グレイグとともにやってきたウルノーガが入り込んだデルカダール王の瞳をみた時、ホメロスは直感的に終わりを悟った。
倒れたホメロスは傷口からあふれ出した血を何処か他人事のように見ながら、ああも自分が身を捧げていた魔王が、あれにたぶらかされたのだと皆に偽る言葉を聞いていた。
虫の息のホメロスをもう何もできないのだろうと放置しているのか、そもそもかろうじてホメロスがまだ息をしているのに気付いていないのかーーそこまで考えたがもうどうでもいい、死が目の前に迫ってきているのは分かっている。
剣を手に入れたイレブン達が王に連れられて世界樹を後にしていく。その中に、大きな黒い背があった。その背はふいに立ち止まり、こちらを向くーーその時だった。
「まだ間に合うわ、手を伸ばして、」
懐かしい声がした。
目を覚ますと次には見知らぬ場所にいたーーいや、違う。デルカダールであてがわれている自室だ。ホメロスはいつも仕事をしていた執務机の椅子に腰掛けている。見慣れたこの部屋を一瞬でも見知らぬ場所と思ったのは、机と壁の間に不思議な魔法石が置いてあるからだ。そこから出ている光が壁を照らし、どこかの風景を写していた。立ち上がろうとしたところで、不意に隣から声がした。
「こんにちは」
声につられて隣を見たホメロスは、そこにいた明るい茶髪の少女に思わず息を呑むと固まった。そんな彼に御構い無しに少女は前を向いている。
最期に見た姿よりいくらも幼い少女はいつのまにか子供用の小さな椅子に座り、熱心に映し出された風景を見ている。
「はじまるわ、みて」
こちらに目もくれずそう言った少女は、きっともうこのまま穴が開くほど見ようがこちらを見ないだろう。ホメロスはまだ少し少女から目を離せないままだったがようやく前へ向いた。映像はデルカダール城の中庭が写っている。
そこには、まだ幼い自分がいた。世界樹の大きな根っこに腕をくっつけて数を数えている。
「9・・10・・」
数え終わったホメロスは至極面倒くさそうにため息をついて城内へと入った。そのまま分かっているのか二階へと上がると、空いている客室に滑り込んでクローゼットを開ける。そこには、緩やかなウェーブがかかった明るい茶髪の少女がいたーーそう、今も隣に座っている少女がそこに映っている。
少女はホメロスと目が合うなり瞳を丸くさせた。
「・・まあ、またすぐ見つかってしまったわ」
「あたりまえだろ、あなたはいつもこの客室のクローゼットか、バルコニーにある樽の後ろだからな」
少女は考え込んだ後に笑った。
「あら、じゃあ次からはそこ以外にしましょう」
ホメロスはクローゼットから出るのに手を貸してやりながら鼻で笑う。
「当てようか。今、王の椅子の後ろを考えただろ。それは卑怯だ、オレが探せない」
「まあ・・! どうしてわかるの、ねぇ、ホメロス教えて」
食い気味に訊ねる少女にホメロスは大袈裟に呆れてみせた。
「あなたは分かりやすいから。あと、グレイグは階段横の像の後ろだ、いくぞ」
少女は歩きだしたホメロスの手を握り笑った。
「すごいわ、魔法使いみたい」
幼いホメロスはその言葉に「バカか」としかめっ面を作ってみせる。ただ、歩調は少女に合わせたものだった。
ザザッという音とともに映像が乱れ、次に魔法石が映したのはガラリと違う場面であった。その場所はよく知っている。昔、グレイグとこの少女と三人でよく忍びこんだ空き部屋。今はもう倉庫になってしまっているが。
そこに、先程の映像よりもいくつか歳を重ねた自分と少女がいた。少女と呼ぶにはいくらか大人びた格好をしているが、それでも窓の外を見つめる横顔はまだあどけない。青年ホメロスはそんな少女の横顔をしばらく見つめた後に、きりだした。
「・・・・で、お前はどう思った」
「どう? どうって何がかしら?」
「先程の話だ」
ホメロスの言葉に少女は「ああ、」と言葉を漏らす。どうでもいいとでも言いたいような声音にホメロスは多少面食らったが、怒りが驚きに勝り、少し噛み付くように言葉を続ける。
「お前、これで本当にいいのか?」
「なんでホメロスは怒っているの? そんなに私との婚約は嫌?」
「嫌なわけないだろ!」
「あら嬉しい! 私も同じよ、問題はないじゃない」
にこりと微笑まれてホメロスは言葉につまり、そのまま何かを言いかけたがそれを飲み込むと近くにあった椅子を引き寄せて座り込む。どうもこの笑顔には昔から弱い。いじけてしまったホメロスに少女は困ったような顔をしてみせた。
「・・何を考えているの? 教えて」
それはきまって少女がホメロスを促す時に使う言葉だった。ホメロスはしばらく逡巡した後に、口を開く。少女はにこりと笑ってその膝の上に腰掛けた。
「・・・・貴女は追いやられたんだ。落ちぶれたオレの家柄なぞ、貴女と比べれば天と地の差だ。この婚約は貴女を王位の座から遠ざけるための布石。これで貴女に男児ができたところでオレの家に嫁いだからにはもう、」
そう言いかけたホメロスはこちらをじっと見つめる少女に言葉を止める。視線が交わった少女は目の端を下げるとホメロスの頬を手で包み込んだ。
「・・つまり、私のために怒ってくださるの?本当に賢くて優しいのね。でも可哀想に・・少し、分かり過ぎちゃうのね」
「・・・・貴女は本当にめでたい人だな」
「ふふっ、そうね」
少女はホメロスから手を離すとまっすぐ前を見つめた。
「・・私は貴方より賢くはないわ。だから、今とっても幸せよ。たしかに私の婚約にそんな思惑を抱えている方もいるでしょう。でも、これだけはたしかよ。お父様もお母様も、叔父様・・デルカダール王も、私の意思を尊重してくれたの」
私ね、とこちらを向いて笑う少女が眩しくて、ホメロスは少し目を細めた。
「だって私が、貴方がいいってお願いしたんだもの。一生を添い遂げる殿方は貴方がいいって」
「・・・・貴女は常々、俺を魔法使いだと揶揄するが、貴女もオレの魔法使いだな」
「あら、ほんとう? 嬉しい!」
少女はきらきらっと笑った。
映像がまた途切れ、今度はデルカダールの城下町の教会に変わる。鐘が鳴り響く中、黒い服を身にまとった人々が嘆いている。その中に、同じく黒い服をまとった過去のホメロスがいた。先程の映像よりも成長したホメロスは、ぼんやりと教会の前に立っていたが、運ばれてきた棺に我に帰ると駆け寄った。
「おい、見せろ、これは間違いだ! この中に入っているのはあの人じゃない!」
「やめなさい」
棺に触れてまくし立てるホメロスに、棺の横にいた軍医が彼を見ることなく言った。
「・・溺れて死んだ体は見ないほうがいい。記憶の中のあの方を思い出して悼みなさい」
また鐘が鳴る、鐘が鳴る。
教会の前で、過去のホメロスは立ち尽くしていた。
また、映像が変わる。今度は比較的最近の映像だ。医務室から伸びる行列にホメロスは顔をしかめ何か言ってやろうと医務室を覗き込み、息を呑む。そこにいたのは、彼女によく似た髪を持つ女だった。
「・・・・アイツは、少しお前に似ていた気がする」
「ほんとう? 自分の事って意外とわからないのよね・・どの辺り?」
なんとなく呟いた言葉に返事が返ってきて、ホメロスは慌てて映像から隣へ視線を移す。いつのまにか隣の少女は大きく成長し、ホメロスとあまり変わらないくらいの年頃の女になっていた。
ゆるくウェーブした淡い茶髪を揺らし、彼女は手に顎を乗せて面白そうにこちらを見ている。
「・・なんとなく、雰囲気が。もちろん中身は全く違う。お前はあんなやつより賢く、美しい」
「なぁにそれ、全然分からないわ。それに、あの人も素敵よ。だから、助けたかったのよね?」
「なにが、」
からからと笑った女は笑う。そしてふ、と映像の方へ指をさす。
つられて見れば、自分とウルノーガがすでに入り込んだ王が映像に写し出されていた。そう、これは確かグレイグがあの女を拾った時だ。
「確かに奇妙な女ですが、本当に我ら側に引き入れるおつもりですか?正直、使える駒にすらならないと思います」
「芽は早めにつむ、それはお前がいつも言っていることであろう」
「・・ですが、あの女が大した障害になるとは・・」
「珍しいなホメロス、よもやあの女に惚れたか?」
投げかけられた言葉に、はた、とホメロスは止まると短く笑った。
「・・・・・・まさか。私の魔法使いは、これからも今までもあの人だけだ」
映像が途切れると今度はだいぶ壊れ果てたデルカダール城が映る。変わり果てた自分が、死にそうなあの魔法使いの女にオーブを渡そうとしている。
「貴方はあの子に脅しをかけたり、所々自分の痕跡を残すことであの子やグレイグが敵を貴方だけと信じるように仕向けたのよね・・そしてこの時は、死の痛みから彼女を救おうとした」
「ッ、」
ホメロスは魔法石を掴むと勢いに任せて壁に投げつけた。鈍い音を立てて魔法石は床に転がる。隣の女は一連の流れを静かに見ていた。
「・・相変わらずめでたいな、貴女は」
「だって貴方は賢く優しいもの。もしも、グレイグ達が王に魔王が入り込んでいると早々に知ってしまったら・・消されるって分かってたんでしょう? 魔王の力で確かに良心は蝕まれていたけど、死の痛みから魔王の力で救うなんて歪んだ良心だったけれど、貴方は貴方のままだった」
「違う、」
「ダーハルーネもそうよ、どうして目撃した男の子を殺してしまわなかったの? 盗賊の子も、勇者を追い詰めるならもっと痛めつければよかったじゃない。あぁ、そうね、殺してしまえば良かったんじゃない? 敵の戦力が減ったもの。でも、しないでしょう? そうよ、貴方はそういう優しい人だもの」
「違う!!」
激昂してホメロスは女の前に立つ。女はゆっくりホメロスを見上げると、悲しそうな顔をした。構わずホメロスは続ける。
「オレは、あのグレイグを超す力が欲しかった! だからこそ魔王の力に手を染めた!」
「・・・・そうね」
「だから、あの女も邪魔だっただけだ。現に死ぬところをあの後ただただ見ていた、ずっと! あいつらは、グレイグは嫌いだ、憎い、いつもああやってオレを馬鹿にして追い越していく!」
ここまで全て言い切るとホメロスは肩で息をする。目の前の女はホメロスから目をそらさなかった。そのまま、形の良い唇を動かす。
「グレイグが貴方を馬鹿にしたの?」
「・・・・あいつはいつも先を行く」
「じゃあ貴方は彼より弱いの?」
「違う、オレは、」
「違うわよね。知ってるもの、私。貴方は誰よりも努力してる」
「そう、オレは、オレは努力したんだ」
「えぇ、えぇ! 知っていますとも、大好きな人。あなたは素敵よ、グレイグも素敵よ」
女は笑ってゆっくり立ち上がるとホメロスの手を取った。その温かさは以前と変わらなかった。陽だまりのような、いつだって自分のプライドも意地も悩みも溶かしてくれる温かさ。
「頑張ってたわ、私の賢い人。どうか自分に枷をはめてしまわないで。そして思い出して、だってグレイグも私も皆んな、いつだって貴方が大好きで頼りにしていたわ」
にじむ視界もそのままに、ホメロスはただただ涙を流していた。いつだってこの人は自分の欲しい言葉をくれる。彼女の言葉が、ぽっかり空いていた心にすっと入っていく。
「貴方が見ている背中は本当にグレイグの背中かしら? 隣は見た? 私も彼もいつだって、そこにいたのよ」
「・・結局、オレは自分で全てを壊してしまったのだな」
「いいえ、まだ間に合うわ」
女はからっと笑うとホメロスの手を引いて部屋の扉を開けた。デルカダールの自室ならばそのまま城の廊下へと繋がるその扉は何故か、あの世界樹の頂上へと繋がっていた。
倒れた自分のその向こうに、勇者達とグレイグがいる。今まさに、この場を後にしようとしているーー帰った先にウルノーガが待ち受けていると知らずに。
「グレイグに伝えなきゃ。勇者は知っている、叔父様・・いえ、デルカダール王に魔導士が入り込んでいることを知っているわ。でも、グレイグは知らない。追い詰められたあの魔導士は、次にどうすると思う? 彼の魔法使いが、危ないの。知らせなくちゃ」
「・・・・まだ、間に合うだろうか。ずっと裏切り続けてきた男の言葉を、あいつは信じてくれるだろうか」
「彼が信じてくれるか、周りが認めてくれるかじゃないのよ。ホメロス、まずは貴方が貴方自身を認めなくちゃ。大切な人を失う辛さは、貴方が一番知ってるでしょう?」
ホメロスはしばしグレイグの背を見つめ、ゆっくり女の手を離した。そのまま、女へと視線を向ければ彼女は笑っていた。
「お願い魔法を見せて、私の魔法使い」
「ホメロス、」
親友の呼び声に連れられるようにホメロスは意識を戻した。強烈な痛みに耐えながらゆっくり目を開けると、視界に映ったのはグレイグの顔。
あれだけ裏切られたというのに、死にゆくホメロスへ必死に呼びかけているーー瞼を開けたホメロスに少し安堵したような顔。そうだ、この大きな親友はこういうやつだった。いつからだろう、彼の顔を見て話さなくなったのは。
「・・相変わらず、おひとよしめ、」
「おい。まだ死ぬなよ、どういうことだ説明してくれホメロス、」
時間がない。それはグレイグも、そしてホメロスも。
ホメロスは王に斬られた時に取れたあの、誓いのペンダントを引っ掴むとグレイグの胸に押し当てた。彼を裏切り国を裏切った自分は、これをあの世にまで持っていけないだろうーーただ、この親友にはせめて、あの日のあの時の誓いを立てた嘘偽りのない自分を覚えてて欲しかった。
「急げ、珍しくお前のその勘は正しい、あれは、王では、ない」
感覚が消えていく、視界がぼやけていく。それでも構わずホメロスは続けた。
「私はお前をずっと騙してきた。ただこれに誓って、本当だ・・・・早くいけ、お前の魔法使いが、死ぬ前に」
最後の言葉に、グレイグがはっと身を硬くした。思ったことがありありと表情に出ているーー変わらないな、とホメロスは笑った。
「単純な奴め」と呟いた言葉はグレイグに届くことなく、ホメロスと共に消えた。
波の音が聞こえる。
その音につられて目を覚ました。視界に飛び込んできた天蓋はデルカダール城にある自室にはないもので、ソルティコの別荘にあるものだ。
緩慢な動きで起き上がるとホメロスはぼうっとあたりを見渡す。ソルティコ特有の潮風もなければ海の匂いもしない。窓から差し込んでいるらしい日の光も、特に温かさを感じない。不思議な感覚だ。
ゆっくりベッドから出ようと横を向いた時だった。扉が開け放たれた二階のバルコニーの先に、誰かがいる。ホメロスはしばらく固まった後に、ベッドを降りるとゆっくり近付く。
ゆるいウエーブのかかった淡い茶髪が、無いはずの風に揺れている。
「・・・・・・ユエ、」
長らく呼んでいなかったその名前を呼んだ声は震えていた。呼びかける、と言うよりも口から零れたという表現が相応しいその声は、目の前の背中には届かなかったかもしれないーーそんな一抹の不安が杞憂だと瞬時に気付いたのは、その背が素早くこちらへ振り向いたからだ。榛色の瞳がホメロスを見つけるなり、大きく丸くなる。
「・・ホメロス・・? ホメロスね、あぁ、良かった・・! 間に合ったのね、」
こちらへ来るのも待てずにその手を引いて引き寄せた。陽の光からは感じなかった温もりが、引き寄せた細い身体からは感じる。強く抱き込んで、首筋に顔を埋めたきり話さなくなってしまったホメロスの背をを、彼女ーーユエはあやすように抱き返す。
「・・何故、先にいってしまった」
「・・ごめんなさい」
「・・・・オレと共に生きたいと、生涯を共にしたいと言った癖に」
「・・・・・・ごめんなさい」
彼女が悪くは無いのは分かっている。幼子のように文句を言うホメロスに少し笑ったような声が聞こえてゆっくりホメロスは顔を上げる。久方ぶりに見たユエの顔はあの日から何ら変わっていない。
視線が交わったユエは目尻を下げて微笑んだ。嬉しそうでいて悲しそうな笑顔を浮かべながら、ホメロスの頬に手を添える。
「辛かったでしょう、苦しかったでしょう、でも・・・・頑張りましたね、おつかれさま」
ユエの言葉を噛みしめるように、ホメロスは瞼を閉じてユエと額を合わせた。
「・・・・ずっと、ずっとあなたに会いたかった」
「・・私もよ、だから死ぬ時にお願いしたの。あぁ、どうか神さま、ホメロスと共に大樹へ還らせてくださいって。ここでどうか待たせてくださいって・・ずっとね、待っていたのよ」
「・・・・随分、待たせてしまったんだな」
ユエは何も言わなかった。ただ、ホメロスの服の袖を掴む手には力が入ったのを感じた。
ふわ、と不意に風が部屋に吹き込む。風に誘われて目を開ければ、視界の端に淡い紫色が映る。
「・・蝶?」
「あぁ、時間みたいね」
淡く紫色に光った蝶が1匹、2匹と窓から舞い込んでくる。やがて無数に増えた蝶は列を成すと、まるでひとつの道のように窓から少し空いた扉へと続いていく。
「何処へ続いているんだ?」
「きっと、大樹へ続いているのよ。そこへ還るんですもの・・・・今度は一緒に、ね?」
ホメロスは笑ってその手を取った。
「ああ、勿論だ。もう離すものか、私の魔法使い」
痛みはなかった。苦しくもなかった。ただただ、満ち足りていた。
これから彼女と共に大樹へ還り、互いにひとつの葉になってまたあの世に生を受けたならばーーその時こそは、病める時も健やかなる時も。