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鯨井の暴挙は記憶に新しい。
アイツが俺を抱こうとしたことは青天の霹靂。
弟が学校に居たことも元恋人である彼が栄養失調で倒れたことも俺からしたら訳が分からなかった。
あの階段での騒ぎの後、さすがに鯨井とは顔を合わせにくくて生活する時間をずらして三日ほど様子を見た。俺の部屋に押し入ってくることもなく鯨井は静かだった。
雨音が自分の部屋に布団を敷いて寝起きが出来るようにするから来てくれないかと声をかけてくれたのは俺の居心地の悪さを気にしてくれたからだ。たぶん、朝食を抜くようになって彼じゃないが俺も貧血気味になってめまいがするようになっていた。
元々、食が細いので一食を抜くと一日の栄養が足りなくなる。
大量の食事を作ることは出来るが俺自身はあまり食べない。身体が小さい雨音と同じような量で十分。
鯨井がうるさくしないで食堂で食べているかは気になったが実際に様子をうかがうことはない。
もし俺の元恋人である彼に失恋したことで落ち込んでいたとしても副会長が鯨井のそばにいるだろうから淋しくはないんじゃないだろうか。
そんなことを思って自分の部屋から必要なものを取って雨音の部屋に移動しようとしたら鯨井と出会った。
部屋の中にいたらしい鯨井の瞳は金緑石の色には見えなかった。濁ってくすんだ緑。苔みたいだ。
顔の陰になっているからかもしれない。
『ケンタはオレのことが好きなんだよな』
静かな声音は恐怖を懐かせる。いつもは「キー」と「ケンタ」の後につけ加えたくなるのだが今日はそんなことはない。口調は淡々としていた。ただ語尾は強い。疑問形ではなく断言で聞いてくるという矛盾。
親友だと言われた時、俺は話を反らして答えなかった。
弟が彼を責めていた時に俺も責められた気持ちになったのは鯨井の言い分を否定してこなかっただ。
鯨井が思い込みが激しいのならその勘違いはきちんと正してやるのが優しさなのかもしれない。
俺は自分が楽な方に流されたので鯨井にとって優しくない。
物事をハッキリと口にして堂々としている弟は俺のそんなところを直すように言う。
いわく「その内、刺されるか犯されるか監禁されるぜェ」である。
あるわけがないと笑い飛ばしていたが何も答えずにいた俺を鯨井は焦れたように近寄ってきてベッドに突き飛ばされた。
弟の「アニキってわかってネエよなァ」というムカつく顔が思い浮かんでいて鯨井が俺の腕を縛っていることに意識が向かない。
ボタンを外された段階でこれはヤバいと思ったものの目の前のことが信じられない。
そうしていたらハサミを使って服を切られて俺は丸裸にされた。超怖い。
縛る前に脱がすと逃げると思ったのかまずは縛らないといけないと思ったのかは知らないがハサミの刃が皮膚に触れるたびにぞわぞわっとする俺は少しだけマゾっぽいかもしれない。
いいや、勃ってないからセーフ。きっとセーフ。
『オレのことが好きなんだろ、好きって言え』
とか言いながらハサミをカシャンカシャン。
物を切っていないのにハサミの刃を合わせると切れ味が落ちるというか刃が痛んでしまうらしい。
好きだって言わなかったら俺の男性器はさよならすることになるという流れなんだろうと予想がつくので何も考えたくなかった。
結局は弟が助けてくれて話は終わったわけだけれど、そこで雨音の部屋に行こうとならないのが謎だ。
生徒会長親衛隊副隊長を名乗る人が同じクラスの眼鏡三人組と共に彼と復縁をしないでいいから彼にご飯を食べるように言ってくれと頭を下げてきた。
どういうことかといえば彼は俺のご飯以外を食べないという宣言を守って本当に食べていないらしい。鯨井に連れられて彼がやって来て夕食を食べる流れはあの階段でのことがあって以降もちろんない。つまり彼は食事を摂らず現在は点滴中だという。
頭が回っていなかったことは否めない。
彼はやると言ったらやる人だ。
だからこそ厄介なのだ。
分かっていながら俺は彼のことを放置していた。
本気にしてなかったというよりもそこまで責任持てないと思ったのが本当のところ。
弟がニヤニヤしながら「さすがアニキ、浮気者はシネってことだなァ」と言い出したがそんなつもりはない。
食べないのは彼の勝手であって俺が食事を作らないといけない理由にはならない。
というか俺が食事を作ったら作ったでどうせ周りは煩く騒ぎ立てるんだろうとうんざりしていた。
副隊長さんは「絶対にそんなことはさせません」と言うがそんなの無理に決まっている。
どうせ誰も彼も俺を否定してくる。
マイナス思考に浸りたいわけじゃない。
実際問題そうだったのだ。
言っている本人は自分だけだと思っているのかもしれないが一日に十人近く――覚えていないだけでもっとかもしれないが――人格否定を受けたらいい加減、煩わしくなる。
俺が彼と付き合っても付き合わなくても、俺が俺であるというだけで不満を口にする「他人」が心底いやだ。
こういうことを表に出すといいことはないし弟あたりが「オレがアニキを食わしてやるから気にスンナ」とか斜め上どころか下からのフォローをする。
弟にたかるのはいやだ。それこそ小学校で散々聞いた暴言を実行することになる。
俺は「何でもできる弟に寄生した使い物にならない兄」らしい。
そういったことを言っている人間も言っていることを悪いと思ってない聞いているだけの傍観者もまとめて弟は殴りつけていた。暴君なのだが愛されていた。殴られても弟が正義とはどういうことだろう。もちろん彼らが謝るのは弟であるが弟は俺に謝れと吠える。正直、謝られたところで俺の傷ついたプライドは癒えないし謝って弟から許されようという内心が透けているので「猫がいるし、俺は家に帰る」と言って去るのがいつものパターン。
許さないと言ったところで、許せないと思ったところで、それが本音であっても謝っているのに許さない俺が悪くなるのだ。
それで言えば、去年に彼と繰り広げた茶番劇も似たような構図だ。
謝ったら許す、謝る前から決められている筋道をなぞるという不快なやりとり。
彼は悪知恵が回るタイプだとは思っていなかったが白々しかった。
「起きているな?」
鯨井の暴挙は記憶に新しい。
そんな俺の朝っぱらから遠慮なく触れてくるのは良識がない。
もう少し気を遣ってもばちは当たらない。
鯨井の一件で性的なことへの嫌悪感を抱いたりはしていないがだからといって彼とどうにかなる気はない。
具体的な場所ではないとはいえ完全に密着して後ろから抱き込まれる形。服の中に手が入ってきていないのでわざとじゃないと言われたら責められない、かもしれない。
セーフとアウトのラインが分からない。
弟ならこの体勢から余裕で首筋を甘噛みしてくる。
ベッドの中で抱きつかれるぐらいで文句を言うのは過剰反応なのか?
この部屋は生徒会長木佐木冬空の部屋であり俺は居候だ。
以前がそうだったように俺は彼とひとつのベッドで寝ている。
元恋人と同じベッドというのは常識がないと思うが彼は何もしないと言ったし、彼をソファーで寝かせたことが他に知られる方が面倒になる。
弟と再会してからなぜか「面倒くさがり」を連発されて正直、ムッとしている。
俺は面倒くさがりじゃない。率先して面倒事が突っ込んでくるから先に回避しているんだ。
実家に帰らなかったことが弟の面倒なところに火をつけているらしく会うたびに俺に過剰に構ってくる。スキンシップの激しさは以前からだが性格についての言及はあまりなかった。
地味に、いいや、分かりやすくアイツは怒っている。
だからいつもなら俺に他人が近づくと威嚇するのに元恋人である彼は許しているのだろう。
俺が唇と唇が当たったわけではないとはいえギリギリだったキスを見て弟が彼を殴り飛ばしていないあたりおかしい。
どうしてあんなことをしたのか問いただすと彼は「救助活動へのお礼と弟様と似た状態になりたかった」と言い出した。俺を後ろから抱きしめたのもそういうことかと納得してしまったが、そうすると彼に弟とのやりとりを全部見られていたことになる。
「変なイタズラをするなら部屋から出ていくって約束しただろ」
「へんじゃないなら、いいのか」
舌足らずに言われて力が抜ける。
半分ぐらい寝ている。
ぺちぺちと俺を抱きしめている彼の手を叩く。
眠いのか「う〜」と言いながら俺の肩に頭をくっつけてぐりぐりしてくる。
中学の時から眠くてぐずると彼はこうなる。
数分後にベッドの脇で彼は正座した。
「目の前に堅太がいるなら俺は抱き寄せたい。部屋ならいいだろ?」
聞いているくせに捨てられた犬のような顔で肩を落としている。
ダメだと分かっているけど押し通したいという意思が透けている。
「堅太は自慰を面倒でしないだろう」
何を言い出すのかと思って見ていれば「それならご飯のお礼に俺が手伝うのはどうだろうと昨日の夜考えていた」と言い放つ。
「これはつまり昨日の考えが身体を勝手に動かした事故だ」
「まあ、それはそれとして……お礼を身体で払うのはおかしいことだから」
「堅太にしか適用されないお礼だ」
「それだと俺が喜んでるみたいじゃん」
「俺は下手か?」
「比較対象がいないから知らない。親衛隊の人たちも木佐木冬空に抱かれているっていうので満たされてるならテクニックの採点は出来ないかもしれない」
言ってから、彼が百戦錬磨の相手を抱いて採点してもらう光景がありありと浮かんできた。
そうだ。冷静な今なら彼がどう動くのか分かる。
去年に一緒に暮らしている時にこんな会話になったなら彼の謝る姿に話しを深く聞きもせずに朝食の話題をしただろう。
「そうか、俺も抱き心地は堅太しか知らないから堅太に点数をつけられない……同じことか」
「俺しか知らない?」
さすがにこの言葉は聞き返してしまう。
早くこんな話題やめたいのに。
「俺の中にあるのは堅太だけだ。他人と触れ合っていても堅太のことを考えているから誰とどうしたのか覚えていない。他人の体温も体液も気持ちが悪いな。堅太以外耐えられるものじゃない」
これで勝ち誇っていた親衛隊長を憐れんでしまうから弟に「アニキって残酷にズレてる」と訳の分からないことを言われるんだろう。ズレていることの何が残酷なんだ。相手も俺のことをバカにして勝手に憐れんできた。忠告という名の見下しを俺は何度もされてきた。それなら逆に俺が相手を憐れんだっていいだろう。
「堅太が良ければ今日の夜にしよう」
何をってナニだろうけど。
「いやだよ」
良ければってことは俺が拒絶したらしないわけだ。
なら断っておけばいい。
「どうしてだ? 堅太は別に淡白な方じゃないだろ」
言われて弟に不感症扱いされたことを思い出す。
以前と比べて今が敏感であるのは目の前の彼のせい。
逆に不感症だったのは弟のせいだ。
性的な意味のないスキンシップに身体を反応させたら終わりだと思っていた。
彼との行為は最初から「そういう意味」で始まるので感じない方がおかしい。
俺は大多数が選ぶ普通の中に埋没するのが楽で好きだ。
落ち着くなんて思わないが面倒が少ない。
兄弟に身体を触られて勃起したら変態のレッテルが張られる。
それだけはごめんだ。
地味平凡じゃなくて変態なんて不名誉極まりない。
「金で買うことが出来ない俺の肉体を味わえるのが嬉しくないのか?」
彼はこういう発言を素でする。ギャグでもナルシストでもない。
現実的に彼の身体に値段をつけてオークションでもしたら法外な額になるだろうが彼は絶対にそんなことはしない。
彼は自分の価値を知っている。
自分がどのぐらいの立ち位置に居るのか他人に興味がないのに探るのが得意だ。
猫が餌をくれる人を見分けるように鼻が利く。
「俺はご飯を作る係りの人で性欲処理担当じゃない」
言外に誰か別の人間を抱けと伝えたつもりだったが「欲を処理するのは俺じゃなくて堅太だ」と言われてしまった。
彼は頑固で言い出したら面倒くさい。
そして俺は最低なことに面倒がなくて誰かにそれが知られるわけじゃないならどっちでもいいと思ってしまった。
彼を拒み続けることを面倒だと感じている時点で俺は彼との行為を受け入れているのかもしれない。
少し前なら絶対に無理だと言い切れたのに抱きしめられて名前を呼ばれても煩わしくて困るとは思わない。
心の中で猫が鳴かない。
それはつまり――。
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