マグダラのマリア

 机の上に置いたランタンの明かりがおぼろげに揺れている。マルチェロはそれを目で追いかけたのちに、顔を上げると人の好い笑顔を張り付けた。趣味の悪い香水の匂いにむせ返りそうだ。

 「このような僻地まで遠路はるばる、ありがとうございます。ニノ大司教」
 「オディロ院長には私もそれはそれはお世話になってね。亡くなったと聞いていてもたってもいられなくなったのだよ」

 ニノは足を組むとマルチェロを一瞥する。その瞳にはうっすらと侮蔑の色が灯っていた。
この男はなに不自由なく暮らせる家に生まれ、地位も名誉も生まれながらにして手に入れていた。世の中の上に立つ人間はそういう選ばれた人がなるべきという考えの人間だ。没落貴族の、ましてや妾の子供という生まれであるマルチェロがマイエラ修道院の聖堂騎士団長の座についているのはさぞ面白くないに違いない。

 殺されたオディロの院長の座はすぐに埋まった。突然空いたはずのその地位についた男はマルチェロが聞いてもいないのによく回る口で言い訳を並べていった。

 「あの方もお歳であったしね。万が一の時の話はもう決まっていたんだよ」

 そうですか、それはよかった。オディロ院長も安心されていることでしょう

 マルチェロが努めて穏やかにそう返したことに新しい院長はさぞ安心したに違いない。「その座を渡せ、こちらの方がふさわしい」とかなんとか迫られる、というもしもの状況をその「万が一の時の話」の中で議論されていたのだろうから。

 このマイエラ修道院は少し特殊だった。「聖堂騎士団」というものを抱えているのは法皇のお膝元であるサヴェッラ以外にはここ、マイエラ修道院以外に存在しない。お飾りの騎士団といえども、曲りなりに戦闘訓練されている騎士だ。信頼という手綱で従えさせてきたオディロ亡き今、武力で反対でもされれば勝てないと考えていたらしい。この辺りの思惑はユエをあちこちに潜らせて把握していた。

だからこそ、教会内の上層部もオディロ亡き今のマイエラ修道院の行く末は気にかけていた。次の院長はどうか我々のように権力になびく者であってくれ、と。
晴れてその願いは叶ったがまだ一つ問題は解決していない。では聖堂騎士団の手綱はしっかり握っていてくれるのか。こればっかりは叶わなかった。次期マイエラ院長は表面上はいい顔をしているマルチェロを持て余していた。
今目の前にいるニノはわざわざこんな片田舎まで足を運んで様子を見に来たのだ。こうしてマルチェロの元へ来たのも形式じみたものを装った、牽制ついでにどんな人物かを確認しにきたーーそう、マルチェロが仕向けたとは知らずに。

 「にしても最近はあまり良い話を聞かない。魔物の不穏な動きにおかしな道化師の話・・ますます教会内で分裂している場合ではないと思わんかね?」

そしてニノは底なしの強欲だった。この男が次の法皇の座を狙っていることは調べがついている。「法皇になりたい男」がその座につく前に、聖堂騎士団を使って法皇の真似事をしたいと思っていることも察しがついていた。

 「ええ、おっしゃる通りです」

 マルチェロは椅子に深く座りなおすとかぶりを振る。

 「・・今の法皇さまはそういう事の対処までは手が回らないとみえる」

 その言葉にニノが座りなおすと笑みを浮かべる。ひょいと投げられた餌に食いついているとも知らずに。

 「皆、口には出さないが今の教会を憂いておる。今の法皇様が悪いとは言わないが・・この現状をどうにかしなくてはとは思っておるはずだ。それはどうやら彼女も同じ認識だったらしい」

 ニノはそういって指を鳴らした。部屋の奥、光が届かない暗闇からその暗闇と同じ色の猫が現れ、みるみるうちに女へと姿を変えていく。見慣れた光景にマルチェロは驚いてみせた。

 「これは・・」
 「法皇様の小鳥の話・・末端と言えど教会に属するおぬしも話ぐらいは聞いたことがあろう?あれは本当の話でな。法皇となった者の元へは姿を変えることのできる『小鳥』と呼ばれる魔法使いが現れるのだよ。彼女はその『小鳥』の一人だ」

 女ーーユエも素知らぬ顔をしてマルチェロへ軽く一礼をした。ニノはその姿を見つめた後にユエのその細い腰へ手を回す。単純なやつだ。すっかりユエに絆されている。二人が軽く目くばせをしたのにも気付きやしない。

 「法皇様の小鳥がこちらについたのは心強い・・まあ、もう一人うるさいのがいるが、大した障害にはならんじゃろう。マルチェロ、お前もこの教会を新しくするつもりはないかね」

 マルチェロはにこりと笑った。

 「ええ、我が悲願でもありますので」




気分が良い。目の前の体を押し倒せば長い黒髪が白いシーツへ広がった。なんの抵抗もなくされるがまま、ベッドへ倒れ込んだユエはマルチェロを見上げる。

 「思った以上に簡単だったな。あれが次の法皇候補だと?」
 「金で上を抱き込んだの。法皇様のお傍にいた頃、法皇様はたいそう憂いていらしたけど・・周りはもう買収されてた」

 白い首筋に顔を寄せれば、吐息がかかってくすぐったいのかユエが息を漏らす。そのまま体のラインへ手を伝わせ、腰の辺りまで差し掛かった時に、ふと鼻腔をくすぐった香りにマルチェロは体を離したーーふと、先程ニノがユエに触れた光景がふと脳裏に浮かんだのだ。

 「・・・・にしても、随分と手なずけた様だがあれとも寝たのか」
 「・・マルチェロ・・?」
 「興が冷めた」

 そのままユエに背を向けるようにベッドへ寝転ぶ。置いてけぼりにされたユエは暫く黙っていたが、特にせがむ訳でもなく大人しく横になったらしい。ベッドが小さく揺れた。

 「こういうの、貴方とだけ」

 そして、また少しの沈黙の後、混乱したように

 「何を怒っているの?」

 と問いかけられたが、マルチェロは答えなかったーーいや、答えられなかった。



 ニノという男は使い勝手がよかったーーというのは、向こうもこちらに対してそう思っているに違いない。ニノにとってマルチェロは都合のいい武器になっていった。教会内での静かな権力争いの中で、聖堂騎士団という武力を持っているのは彼だけだったからだ。
ユエから聞いていた事前の調査通りに、ニノ大司教が教会内では実質、法皇の次に権力を握っているも同然の状態だった。実際はニノ自身が、というよりは彼の家が代々教会内で影響力のある地位にあったこともあるのだが、実質教会内のナンバー2にのし上がっていったのはニノの底なしな強欲の力であるのも事実だった。

 「今日、お前を我が屋敷に呼びつけたのは話があってな」

 その日、マルチェロはニノの屋敷に呼びつけられていた。
夕食と思われる豪華な料理を貪っていたニノは部屋にマルチェロが到着するなり構わず話し始めた。マルチェロの分もと料理を運んできたメイドにやんわりと断りを入れながらマルチェロはそれで、と続きを促す。

 「マイエラ修道院の院長についてだ。今の院長はふさわしくないんじゃないかという話が持ち上がってな。なんでもあのあたりの権力者たちが勝手に話を進めたというじゃないか。それは、あんまりじゃないかという話になってね、というのもわしが法皇様にお話ししたのだが・・」

 肉をあっという間に平らげたニノはナフキンで口元を拭うとにんまり笑った。

 「まあ経緯はいい。とにかく、院長はお前に任せようという話になった。喜べ、法皇様もそれならばと納得してくださった」
 「それはまた・・突然の事で驚いていますが、任された以上は務めさせていただきますとも」
 「ああ、そしてそうなれたのもわしのおかげだという事をしっかり胸に刻んでおくんじゃな。元来、お前なんぞが手に入れられる地位ではないのだから」
 「・・ええ。感謝申し上げます」

 いちいち神経を逆撫でする言い方にも慣れてきた。マルチェロはとりあえず感謝の意を述べながら頭を下げておく。
分かればいい、とばかりにニノは頷くとこれからの事だが、と声を潜めた。ここからが本題だ。

 「近頃、我々の小鳥ーーキトゥンの動きが鈍い」
 「・・ああ、あの」

 本名を明かしてはいけない、という母の言いつけを守っているユエはいくつか名前を持っている。一番初めにマイエラ修道院で料理番の時はマリアと名乗っていたが、法皇の専属魔法使いとしては「キトゥン」という名前で通っているらしいーーまあ、そもそもマルチェロに名乗っている「ユエ」という名前さえ数ある偽名の1つにすぎない可能性もまだある。

 ユエとはあの夜以来会っていない。ニノに「法皇を裏切って自分のものになった小鳥」と思わせている以上、怪しまれないためにも彼女はニノからの依頼もこなさなければならなくなった。
 マルチェロの言いつけもしっかり守っているが、以前の様に直接報告するのではなく、マルチェロがいないあいだにやって来て報告書だけを残すという日々が続いている。

 「何故?法皇様に何か勘付かれたのでしょうか?」
 「いいや、あの小うるさいモワノーの方だ」
 「モワノー?」

 聞きなれない名前にマルチェロが聞き返せば、ああ、とニノがかぶりを振る。

 「いや。そうか、貴様は法皇様の小鳥の存在最近知ったのだったな。いい機会だ、教えてやる」
 「・・それはどうも」

 ユエは自身の事を話さない。
法皇の小鳥がもう一人いたのも初耳だ。
 彼女があえて伏せていたのか、喋りたくなかっただけなのか、その魂胆はあの、整っている癖に表情の薄い顔を思い出そうが分からないだろう。そういうよく分からない不気味さが彼女にはあったし、マルチェロもあえてその辺はつついてこなかった。原因は不明ではあるものの、マルチェロを陥れる為に目の前に現れた訳では無いと、少なくともマルチェロに対して悪意がある訳では無いと、オディロ院長を失ったあの日に少しだけ思わされたからだ。

 「モワノーというのはキトゥンの双子の姉だ」

 続くニノの言葉にマルチェロは思考の坩堝から意識をすくい上げる。座り直しながらニノの言葉へと意識を向けた。
そんなマルチェロに気付かないまま、デザートへ手を付け始めたニノは会話を続ける。

「 畏れ多くも法皇様を『お父様』等と呼び、そばにいる小憎たらしいやつよ。あいつは教会中に目を光らせていてな、ワシなんかは完全にマークされておるよ。お前も気をつけろ」
 「はあ。その、モワノーとやらが私達とキトゥンの関係に気付いたのでしょうか?」
 「いや。そもそもキトゥンは半年前に何もしない法皇を見限ってサヴェッラを出て以来館には帰っていないからな。あの小雀は彼女がいま何をしてるかなんて知らんはずだ」
 「・・・・半年前ですか」

 半年前といえばちょうど、マルチェロの元へやってきたあたりだ。つまり、ユエは法皇を見限った後にわざわざマイエラ修道院の、ましてやオディロ院長ではなく面識のないマルチェロの元へやってきた事になる――面識はない、そのはずだが。

 「だがキトゥン曰く、自分を探し回る姉から隠れながらだから上手く動けないとな。あれに騒がれるのも面倒だ、気に食わないがこちらも慎重になるしかあるまい」
 「・・二人の他に法皇の小鳥はいるんですか?」
 「いや。というよりも、二人いる今が特殊な状況なんじゃよ。小鳥は法皇の座に新たな人が就くと、就任演説の日にどこからともなく一人やってくる。性別も男だった時もあったらしいが・・ともかく今までは必ず一人だったんじゃよ。現法皇様も就任演説の時にやってきた小鳥は姉のモワノーだった」

 ニノは食べ終えたデザートの皿を脇に避けるとコーヒーが入ったカップに手を伸ばした。

 「ただ、それからしばらく過ぎたころに法皇様がどこからか連れてきたのが妹のキトゥンでな。詳しくは法皇様しか知らないのだが彼女も小鳥で間違いないそうだ。変身する能力もあったし、我々がどうこう言える話でもないから特に何か思うことはなかったが・・」

 ここまで言い終えるとニノはにんまりと笑った。

 「これは神の思し召しかもしれん。法皇になるべき者がもう一人いるはずだと」

 その言葉にマルチェロは笑い返した。

「ええ、もしかすれば」
 
 それが本当ならば少なくともお前ではない。
喉元まで出かかった言葉を黒い感情と一緒に飲み込んだ。
 半年前、何故かやってきたユエはマルチェロの元へきた。ニノの前へ現れたのもマルチェロがそこへやったから。

 我々の小鳥?笑わせる。
はなからその小鳥は遣わされたものだ。




 ニノの屋敷を後にしてマイエラ修道院の団長室へ戻れば、意外な人物ーーユエがいた。オディロ院長の件で負った怪我が治るなりすぐ飛び出して言って以来、彼女とはタイミングが合わず顔を合わせていなかった。

 珍しく1つに縛っている長い黒髪は少し濡れている。先程降ってきた雨にやられたあたり、ユエもいまさっき帰ってきたらしい。同じように少し濡れた髪を撫で付けながらマルチェロはそのまま部屋に入る。いつもはマルチェロが使っている机を使っていたユエが気まずそうに立ち上がろうとしたので、その手元にある紙とペンを見ながら制止する。

 「報告は言葉でいいし、別にそこに座っててもいい。ただ、私以外には見つかるなよ」
 「え、ええ。大丈夫」

 そのまま横を通り過ぎて少し濡れてしまった上着を脱ぐと、乾かすために無造作にパーテーションに掛けた。落ち着かないのかユエはペンを何度か手持ち無沙汰に回すともう一度こちらを見る。

 「おかえりなさい。ニノ大司教に呼ばれてたんでしょう?どうだった?」
 「どうも何も相変わらずだ」
 「そうね、あれはいつもあんな感じ。本当にイライラするわ。でもムカつく事によく頭は回る・・ほとんどは浅はかな悪知恵だけど。それに、いつもこちらを・・・・あの、何か?」

 珍しく饒舌にしかも悪口ばかりを喋るユエを思わず、というより返す言葉を失って見つめていれば、気付いたユエが見つめ返してくる。いつもは静かに光るサファイアの瞳がどこか幼く見えた。
 ともあれ、ニノの相手は随分ストレスが溜まっていると見えた。

 「・・いや、お前もそうして愚痴を言うのかと」
 「あ、でも、その、仕事はちゃんとするわ。終わったら・・その、一度殴らせて」

 一度吐き出したら止まらなくなったのか、ユエはここまで言い終わると自分でもビックリしたようにええと、と口篭るのでマルチェロは思わず吹き出した。

 「気が済むまでやればいい。その時は俺の分も加えとけ」
 「わ、分かった」

 先程までのどこか気まずい空気が少しだけ和らぐ。マルチェロはシャツの胸元を緩めながらユエを見た。少しだけ言葉を探すように視線をさ迷わせ、口を開く。

 「・・夕食は?」
 「まだだけど」
 「私もまだだ。とにかく先に風呂だな。雨にやられたんだろう、ここの風呂を使えばいい。私は共用のを使う。夕食はそれからでいいか。といっても余り物の大したものはないだろうが」

 ユエは首を縦に振って頷くと慌てて風呂支度を始めた。その後ろ姿をみながらマルチェロは頭をかいた。



 ユエが風呂から上がる頃にはテーブルに全て用意されていた。万が一誰かが入ってユエの姿をうっかり見てしまうなんて事がないようにマルチェロは部屋の鍵を閉めると、嬉しそうに席に着いたユエの向かいに座る。
 パンを数個に残っていたおかずとスープという余り物の寄せ集めだが、その匂いに腹はぐうと鳴る。ニノが食べていた物に比べるといくぶんも質素だが、慣れ親しんだこの教会の飯の方が好きだった。

 「このスープ、好き」

 ユエは真っ先にスープの入った小さなカップへと手を伸ばしながら呟く。
 このドニの領地でよくとれる野菜を大きくカットして肉、それから薬草を煮込んだスープで、この辺りではどの場所でも家庭でも作られる定番のスープだった。
 ルーツとしてはその昔、流行病に効く薬草を子供に食べやすくする為に薬草を入れたことだったらしく、よく病人や怪我人がいると作られる。そういえば、聖堂騎士団の中で風邪をひいたやつが最近いたなとマルチェロは思い出していた。

 「そういえばお前、姉がいたんだな」

 ユエがぴた、と手を止めるので「いや」とマルチェロは続けた。なんだか和やかな空気を壊すのが嫌だった。

 「特に意味は無い。そういう話を全く聞かなかったからな」
 「・・そうです。私たちは双子で、いつだってお互いを分かっていました。だからこそ、苦しくなってしまったのだけれど」
 「・・お前がこの先も私に協力するのであればいずれその姉とは対立するぞ」

 ユエは真っ直ぐにマルチェロを見つめた。

 「はい。構いません」

血の通ったきょうだいと言えどもそれを取り巻く環境も関係性も様々だ。それをよくよく知っていたマルチェロは「そうか」とだけ答えたきり何も聞かなかった。




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