを見ていることしか出来なかった。
出来合いものから作り置きしていたとみえるものまでクリスマスイヴにピッタリな食べ物がどんどん出てくる。最後にチキンを出してテーブルに乱暴においたアオイが勢いよく顔を上げてようやく桑名を見た。

涙のあとや目元が赤い部分があれど、その顔には悲しみの表情はなかった。怒り、だ。
流石の桑名も「これはむしろ俺がほいほい着いてきたのが不味かったやつだ」と思わずにはいられない。
その気持ちから一歩、下がってアオイとの物理的距離を置く。

「昨日、職場恋愛の彼氏を寝とられた現場に鉢合わせた挙句にその相手が会社の重役の娘だから何も言えず散々今日は会社でマウントを取られた染井アオイです」
「うわあ…」

そんな言葉しか口から出てこなかった。
つまるところ、目前に広がる料理の数々は今日あったはずの幸せなクリスマスイブの為に用意されていたに違いない。綺麗に並べられた料理がいまは色褪せて見える。桑名がそうなのだから、アオイにはもっとそう見えているに違いない。
アオイはラップを乱暴に剥がしていく。

「桑名さんもやって」
「あ、おう…」

有無を言わさない強い声音に桑名はおずおずとしたがう。

「それで、食べて。ぜんぶぜんぶ食べて。なくして、こんなもの」

動きの止まったアオイの手からその先にある彼女の顔を見る。唇をきつく噛み、またその瞳が潤んでいた。

「…シャンパンは?」
「ワインもある」

桑名は手前にあった皿のラップを外す。ローストビーフが出てきた。そして、一言。

「いいね、最高だ」



あらかたの料理を平らげ、クリスマスムードをぶち壊すように汚れた皿を雑に積み上げきった頃。
他愛のない話をしながらケーキを箱から出して、切るわけでも別の皿に可愛く乗せるわけでもなく、両端から直にフォークでつついて食べながら、アオイが不意に切り出した。


「今更だけど、この依頼はいくらくらい払えばいいの?」
「いや、いいよ。むしろうまい飯を奢って貰えたし…そうだな、何かひとつ、依頼を受けてやるよ」

桑名はケーキを崩しながら赤いイチゴにフォークを突き立てる。ぶすり、と硬い肉感のあるイチゴに刺さっていくフォークからアオイへ、視線をやるーーまたあの目だ、冷たい目。
それもまた一瞬の事で、瞬きをしてる間に桑名は人の良い笑みを浮かべていた。

「文字通り、なんでも…………復讐、とかな」

アオイは黙ってケーキを崩す。生クリームとスポンジを口に放り込み、咀嚼して飲み込む。それからしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。

「そんなのできるの?」
「言ったろ?荒っぽい事にも顔が利くって」
「…うーん…」

その時のアオイは、シャンパンにワイン、足りなくてビール、そういえばこんなのあったぞと焼酎まで引っ張り出してそれも全て飲みきっていて。
アルコールが回りきった頭だったので随分物騒な話をしていた事にとくに何も思わなかった。
復讐、復讐かあ。
アオイは呟きながらイチゴにフォークを突き立てる。

可哀想なものを見る人、目を合わせまいとする人、気まずそうにするくせにこちらに一瞥もしない人、勝ち誇ったようにこちらを見る人ーー今日、会社で見たたくさんの人の顔を思い出して、これを全てめちゃくちゃにしてやれたら、なんて考える。それを見た時、自分はどう感じるだろう。
達成感?優越感?

「…どれも違うな、きっと虚しくなるな。うん…いいや、たぶん次の日からどんな顔して生きていけばいいか分からなくなるのかも」
「…そうか」

桑名はしばらく黙り込む。目を閉じてなにやら長く考え込みーー次に目を開けた時にまた人懐っこい笑みを浮かべてこちらを見た。

「あんたは幸せになりな」
「…?うん、うん…?」

その言葉に何か引っかかって考え込むアオイをよそに、半分くらいまでケーキを食べ進めた桑名はフォークを置いた。

「するとあとは…何かあんたを手伝える事は?」
「じゃあ引越し手伝ってよ。もう会社も辞めるしこの部屋も引き払うしベッドも捨てるから人手が欲しいし、業者代が浮きそう」
「それくらいなら…というかベッド、捨ててくのか?」

アオイははあ、とため息をついた。

「理由は察して」

ああ、と桑名は気まずそうに姿勢を正すと再びフォークを握る。

「…いいね、あんたのそういう勢いがあるところ、嫌いじゃない。まだこの街にいるつもりならいつだって力になってやるよ。まあ…引越し手伝いの後からはきっちり料金はいただくけどな」
「こちらこそ、よろしくね桑名さん」

二人は笑うとまたケーキにフォークを突き立てた。

その日、文字通りどん底へと引きずられているアオイにとって運の尽きだったのは男たちに絡まれた事でも付き合っていた人を巡るゴタゴタではなかった。
彼ーー桑名仁との出会いだ。

***

ここまで語り終えたアオイは目の前の布団から手を離した。
握りしめて少し痕になってしまった箇所を伸ばしつつ瞳だけ渡辺によこす。渡辺はそれで、と念を込めて見つめ返した。彼が聞きたい肝心な箇所がまだ語られていない。

「仁が人を殺していたのは知りませんでした。ずっと…思えば、たまに長い間遠くに行くことがあったのでその時に人を殺していたのでしょうね」
「具体的にどこへ行くとか聞いたことは?」

アオイは首を振る。

「直近で長い間街からいなくなった時期は思い出せたりはするか?」

アオイは再び首を振る。

「そのほか些細な事でもいい。何か彼に関して思い出すことは?」

アオイは深く息を吸うと目を閉じる。
些細なことならいくらでもあった。

伊勢崎異人町で長く過ごすうちに、「染井さん」と「桑名さん」と呼び合う仲が「アオイちゃん」と「桑名」、そして「アオイ」と「仁」へと変わっていったこと。
その過程であのクリスマスイヴの日にアオイを取り囲んでいた男たちが、件の浮気相手が雇ったもので桑名の協力でなんとか解決できたこと。
少しだけ便利屋くわなを手伝った後に異人町にある会社に就職したことーー他にもこの町で過ごすうちに色々な事がアオイにはあったし、そこには常に桑名がいるようになった。

そして、クリスマスイヴはなんだかんだで桑名と過ごすことが多かったこと。


***

緑色と赤色のイルミネーションが大通りを照らしていた。
アオイはごった返した人の間を縫うようにして走っていく。走っていた間は気にもしなかった、頬に当たっていた冷たい空気が、立ち止まった瞬間にマフラーの隙間から入ってきてアオイは体を震わせた。
前髪を直す指先の冷たさを感じつつ、マフラー、コート、次にカバンをしっかりかけ直して喫茶店の前にいる人物へ声をかけた。

「仁!」

喫茶プラージュの壁に寄りかかっていた桑名はアオイの声にスマートフォンの画面から顔をあげると柔らかく笑った。

「アオイ、今日もお疲れさん」
「また帰り際にばっか仕事が集中しちゃって…うわ、なに?」

節くれだっていて、自分のものより大きな指先が前髪を掬う。アオイは何とでもない声を意識しながらその指先、それから桑名へ視線をやる。温かい瞳と視線が絡まった。

「いや?そんなに走って来なくてもいいのにな。どうせ、ここ最近は暇してたんだ」

す、と指が離れていく。間が開かないようにアオイはすぐに言葉を返す。

「それもどうなの、師走っていわれる月だよ」
「休憩期間だよ、休憩期間。ちょっと前にしばらくこっち空けてずっと仕事をしてたからからな」
「そういえばどこいってたの?」

桑名は電子タバコをしまうと目を細めた。

「実は俺、政府のエージェントで…」
「はいはい、聞いたわたしがバカでした」
「はは、悪いな。便利屋も秘密主義でな。で、今日は何食いたい?」
「中華!」
「よし、行くか」

歩き出してから腕からぶら下げていた紙袋の存在をようやく思い出して、少し先を歩く桑名の背に「ねえ、」と声を掛けた。少し緊張していたからいつもより幾分も小さな声で、ただでさえ騒がしいこの伊勢佐木ロードの雑踏に掻き消えそうだったそれを桑名はしっかり拾ったらしい。いつもの赤い革のジャケットの背がクルリとこちらを向いた。

「どうした?気が変わったか」
「違う、その、これ」

紙袋を渡す。桑名はそれを受け取ると一度確認するようにこちらを見てから、中を見て顔をほころばせた。すぐに中身ーー白いマフラーを取り出して首に巻く。

「仁、マフラーとかしないでしょ。寒そうで…っていうか今、つけなくても、」
「いや、嬉しくて、つい」

アオイも嬉しくなって横に駆け寄る。二人並んだタイミングで一緒に歩き出した。

桑名に抱いている感情が友情だとか、恩人への尊敬だとかいう部類ではもうないという事を理解しつつあったアオイはその日、浮かれていた。だから桑名と同じペースで酒を飲み進めーー潰れるのはあっという間だった。
ゆらゆらと負ぶわれている桑名の背がとても広くて温かかったのはぼんやりと覚えている。

「ほら、ついたぞ。酔っ払い」
「う、相変わらず仁のいえ、ふゆはさぶい」
「悪いな、お前の家…って思ったけどご近所さんにこんな姿見られたくないだろうと思ってな」

桑名は扉を閉め、電気をつける。適当に靴を脱ぎ捨てると朝起きた状態のまま放置されてた布団にアオイを横たえた。汚い自分の布団の上にアオイがいると多少申し訳なくなってくるがこの酔っ払いは何もわかっていないはずだ。
そのままパンプスをアオイの足から外すと入り口まで戻り、鍵を閉めてついでに暖房をつける。この自宅兼事務所はプレハブだからなおのこと冷えていた。桑名も腕をさすってマフラーに顔をうずめる。自分のものとは違う匂いに包まれて一つ、息を吐く。

「ほら、布団掛けてやるから上着は脱ぎな」

布団に伸びたままのアオイの横に腰を下ろすと灰色のコートを引っ張る様にして脱がせる。されるがまま、アオイうぅん、とうなってうつぶせになる。首の後ろ部分にあるセーターのリボンの隙間からちら、と白い肌が見えて思わず目を反らした。

「レディーファーストってことで布団はお前に譲ってやるよ」
「ん、じんはどこで、寝るの?」

顔を横に向けてアオイがぼんやり桑名を目だけで見上げる。桑名はくしゃ、とその細く柔らかいアオイの髪をなでると笑った。

「ソファだよ。お前がここで寝るからな」
「…別に、いいけど」

アオイの瞳がしばらく泳ぎ、そろりと桑名を再び見上げた。

「一緒でも、いいけど」

それを見つめ返す桑名は薄く口を開き、閉じる。言葉が出てこないのか、言葉にすることを悩んでいるのかーーしばらく閉じていた口が開いた、と思うなりアオイの視界がぐるんと回る。
体を仰向けにさせられたのだと気付いたころにはいつになく桑名の真剣な顔にアオイはなに、と言いかけた口を閉ざす。桑名が巻いていた白いマフラーがアオイ胸のあたりに落ちてきた。
仰向けにしたアオイに覆いかぶさるような体勢になった桑名はアオイの手首を掴むと布団に押し付ける。ずしり、とそこに桑名の体重がかかって少し痛いくらいなのに、アオイは少しも気にならなかった。酔いが少しずつ醒めていく。

「その言葉、この状況じゃ少しはまずいって思わないのか」

こつ、と額同士がぶつかる。アオイは小さく首を横に振る。

「仁だから、まずいって思わないから、ん、」

少しだけかさついたものが唇に押し当てられてそれ以上の言葉は消されてしまった。すぐに唇を放した桑名は、どこか迷うような表情を浮かべる。今度はアオイからその唇に自分のものを重ねた。それが彼の中の何かのスイッチになったようで、今度は恥ずかしくなって離したアオイを追いかけるようにキスをする。
何度か触れ合うだけのキスをしたのちに、なんだか会話がないのが少し怖くなって開けた唇に舌がねじ込まれた。

「んん、ぅ、」

鼻から抜けていくような自分の声が少しだけ暖まってきた部屋の中に響く。咥内を荒らす舌に翻弄されてばかりでうまく息継ぎができない。ようやく離れたかと思えば、短く息を吸おうとした口がまた塞がれる。ようやく唇が離れる頃にはアオイの息は上がっていた。桑名はそのまま口の端、頬、首筋へと唇を落としていく。ぞわぞわと下腹部から腰のあたりへとから何かが体の内側から這いあがってくる。

「じん、」

たまらずそう零せば答えるように首筋に吐息が当たってアオイは体を震わせた。桑名はそのままアオイの服に手をかけてもう一度キスを、ともう片方の手をアオイの手首から離して布団へとつくーーそこに、煙草の箱があった。自重で煙草の箱がつぶれて、その中に入っている忌まわしいものがはっきりと主張してきた。忘れるなよ、と。
桑名はばっと体を起こす。いきなりの事にアオイが戸惑うように桑名を見上げる。

「…仁、どうしたの?」

桑名はしばらく視線をさまよわせたのちにアオイを上から抱きしめた。

「…いや、駄目だ」
「だめ…?何が?わたしが?」

少し泣きそうなアオイの頭を撫でる。違う、違うよという声はどこまでも優しくて、泣きそうで。

「こういうの、よくないだろ。酔った勢いで、とか」

だってさ、とその後に続いただろう言葉はあまりにも小さくてアオイはよく聞こえなかった。


***


「…染井さん?」

渡辺に呼ばれては、とアオイは我に返る。無意識に触っていたらしい唇から指を放すと渡辺を見る。

「ええと、どこまで話しましたっけ」
「あんたと桑名がどうであったかっていうあたりの話と、それじゃあなにか他に桑名について覚えていることをいま聞いたところです」

そう、そうでした。とアオイは姿勢を正すと一息つく。

「その後は八神さんもご存じの通りです」

桑名を追いかける相馬が、桑名に関する人間関係を辿るうちに長年の付き合いがあるアオイまでたどり着いてしまった。異人町の闇の中を逃げ回る桑名をおびき出すための餌としてアオイに白羽の矢が立ってしまったのだ。
それきり黙ってしまったアオイを見、八神が代わりに答える。

「そして桑名がアオイちゃんとの交換条件に相馬へ川井の死体を差し出し、あの倉庫へおびき出したんだ」


***


全てが終わって闇へと消えていこうとする桑名の背を追いかけたのはアオイだけだった。アオイはそのまま前に回り込むと桑名を見上げる。痣と擦り傷だらけの顔はアオイと視線が交わるなり泣きそうな表情になった。悪いことをしてしまった幼子のように罪を自覚している、けどもうどうすればいいか分からないーー言葉には無かったがその瞳はそう言っていた。どうか助けてくれ、と。

「いいよ、仁、もういいよ」

その両頬に手を添えて涙を拭ってやる。あやす様に、何度も何度も優しく親指で頬を撫でる。されるがままの桑名の瞳からまた、涙がこぼれてくる。

「顔が変わってもいいよ、名前だって変わってもいいよ、私は傍にいる、だからもう行かなくていいよ、大丈夫だよ」

大丈夫じゃないことはアオイも重々分かっていた。冷蔵庫から出てきたおぞましい死体。あれが生前極悪人だったとしても、どれだけ他人を傷付けていても、あんな風にしていい理由にはならない事。そして少なくともあと6つ、桑名はそんな罪を既に重ねている事。

『だって証拠はないんでしょう?』

そう言いかけた口が優しく塞がれる。ビックリして薄く開いた口から舌が入ってきた。応えるように自分から舌を絡ませる。が、すぐ離れていった。名残惜しそうに離れる前に少し長い触れるだけのキスをひとつ。
漸く唇を離した桑名は優しくアオイの腰へ手を回すと自分の方へ引き寄せ、額を重ねた。そして、祈るように目を瞑る。

「ダメだ、アオイはその線は越えるな。初めて会った日……言ったろ?あんた『は』幸せになりなって」
「じゃあ仁がいてよ、幸せにしてよ」
「…できるならそうしたいよ」

それは小さなだったが、悲鳴のような、絞り出すような声だった。
ぽたぽたと桑名の涙がアオイの頬に落ちてくる。つられてアオイも泣いていた。

「聞いただろ。俺はこれからも充のような子達がいるなら、それを知ったなら、迷わず同じ事をする」
「違う、違うよ、仁。あなたがしなきゃいけないのは、過去のあなたを、喜多方悠さんを許してあげることだよ」

桑名は自嘲的に笑った。

「それが出来ないからこうなったんだよ」
「仁、あ…れ…?」

ぐらり、と突然視界が揺れる。体に力が入らなくて桑名の頬に添えていた腕が落ちてきた。力が抜けて立てなくなったアオイの体を支えるように桑名は抱きとめる。

「大丈夫、少し眠るだけだ。次に起きた時にはぜんぶ解決している」
「じ、ん、」

小さな子をあやす様に背中を優しく叩く。寝たくないのに、目を開けていたいのに徐々に瞼が落ちてくる。

「…アオイ、すごく勝手な願いだが、どうか覚えていてくれ。今日死んでいなくなる、便利屋の桑名仁を、覚えていてくれ」

とん、とん、と一定のリズムが背中から伝わって意識が遠のいていく。抵抗するようにアオイはその背に腕を回してしがみつく。
そして、意識が落ちるその間際、それははっきり聞こえた。

「…愛してる」


***


「ね、なんのお役にも立たなかったでしょう?」

一通り話を聞いた渡辺はそう言ったアオイに微笑んだ。

「いいんですよ、どうせ形式的なものですから。貴女が気にすることじゃない…あぁ、そうだ」

これ、と渡辺は持っていた紙袋をアオイへ渡す。
アオイは訝しげに見つめつつそれを受け取り中身を取り出すーー大きなジップロックに入った、着古した赤い革のジャケットが出てきた。
あの倉庫で相馬から助けられた時に、寒いだろうと桑名がアオイへ貸していたものだ。

「証拠品としてお預かりしていたものです。もう、必要が無いので一応お返しを」

ゆっくり袋の上から触れる。
これを着た背中を伊勢佐木異人町で見ることはもう無い。
あの人は、桑名仁だった人は今、どうしているのだろう。凍えてないだろうか、傷はきちんと処置したんだろうか、泣いてはないだろうかーーぼんやりとそれを見つめるアオイを一瞥し渡辺はさて、と立ち上がる。

「渡せるもんは渡しましたし、自分は帰ります。明日から交代で我々が見張りに立ちますので…八神と一緒に」

八神の視線に耐えかねて渡辺はそう付け加え、立ち去っていく。その背中にアオイは軽く会釈をした。



場所は変わり、暗い港の倉庫街に男はいた。息を潜め、時折痛む傷に足を止める。それでも歩みをとめなかった。目的地はない。宛もない。でも、立ち止まることは出来なかった。全てが片付いたと言えども、まだ闇の中で自分を狙う敵は蠢いている。
一段と強い風が吹いてたまらず巻いていた白いマフラーへ顔を埋めた。貰ったあの日きり大事にしまい込んでいたそれは、まだあの人の香りがする気がした。

「そんな目立つもん着けてどこへ行く?」

よく知った声に男は振り返り、笑った。

「もうとっくに国外かどこか遠くに行ったものかと思ってたよ」
「ああ、行くさ。これからな…ただ、言われたからとはいえ裏の世界へ案内しちまった甥をただ1人置いていく訳にはいかねぇ…来な、車は回してある」

そう言ったきり歩き出す背を追いかける。一瞬だけマフラーに手をかけて外そうとして、辞める。ひとりであてもなく歩いていた時もそうだ。結局、これだけはどうしても捨てられなかった。
日が落ちきった倉庫街は僅かに外灯があるが、そのあかりは灯っていない。
男はゆっくり、闇の中へと姿を消して行った。
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