2
彼はキスをしてこない。
そんなことに玄関を出てから気づいた。
付き合っていないのだから当たり前だが以前は行ってきますにキスがつきものだった。
一緒に玄関を出るとしても、だ。
どれだけ甘ったるい新婚生活だったのか思い出して頭が痛い。
俺は彼との事を黒歴史として封印するべきかもしれない。
自分としてずいぶん例外的なことばかりしていた。
「アニキィ、オレのメシは?」
「なんのことだ」
「朝用意してろって……話してネエのォ?」
後半は彼を見ながら言う。
弟から伝言でも頼まれていたのかもしれない。
「弟様はマヨネーズを食べてればいいんじゃないか?」
彼はわざわざ買っていたのか真新しいマヨネーズを鞄から取り出して弟に渡した。
以前、弟がマヨネーズを食べ物に掛けるという話をしたが覚えていたらしい。
「ちゃんとパンもある」
食パンもセットだ。
これが出来る男なんだと少し彼のことを見直した。
弟は喜ぶかと思ったが渋い顔。
「ゆんちにアニキが帰ってこネエのはオレのせいだってマヨネーズ禁止令を出されたァ」
ゆんちというのは弟の幼なじみの美少年だ。
将来金持ちになったら俺を家政婦として雇ってくれると言い続けている優しい子だ。
俺が料理を作る前から「嫁としてこき使ってやるから」というのが口癖だ。
嫁と家政婦が違うと俺は説明できなかった。
ゆんちの家には母親がおらず若い家政婦さんが常駐していたので混乱させずに話せる自信がなかった。
「ゆんちとはまだ仲良しか?」
「アイツと仲良かったことなんか生まれてから一度もネエし」
「なに言ってんだ。どこに行くにも一緒だったじゃないか」
「アイツが付きまとってんのはオレじゃネエェ」
照れ屋なのかよく分からない叫びのあと、おもむろに食パンを食べだす。
マイペースすぎる。
「廊下が汚れるから食べるなら部屋に戻れ……というか、どうしてお前はここに居るんだ」
俺と彼が立っているのはいわゆる役員フロアの廊下だ。
「オレは風紀委員長のとこに居るって聞いてネエの?」
「玖波那に迷惑をかけるなよ」
「アニキがアニキらしいこと言うなんて何年ぶりィ?」
バカにしてんのかと言いたかったが彼の視線を感じて咳払いして終わらせた。
「やっぱり堅太は弟様には遠慮がないんだな」
「弟に遠慮してどうするんだ」
「夫にも遠慮は不要だと思わないか?」
夫って誰のことだと思いながらやっぱり彼の「弟様」呼びが気になる。
どうして「様」づけなんだ。
「いつ弟と知り合った?」
「弟様とは堅太が弟様に捕獲されているのを見た時が初対面だ」
つい先日じゃないか。
どうしてこんなに弟と親しげにしているんだ。
「アニキが男と付き合う日が来るとはなァ」
「……なっ、なんだって?」
「俺との事はすでに弟様の知り及ぶところになっている」
「な、なんで?」
「弟様に隠し事をするわけにはいかないだろう」
どうして彼はこんなにも開けっ広げなんだ。
もう少し本音と建前を使い分けた方がいい。
弟から嫌われてイジメられるなんてことを考えたこともないんだろう。
「……イジメるなよ」
「いじめネエよ」
即答した弟に思わず首を傾げた。
弟は天邪鬼だからイジメる気がなくても口では「さーな」ぐらい言いそうなものだ。
「オレはこれでもアニキの幸せは分かってるつもりだぜェ? 頭がおかしいぐらいにアニキしか見てない高収入で引きこもり希望なんて目の前の奴ぐらいだろォ」
「俺は別に引きこもり希望じゃない。最終的に俗世間と縁を切りたいだけだ」
「アニキに持って来いじゃネエかァ。煩わしさから解放されンぜェ」
俺が彼のどこに魅力を感じたのか弟は分かっているんだろう。
お金というよりも人との関わり合いを彼は嫌っていて物理的に遮断することが出来るだけの経済力を持っている。
「お世辞にもその方面が得意とは言えないが堅太が必要とするなら俺を盾にすればいい。堅太にはその権利がある。自分の言葉を俺の言葉として発していい。……俺を好きなだけ利用すればいい」
もし、彼が若くして隠居暮らしなんてものをしたのなら彼の家で家事をする日々は俺の人生で何よりも一番楽な時間になるだろう。
「まァ、相手はアニキだからなァ。オレがここから戻る前に答えを出せネエなら……最終手段を教えてやンよ」
酷くガラの悪い笑み。
これは洒落にならない悪ふざけの前兆だ。
彼はバカではないけれど素直すぎてきっと弟の言葉に耳を貸してしまう。
俺を完全に手に入れるために好きでもない、むしろ嫌悪している相手を抱く彼だ。
弟が何を言うのか知らないがそれが俺を手に入れるための手段ならためらわずに行うだろう。
猫は鳴かない。
心はざわめく。
俺はきっと期待してしまっている。
どちら側への期待だろう。
弟が彼に酷いことをすることを予想しているのか。
彼がその酷いことすらも俺のために行うだろう事か。
これを切っ掛けにして彼と完全に縁が切れてしまうと考えているのか。
あるいは彼との距離が近づくのか。
俺の求める答えは何だ。
教室に行くと沈痛な面持ちの伊須海夢。
雨音に何かあったのかと思えばそんなこともない。
俺の隣の席で雨音はプリントに何やら書き込んでいる。
真剣な顔をしているので遠くから声をかける必要もないだろう。
席に座った時でいい。
「伊須、どうかしたのか」
「会長とよりを戻したってホント?」
「誰に聞いた?」
「みんな言ってる」
この「みんな言ってる」っていうのは曲者だ。
本当は数人あるいは二人程度しか言っていないのに一人じゃなければ「みんな」になる。
俺は溜め息を堪えて自分の席に向かう。
別に伊須を無視しているわけじゃないが何を言うべきか分からないから仕方がない。
「まゆまゆっ! ねぇってばぁ〜」
肩を掴まれてガクガク揺すられる。
正直、気持ち悪い。
伊須は自分が運動部で力も体力もありあまりすぎだってことを自覚してほしい。
「やめてっ」
雨音が三十センチ定規で伊須の手を叩く。
まさか、これが雨音のバトルモード?
雨音と会ったと言っていたので彼が何かしなかったか気になって聞いたら「小動物はまず動物病院に行って病原菌に感染していないのか調べるところから始めないとならない」とか訳分からないことを言われた。
彼からすると雨音はなんらかの保菌者に見えるんだろうか。
小動物なのは否定できないが病原菌に感染とは失礼だろう。
『堅太、流氷の天使と言われるクリオネは餌を食べるとき頭部が割れて触手が出てくる。そして、クリオネは成体になってから食事は一回程度しかしないと言われている』
つまり何なのかと言えば「天利祢雨音が本気になったら終わりだということだ」と真面目な顔で言われた。
雨音の本気は三十センチ定規を装備することなのか。
たしかにクリオネの捕食シーンは怖くても人間がひねりつぶせる小さな生命だ。
「雨音、落ち着け」
「伊須海夢、手を放して」
「……アメちゃん、ちょっとオレのこと嫌いすぎじゃね? 傷つくんですけど〜」
「反省しない、人に、どうして優しくしないといけないの」
いつになく雨音が伊須に厳しい。
苛立っているのが誰の目にも明らか。
「ボクは何も考えないでいる人が嫌いだ。会長様も鈍い方だったけれどあの人は反省され物事を見る目を養おうとなさっている。人の話を頭ごなしに否定することもなくなった。他人に興味がないままでも自覚して動かれている……だから、構わないと思ってる」
雨音がこんなに長文を一気にしゃべるところはレア中のレアだ。
たしかに一生に一度かもしれない。
内容が彼に対して見直したとかそういったものなのは微妙だが。
「べつに〜、会長との仲を邪魔しようとしてないじゃん。なんなのアメちゃん」
「堅太くんを困らせないで」
「まゆまゆを困らせてなんかないし」
頬を膨らませて拗ねる伊須。
周りはヒソヒソと何事か囁き合っている。
伊須と雨音のやりとりを見て中心が俺だっていうのは多分みんなわかってる。
俺の肩書きが生徒会長木佐木冬空の元恋人というのは誰でも知っていることで彼が未だに俺を諦めていないこともみんな知っている。
それなら俺が彼の部屋で暮らすとなるとみんな誤解するんだろうか。
誤解、なんだろうか。
俺は彼をどう思っているんだろう。
以前ではなく今。
彼は変わったと思う。
人から挨拶をされたら挨拶を返している。
普通のことのように感じるけれど彼は今までずっと人の声が聞こえていないように無視していたのだ。
彼がご飯を食べないと親衛隊の副隊長が俺に言ってきたときに「俺が周囲に優しくなったというのならお前たちも堅太に優しくしろ。堅太のおかげだと感謝しろ」と言ったという。
去年の彼なら絶対に言わなかっただろう言葉。
去年に俺が言われたかったことではないが彼が俺を考えてくれているというのはどうしても胸がうずく。
これは未練じゃない。
転入生、鯨井青葉の瞳に猫を重ねてみた。
でも、違う。猫は気まぐれで自分勝手でそれなのに俺のことを俺より考えてくれるんだ。
俺が涙を流さずに泣いているのを察して猫が鳴く。
感情が表に出てこないのはおかしいんじゃないのかと散々な言葉を投げられたのは祖母の葬式の席だった。
俺はどんな顔をすればいいのか分からずにぼんやりしていた。
いつもと変わらないように見えたのか親戚や近所の人たちが俺を見て眉を顰めた。
弟は親代わりともいえる祖母の死に号泣していたから対照的に俺は薄情に見えたのかもしれない。
誰も悪くないと思う。
でも、心が空っぽで息苦しい。
祖母があたためてくれた心がスッポリ抜け落ちて消えた。
空虚感に俺はきっと支配されていた。
そこへ猫がやって来て鳴く。俺の代わりに鳴く。
見えない涙が乾くまで猫は俺の代わりに鳴いていた。
すると泣き止んだ弟が俺を見つけに来てくれた。
俺の代わりに鳴く猫は俺を助けてくれる誰かを呼んでいたのかもしれない。
弟が俺を見つけて「よかった」と言いながらまた泣くからなぜか貰い泣きするように俺は泣いた。
猫が俺の頬を舐める。
ザラザラの舌先が少し痛くて嬉しくてやっぱり悲しくて涙の量は増えた。
『アニキは何も悪いことしてネエよ。誰が何を言ったってオレが知ってる』
弟は自分勝手で俺の意見なんか聞かないような人間なのに俺を一番に優先する。
俺のためなら平気で友達との約束を破るし俺が欲しがっていたものをお小遣いをためて買ってくれたりする。
それなのに俺は弟をちゃんと愛せない。
一緒に居て兄弟だと思われることはなくて、俺は俺のプライドが大事で弟と比較されるのが嫌で寮がある学校を選んだ。
弟が俺を嫌ったことも見下したこともなかったのに周りの意見に左右されて弟から離れたんだ。
どうして弟からも猫からも離れて俺のことを誰も知らない場所に来たのに俺は同じ状態に陥るんだろう。
そして、どうして俺は彼を本気で遠ざけることが出来ないんだろう。
弟からは離れたのに。
『どう言ったところでアニキは愛されるのが好きで尽くされるのが好きなんだろォ。だって、根っからの怠けモンだかンなァ』
彼が俺のために動くのは確かにどうしようもなく気分がいいが弟が言い当てる俺の内心をそのまま俺の気持ちだと思うのは負けた気分になって嫌だ。
俺の答えは俺自身で出さないといけない。
prev /
next