ステュクスの沼

ユエの為に開け放している窓から物音がして、マルチェロは振り返りもせずに声をかけた。これが、失敗だった。

「また随分、帰ってこなかったなユエ」
「何故、お前がその名を知っているの?」

ユエとは違う声が返ってきて初めてマルチェロは振り返る。

窓枠に見慣れない女が座っていた。
顔こそ彼女と似ているが、勝ち気そうなルビーの瞳をした女は、短く跳ねた雀のような色の髪を風に靡かせてマルチェロを睨んでいる。

「…誰だ」
「先に質問をしたのは私よ。答えなさい」
「では言葉を替えようか。その質問は、妹にしてくれ」

「妹」という単語におおよそ理解したらしい女は怒ったように眉根を寄せる。ユエとは違って感情その物が飛び出てくる女をマルチェロは注意深く観察する。初めて出会ったあの日のユエのように修道服に身を包んだ女はマルチェロを不愉快そうに見て顔をしかめている。

「妹に何かしてみなさい。許さないから」
「なんだ、法皇の小鳥はそんな事を言うためだけに遠路はるばるここまで来たのか?あいにく私は忙しいんだが」

女は言いかけた言葉を飲み込む様に開きかけた口を一度閉じると、ポケットからなにやら取り出して机へと放りやった――船のチケットだ。

「……法皇様から伝言です。あなたは来月付けで法皇様直属の聖堂騎士団に任命されたわ。光栄に思いなさい」






波の音が聞こえてマルチェロは目を覚ました。見慣れない天蓋が視界に広がる。息を吸って深く吐く。なれない潮風が頬を撫でて不快だ。
眠る前まではいた隣の人物、そして開け放たれたバルコニーの扉。どうやらユエはバルコニーに出たらしい。

女が持ってきた船のチケットは二枚あった。あの時は触れなかったが、どうやらユエがマルチェロの元にいることは筒抜けのようだ。
船着場からサヴェッラに向かう連絡船に揺られることはや二日。空いている部屋がなくて同室になってしまったこと以外には特に何も無く穏やかな時間が流れていた。
法皇がマルチェロを専属の聖堂騎士団長に据える動きを知ったのか、ニノからの連絡も無いようで珍しくユエもゆっくり過ごしている。

何度か寝返りをうつ。目を閉じて呼吸を整える――ダメだ、一度冴えてしまった意識が眠る事を阻んでくる。
マルチェロはベッドから起き上がるとテーブルへと向かう。置いてあった水差からグラスへ水を注いで飲み干した。なんとなしに開け放しになっているバルコニーを見遣れば、椅子に座っているユエの後ろ姿が見えた。傍には酒瓶がある。
マルチェロは少し考えた後に水差を持ち、彼女へ近付いた。静かな夜の海の上、船が波を切る音だけが響いていた中で足音はよく響く。音に気付いたユエが隣にやってきたマルチェロを見上げた。少し顔が赤い。

「…お前も酒を飲むのか」
「…あんまり。サヴェッラにいる頃は飲んだこと無かったから。ただ…」

視線をマルチェロからグラスの中身へ移すと両手で持っていたグラスを揺らす。

「何かに頼りたかったの」

マルチェロは何も言わず酒瓶の隣に持っていた水差しを置くと隣に座る。そのままグラスへ酒を注ぐと一口あおいだ。ユエは残りを一気に飲み干し、マルチェロの持ってきた水差しから水を注いだ。ほんのりワインがグラスの底に残っていたから水は薄く赤い。酔っ払いはそんなことは気にならないらしい。

彼女の事についてはあまり知らない。
姉がいることと、雀と呼ばれる魔法使いであること――まあ、この法皇に使える魔法使いというのも実態をあまりしらないが。
先日の女を鑑みるに、彼女とはあまり円満な関係とは言えなさそうだ。

「…不安か」
「…分からない」

ユエはグラスを起き、膝を抱えるようにして座り直す。目下に広がる海は静かで暗い。暫くは船が波を切る音だけが響いていた。

「…昔は、お互いの思考が手に取る様に分かったの。双子だからなのか、そういう力を持ってたのかは知らなかったけど」
「…今は?」
「分からないようにしてる」

含んだ言い方にマルチェロは横目でユエを見た。
ユエは膝を抱え直す。

「…私たちが生まれたのは森に囲まれた不思議な村。色んな生き物がいて…神聖なところ。私たちの御先祖は神鳥の力を分け与えられた人間で、選ばれた人が代々法皇様の力になってきたの」
「どうやって選ぶ?」
「神様が選ぶ。そうなるべき人だけが変身できる力を持って生まれてくるの。私達もそれだった。いつか二人で一緒に使命を果たそうって思ってた」

沈黙。
マルチェロは特に続きを促さなかった。ユエの横顔はずっと言葉を探している。ようやく見つけたのか、また口を開いた。

「ある日……酷い人達に見つかって、追われて…私が転んで怪我しちゃったの。歩けないって私の気持ちが姉に伝わった時に、すぐに伝わってきたの……『一人いれば大丈夫じゃないか』って…これが最後に読んだ姉の心の言葉。それから私達はお互いの心を閉ざした」

その続きを思い出したのか、ユエは体をふるわせて縮こまった。酷い人達、追われていた、これらのキーワードがある辺り、決していい過去では無いはずだ。

「…姉が憎いか」
「…分からない。だって、逆の立場だったら?私だって同じことを思ったかもしれないわ。だけど…許せない気持ちもあって、ぐちゃぐちゃで、怖くて、逃げてた」

その名状し難い気持ちにはマルチェロにも心当たりがある。怒りであり、今の行動の根源であり、ずっと自分の中に巣食っている怪物だ。

「分からなくもない」

思わず零した言葉に返事の代わりに寝息が聞こえてきた。マルチェロは聞かれなかった事にどこか安堵しながら2つのグラス、酒瓶と水差しをそれぞれ室内の机に戻した。
それから暫く迷ったあと、椅子に寝ているユエを抱き抱えてベッドまで運んでやった。



意識か浮上して目を開けるなり視界に入った寝顔にユエは思わず声を上げそうになった。

どうしてこんなことに?

昨日の最後の記憶は椅子の上だ。ベッドに潜った記憶はない。どうやらマルチェロがここまで運んでくれたらしい。

早鐘を打つ自分の心臓の音を聞きながら、目の前の寝顔を見る。いつも凛とした光を湛えている翠色の瞳を隠した、瞼の先にある睫毛は少し長い。いつも事を終えた後の朝はマルチェロが先に起きているので寝顔をこんなにまじまじと見ることは無かった――そう、再会してから。

(この感じ、懐かしいわ)

記憶にある寝顔はもっと幼くて――ぱっと瞼が上がって視線が絡まる。

「……人の寝顔を観察か。随分なご趣味で」
「ひゃ、ちが、わぁあっ、ぐにぇっ」

情けない声を上げるとユエは飛び起き、勢い余ってベッドから落ちた。最後の床に体を叩きつけたうめき声に合わせ、上体を起こしたマルチェロは顔をしかめる。
そのまま顔を真っ赤にして床に転がっているユエを無視して、起き上がるとさっさと朝の身支度を始める。

「恥じらうならもっと適切な場面が今までに何度もあったと思うが?」
「そ、その時だって、は、はず、恥ずかしがってる!」
「私の記憶とはちょっと違うな」
「違わない!!」



それから2人を乗せた船は穏やかな海を進み続け、予定通りに目的の港へ着いた。船を下りるなり聖堂騎士団が乗客のチケットと荷物の検査をしている。
マイエラ修道院に仕える聖堂騎士団より幾分も上質な生地で装飾のある制服に、これで戦えるものかと一瞥したマルチェロは内心毒づいた。
隣のユエが「あ」と声を上げると小走りでどこかへ向かう。
その背を追いかけて視線を走っていく方向へ向ける。
そこに1人、男がいた。
人混みの中で彼が目立ったのは、その高い身長か、くせっ毛な金髪に優しそうな碧眼を持った整った顔立ちのせいか。ユエと同じく何かに気づいたと言わんばかりの顔をした後に笑った。その優しげな笑顔に思わず隣を通り過ぎた女が目を奪われている。物語に出てくる王子様の外見を想像してみろと言われた人はみな、きっと彼のような容姿を想像するのだろう。マルチェロはユエの背中を追って男へと向かう。

「ヨハン!」
「キトゥン!良かった、元気そうだ。みんな、心配してたんだよ」
「…ごめんなさい。ちょっと、やる事があって…」
「そっか。君は使命のある人だからね。きっと大変なんだろう。だからこそ、長くあける時こそ声を掛けてくれ。見送りくらいはしたいんだ」
「うん、ありがとう」

ヨハンと呼ばれたその男はユエに優しく笑って、それからようやくユエの後ろのマルチェロに気付いたらしい。人の良さそうな笑顔をまた浮かべた――違う、と何故か感じた。彼女へ向けたそれと今のこれは違うと。何が?どうしてだ?その違いは少なくとも敵意の有無ではない。だからこそマルチェロはそう感じたことに内心面食らっていた。
そんな脳内の疑問の答えが出る前にヨハンが口を開いた。

「マルチェロ殿。お声をかけるのはこれが初めてになりますね。サヴェッラ聖堂騎士団の副隊長を務めさせて頂いておりますヨハンと申します。つまり、これからあなたの直属の部下となります!」

はつらつとそう答えてヨハンは手を差し出した。混じりっけのない100%の好意に流石のマルチェロも手を差し出して握るしか無かった。こういう真っ直ぐすぎる人も苦手だ。
そんなマルチェロの心情を露ほども知らないヨハンはますます笑顔を深めた。なんとなく気付いていそうなユエは気まずそうだ。

「さて、長い船旅でお疲れでしょうが港からサヴウェッラまでは少々道のりがあります。馬車を用意しましたのでご案内を」

ヨハンは大きな体で人混みを掻き分けるように進む。マルチェロとユエはそれに続いた。
すこし歩いたその先に止めてあった馬車へ着くと、御者へ手を挙げて挨拶したヨハンは荷台の幕を開けた。

「大きなお荷物はあらかじめこちらに運ばせていただきました。ご確認お願いします」
「問題は無い」
「よかった。ではさっそく向かいましょうか。道中で我が聖堂騎士団のご説明をさせて頂きますね」

マルチェロ、ユエ、それからユエが乗り込むのを手伝ったヨハンが乗り込むと馬車が動き出す。
船旅もずっと波に揺られている感じがあまり好きではなかったが、船の方がマシだったかもしれない。ガタゴトと荷物と一緒に揺られながらマルチェロは「で、」と切り出した。

「さっそくお願いしようか」
「ええ、喜んで!我々サヴェッラ聖堂騎士団は主に3つの班に分かれ、総勢33人で構成されています」
「3つ?」
「ええ。先程、あなた方が見た班――主にこの大陸にやってくる船舶の管理、手続きや港の警備をする班、サヴウェッラ大聖堂で働く班、それから私が所属する法皇様の館の警備を専門とする班の3つで構成されています。マルチェロ殿はこれら3つの班の取りまとめ、法皇様の側近になっていただく形になりますね」
「なるほど」

ここで大きく馬車が揺れる。
ヨハンは荷物を抑えながらニコリと笑う。

「まあ、その他に他の大司教の方々と法皇様の取り次ぎや行事毎の警備や手配といった仕事もありますが、今は組織の大枠さえ掴んでいただければ!」

それにしても、とヨハンは続ける。
よく話す奴だ。

「マルチェロ殿と一緒に働けるとは光栄です…お噂はかねがね伺っております。1年ほど前の集会の際にお見掛けした時はお声がけする勇気もなくて…」

ヨハンは大きな体を少し縮こまらせて照れている。マルチェロはそうか、とだけ返した。それ以外、返答が思いつかなかったのだ。やはりこの男は苦手だ。
気まずい雰囲気になるかならないかといったところで、ヨハンが前方をみて「あ、もうすぐですね」と声を上げた。

「到着次第、お二方のお荷物はお預かりして部屋へお運びしておきますので、まずは法皇様へ謁見願います。特にキトゥン、君は絶対行くように…では、少しの間お休みください」

そうヨハンが言葉を締めた瞬間、馬車の荷台は大きく跳ねた。ユエは小さく悲鳴を上げてマルチェロは慌てて荷物を抑える。ヨハンはニコニコしていた。
全く先が思いやられる、とマルチェロは密かにため息をついた。



法皇の館は堂々とたたずむサヴェッラ大聖堂のさらに上にある。
館への昇降機を降りたマルチェロは眼下に広がる景色を見た。少し下に雲が流れ、そのさらに下にサヴェッラ大聖堂が見える。先ほどは見上げていたそこはとても小さくみえた。その景色に暗澹たる気持ちになった。怒りのようなそれを腹に戻しながら館へと向き直る。

「高いところは苦手ですか?」

ユエとマルチェロの荷物を持ったヨハンはニコリと笑った。

「……いいや、こうも高いところにあるのかと感心していたのだよ」
「ええ、法皇様は全てを見ていらっしゃいますから」
「すべて…ね」

マルチェロの含んだ物言いにヨハンは気にも留めず「さあどうぞ」と案内するように歩き出した。フラワーアーチをくぐり、館の大きな扉を開ける。

「法皇様のお部屋は2階となります……おや、モワノー様」

左右から伸びる2階へと続く階段のその先、法皇の部屋へと続く扉の前に女がいた。あの時、マルチェロに船のチケットを持ってきた女だ。
ルビーの瞳は冷ややかにマルチェロを見下ろしていた。

「ヨハン、案内ご苦労様でした。ここよりは私が案内します。あなたは荷物を部屋へ運ぶように」
「ええ、かしこまりました。ではマルチェロ殿、謁見が終わり次第またこちらの玄関ホールでお待ちいただけますでしょうか。館の案内をさせていただきますので」

ヨハンはぺこりと一礼してそのまま歩いて行った。どうやら2階は法皇の生活圏、1階は館に住み込みで働く者の居住区になっているようだ。ヨハンの背中を見送り、マルチェロは2階の踊り場にいるモワノーへと視線を戻した。相も変わらず彼女はじとりとこちらを見ている。

「…行きましょうか」

ユエは静かにそうささやくと2階へと上がっていく。追って2階へ上るとモワノーが腰に手を当て待っていた。

「改めまして、私はモワノー。隣のキトゥンの姉になります。私達は法皇様の目となり耳となる役目。お噂はかねがね、貴方がマルチェロね。遠路はるばるご苦労さまでした。法皇がお待ちです」

意外にも再会した彼女は冷静だった。さすがに法皇のお膝元では傍若無人には振舞えないか。モワノーはそのまま大きな赤い扉を開けた。
大きな窓からは陽の光が柔らかく差している。
それを一身に受けている人物は視線を落としていた手紙からこちらへと視線を向けた。真っ先にマルチェロの隣にいるユエを見つめて目の端を優しく下げる。
そんな視線を受けてユエは跪いた。マルチェロも倣って跪く。

「ああ、お帰りユエ。色んな物を見てこれたかね?」
「お父様!」

ユエと呼んだことにモワノーは声を荒げたが、法皇は視線で制されそれ以上は口をつぐんで何も言わなかった。法皇はそんな彼女に微笑みかけ、それからマルチェロへと視線を移した。

「彼はもう彼女の名を知っているようだからの…久しいな、マルチェロよ。昨年の集会以来となるかな?話はオディロからよく聞いておった。惜しい人を亡くした」

マルチェロは何も言わず跪いた姿勢のまま床を見つめていた。深紅のカーペットは汚れひとつなかった。

「あの方は……オディロ院長は、私の恩人です。」

自分が親だと呼べる人は母親とオディロの2人だ。
そしていつだって大きな力は大事な人を蹂躙していく。もう何かを失わない為に、これ以上奪われない為にもマルチェロは力が欲しかった。
今日がその為の大きな1歩となる。

「…そうか。彼のためにも、ここで聖堂騎士団の務めを果たしなさい。彼に誇れる、よき人でありなさい」

マルチェロは返事の代わりに頭を深く下げた。




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