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幸せの形は目には見えない。
青い鳥は幸せの象徴なんかじゃない。
無理やり奪って攫って殺めて青い鳥を手元に置いても意味がない。
幸せという概念は流動的で今日の幸せは明日の不幸かもしれない。
昨日の不幸は今日の幸せになるかもしれない。
同じものを見ても感じ方はいつも同じじゃない。
だから、青い鳥を鳥籠に閉じ込めてもきっといつの間にか消えてしまう。
鳥籠が加護であるのなら尚更のこと鳥籠は守るだけで閉じ込める役割を果たさない。
自分が信じたもの、自分が考えているもの。
それは常に同じじゃない。同じ価値観じゃいられない。
閉じ込めて終わりにならない。
幸せが欲しいなら努力を怠ってはならないし、その幸せがどこかへ行ってしまうのだと忘れてもいけない。
「抵抗しろっ、ふざけんなっ」
俺に首を絞められるままになっている木佐木冬空。
彼は死にたいわけじゃない。
命がいらないわけじゃない。
俺が望むなら与えようとしているだけだ。
それが彼の愛だから。
手を放すと彼は横を向いて咳き込んだ。
「……ごほっ、……ぐっ」
苦しそうな彼は生理的な涙を浮かべていた。
彼が泣いた姿を俺は知らない。
俺は何度も彼の前で泣いたけれど彼が泣いたことはない。
涙目になったところは何度か見たけれど本当に泣き出したところは知らない。
彼が泣くのはどんな時だろう。
「堅太が、俺を殺したいって思うなら、それでもいい」
彼は潤んだ瞳で俺を見ている。
その姿はかすんでいる。歪んでいる。
俺の瞳に涙の膜が張っているからだ。
彼の泣き顔を想像していたのに俺が泣かされている。
いつからこんなに俺の涙腺は弱くなったんだろう。
弟と久しぶりに会ったからだろうか。
ぼんやりしていると弟に引っ張られる。感情も行動も弟は苛烈だ。
「それが俺に見せられる最大限の誠意だ。誰にも渡せないものは、堅太にしか委ねられないのは俺の命だけだ」
誰かが彼の肌に触れたのは間違いなく、誰かが彼の体液に触れたのは疑いようがない。
空っぽではなくなった心の弊害。彼への独占欲が湧きあがった結果。
逆に過去の浮気が許せなくなるという今更どうしようもない問題が浮上した。
彼の考えは分かったし、彼に対する自分の気持ちも区切りがついた。
俺はただ悔しさから八つ当たりとして彼の首を絞めた。
抵抗すればいいのに彼はただ受け入れた。結果として死んでもそれが愛の証明だという。
ある意味で純粋すぎるんだろう。頭が痛くなるほどに彼は俺への愛に真摯だ。
「バカっ、バカバカバカ、ばかぁ」
彼の胸を叩きながら俺は泣いた。
俺よりも長生きすると言いながら、この嘘つき。
罵りたくてたまらなくなる。
彼は嘘つきだ。
その場のその場で自分の感性に従って生きているから誰にも理解されない人間になって俺の手を離しても彼は気づかない。
「もっと俺の気持ちも考えろよっ」
こんなことを言ったのはきっと初めてだ。
でも、ずっときっと、言いたかった。
俺は彼と居ることだけで満足して彼に何かをして欲しいと口にしたことはない。
言えなかった。
彼に願えば親衛隊など俺に近づかなくなって、俺の呼吸が楽になったとしても俺は言わなかった。
それは弟が言うように面倒だからじゃない。
自分に自信がなかった。彼に嫌われるとまでは言わなくても面倒だと思われたくなかったんだ。
彼に煩わしいと思われたら俺は居場所も何もかもを失くしてしまう。
亡くなった猫は心の中で俺を慰めてくれるかもしれないが彼が戻ってくるわけじゃない。
我慢しているのが、そうしてやり過ごすのが一番平和だと思った。
けれど、俺の心はすり減って最終的に消えてしまった。耐えていた日々が無駄になった。
「お前が死んで俺が嬉しいわけないだろ!」
無茶苦茶な八つ当たりだ。
俺が彼の首を絞めて殺そうとしているのに彼が抵抗しないことに傷ついて激しい憤りを感じている。
感情の制御が出来ない俺は幼い。
自分が子供過ぎて嫌になる。
「俺と一緒にずっと生きようって思えよっ」
自分に言い聞かせるような言葉なのは気づいている。
果たして俺は通り魔に刺されて周りに助けを求めたり救急車を呼ぼうと動けるだろうか。
死んだらそれまでだと心のどこかで思っている気がする。
自分の死というその先に猫が待っていてくれるなら淋しくない気がする。
残された人間は淋しいに決まっているのに俺は俺のことしか考えていない。
それが嫌だ。
嫌だと思うことが出来た。
彼は猫ではない。猫が居ても彼が居ないのなら俺はこの世界から離れるわけにはいかない。
諦めないものを見つけろと弟は言った。
祖母の葬式の日にどうでもいいと思う気持ちが止められなかったのは事実だ。
猫が鳴いていなかったら俺はあの場所で誰にも見つかることなく一人でいたかもしれない。
弟がどれだけ俺を探しても俺から声を出して求めなければ居場所は分からない。
猫の死を知った日、ただただ悲しみと自分が居たら変えられたかもしれない結果に後悔から泣いた。
弟と顔を合わせたら八つ当たりをするに決まっているし筋違いかもしれないが恨みつらみを吐き出しただろう。俺が寮に入ることを選択したのが間違いだったとそう思って自分をボロボロにしたくなったかもしれない。俺の荒れ狂う激情は祖母の葬式の時の凪いだ気分とは逆だった。祖母は高齢だったのもあるので心構えが無意識に出来ていたのかもしれない。
彼の見合いを知って彼に詰め寄った日は猫の死がフラッシュバックしたと思っていい。
今ならなにがどう不安だったのか分かる。
彼を失うことに怯えて不安だった。
付き合うというのは告白して終わりじゃない。
そこがスタート地点で恋人としてどうやって相手と関わるのかで恋人が終わるまでの時間は長かったり短くなったりする。俺と彼の付き合いは短かったかもしれない。ただの同室者であった日々の方が長いような俺たちは恋人としての経験値があまりにも足りない。
人を愛するという事への知識も対応も不十分。
子供だった俺たちは大人への階段を登りながらも大人になり切れていない幼さで叫んでいる。
「とあの事が好きだ……大好きっ」
木佐木冬空に生きていてほしいと思うのは誰かから強制された気持ちじゃない。
俺の中から湧き上がるもの。
口にしないといけない気がした。
衝動に突き動かされた行動は冷静になれば後悔するのに止まれない。
俺は泣きじゃくりながら「とあ」と「好き」を繰り返す。
バカみたいだと思ったけれど、バカなのが俺なのだろう。
これだけ愛を伝えられ続けなければ「好き」と言えない俺はバカだ。
心臓が鼓動を刻む。
心が激しく動いている。
グチャグチャの心から吐き出される愛の言葉は取り繕っていない気持ちのせいで飾りっ気がない。
「俺も堅太が好き。大好き、愛してるっ」
陳腐な言葉の応酬だ。俺たちは頭を使わずに思ったことをそのまま口に出している。
その自覚はあるから嬉しいと思える。
愛の言葉なんていうのは口にしないでも伝わるものだった。
お互いのことは分かったつもりでいた。
態度で分かるから言葉はなくなっていい。
そばにいるだけで幸せ。
その幸せが鳥の形だというのなら翼があるから飛び立ってしまった。
去年の出来事をそうやってメルヘンチックにとらえてみれば笑い話になる。
からっぽな心に「好き」が詰め込まれると温かくて心地いい。
涙をぬぐわれて俺は驚く。
かすみがかった、とあの顔が涙が薄れてよく見える。
「は、はは……なに泣いてるんだ」
「だって堅太が俺の名前を呼んで好きだって言ってくれた……俺はずっとそれが聞きたかったんだ。そのためなら死んでもいいぐらいに聞きたかった。欲しかった」
上半身を起こしたとあにギュッと抱きしめられる。
木佐木冬空が芸術品のような顔だとは知っていたが泣き顔すら見惚れるほどに綺麗だとは思わなかった。男前度が上がったにもかかわらず男臭さが少ないとあは俺を放さないとばかりに強く抱きしめてくる。
怪我人だからあまり動かない方がいいと頭の隅では思うのにとあの行動を止めようとは思わなかった。とあの好きにさせた俺はとあのせいにして自分の欲求を満たしている。
俺は多分とてもズルい人間だから首を絞める俺の手をとあが拒絶したのなら「それはそうだ」と思いながらも彼への感情をまた失っただろう。
ガッカリしたとかそんなことじゃない。
その程度なのかと見限るわけでもない。
俺のことが好きじゃないんだと疑ったりもしない。
自分を生かすために動くのは正しい生存本能だ。
俺が首を絞めたのが冗談でも本気でもその手をどけようと思うのが普通だ。
分かってるんだ。
頭では理解できていても感情がどうしようもなく納得しない。
心が煩く騒ぐんだ。
死んで欲しくないくせに殺そうとする矛盾した行動。
ヒステリックな脅し。
「信じられないならいくらだって試していい。俺は堅太だけしかいらない」
甘い甘い蜜を全身に塗りたくられる。
頭が芯から痺れる言葉に俺はそっと息を吐き出す。
俺は木佐木冬空を手に入れるのなら全てじゃないとダメなのだろう。
半端に妥協したら隙間を誰かに突かれてしまう。
俺は超人じゃない。地味で平凡に普通の人生を消費する人間だ。
木佐木冬空のように現実に裏打ちされた自信なんかない。
人に愛されて、全部を持っているような恵まれた人間に望まれて平然としていられる神経なんかない。
だから、木佐木冬空という人間が本当に自分だけを愛しているという確証がないと苦しくなる。
言葉ではどうとでも言えるし行動だって嘘かもしれない。
だから俺はとあの首に手をかけた。
殺したいわけじゃないし、殺されていいと思って貰いたいわけでもない。
ただきっと、俺の不安がどういうものであるのかを説明なしにぶつけていた。
「堅太が俺を愛してくれて傍に居てくれる以上に大切なものは何処にもないんだ」
とあの言葉の一つ一つが俺に染み込んでいく。
涙を舐める猫が俺に向かって小さく鳴くように。耳に心地よく馴染んでいく。
愛されて必要とされるのは心地がいいものだと俺は知っている。
溺れそうな愛をくれるとあを知っている。
俺にとって木佐木冬空以外と触れ合うことなどないと確信できてしまうほどの密着感。抱きしめられて離れない。俺もきっと離さない。二人して泣いていて、傍から見たらバカみたいだ。
俺たちはきっと二人にしか分からない言葉で話して二人だけで理解しあっている。他人から見たらそれは滑稽で異常だろう。だから俺は誰から何を言われても微笑んで受け流すぐらいの気持ちでいないといけないんだろう。それが俺が選んだ道なんだから。
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