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『ゴールデンウイーク帰って来ねえだァ?!』
「電話で怒鳴るな」
『ンだよ、ソレ。許さねえぞ』
「お前の許しは必要ない」
『ふざけんなッ。なんでだよ、オレに会いたくねェのか? そんなわけねえだろーが。なァ、アニキ』
「もう切るぞ」
そう言って一方的に電話を切ったのは鯨井が転入してくる前のこと。
俺は家に帰る気がなかった。
春休みも返っていない。
もう弟と会う気がなかった。
だというのに、これはどういうことだ。
後ろから抱きしめられて思わず先日の伊須の親衛隊長とのことを思い出す。
あのサッカー部のマネージャーをしていた先輩は俺を体育倉庫に閉じ込めて伊須に取り引きを持ちかけるつもりだったらしい。
俺の居場所を知りたければ真面目に部活をすること。
ごく当たり前のことを言い聞かせないとならない先輩の苦労が思いやられる伊須の不真面目な態度。
俺がその件を批難するよりも先に伊須が謝って来たのでなし崩し的に今のような生温い友情関係でいるが伊須はまだ俺に何かを求めている、そんな気はする。
鈍いわけではないし慣れていないわけでもない。
ただ見ないふりをした方が得であることや誤魔化したりはぐらかした方がお互いのためになることは全力で受け流すのが俺にできることだった。
「ひさしぶりだなァ、……アニキ」
俺を抱きしめている相手から思わぬ言葉。聞き覚えのある声。嘘だろうと思いながら俺は身体を固まらせた。
ここに居るはずのない相手。会うはずのない人。
だが、弟以外がこんな話し方をしてこんな風に俺に触れてくると考える方が寒気がする。
「ンで、何も言わねえんだよォ」
不機嫌そうに俺を抱きしめる力を強くしたかと思うと耳を甘噛みされた。声を押し殺すが身体が不自然に震えた。
元恋人である彼、木佐木冬空がやけに耳に触れてくる人だった。
そのせいなのか俺は耳が敏感になっていた。
「あァ? なに、気持ちイイの?」
弟はちゃっかりしっかりしているのでこういう反応を見逃さない。
ここぞとばかりに弟が耳を舐めてくる。
衛生的にどうなんだともいながら身体の力が抜けて弟にもたれかかる。
いつの間にかデカくなったらしい弟は俺が体重をかけたところでなんとも思っていない。
ただ愉快そうに笑う声が濡れた耳から聞こえる。
昔からコイツは俺に好き勝手する奴だったがこれはヒドイ。
ここがどこだと思っているんだ。
学校の廊下の踊り場だ。
上からも下からも人が来そうな場所で堂々の兄の耳を舐めるか?
考えられない非常識さだ。
足でも踏みつけて逃げるのが一番だと思いながら拒絶や逃げは一番の悪手。
どうして避けるんだと粘着質に追ってくる。
自分が納得いくまでコンクリートに吐き捨てられたガムのようにこびりついてくる。
元恋人である彼と行動が似ているようでいて彼の方がまだ物わかりがよく理性的かもしれない。
今だけを見るなら。
以前は影響力があるせいで弟よりも性質が悪かった。
大勢に愛されて必要とされている人間はもっと自分の言動に責任を持ってもらわないと困る。
なぜか関係のない俺に飛び火してくるのだから。
「聞いてんのかァ? 前はどっちかって言うと不感症だっただろォが」
どうしてコイツはこんなに発音の仕方がいちいち凄んでいるような調子なんだ。
昔は普通化少し舌っ足らずだった。
こういう言い方が発音する時に楽なのか?
「信じてなかったけドよォ、このガッコ、男同士で付き合ってるとか、マジ?」
後ろから抱きしめられていたのが急にくるっと回転させられた。
目の前には俺の弟である繭崎賢治。名前の字に反して賢さはイマイチ。
「お前はどうしたらそんなにデカくなるんだ?」
体重が俺の二倍ぐらいありそうだ。デブという意味じゃない。逆に筋肉がありすぎる。
憎らしくなりながら俺の首を撫でてくる手を取る。めちゃくちゃデカい。思わず凝視すると何故か照れたように「ンな、見んなよ」と視線をそらした。
手の皮の厚さも俺と全然違っている。ほぼ同じものを食べて育ったにもかかわらずこの違いは何だ。マヨネーズの威力なのか?
俺は手作りマヨネーズを必要な分だけというタイプだったが弟は市販品を持ち歩く男だった。
マヨネーズは嫌いじゃないが油と卵とお酢じゃないか。主食にはならない。
フライドポテトにマヨネーズをかける弟は味覚が狂っている気がする。
油で揚げたものに油をつけて食べるなんて考えられない。
五百グラムのマヨネーズを使い切るか八割は使ってフライドポテトを食べる弟。
思い出しても胸焼けがする光景だ。
ポテトチップスにもマヨネーズをつけていた。
タルタルソースやサワークリームをポテトチップスにつける文化もあるようだからマヨネーズをソースとしているのなら許容できる。
ポテトよりもマヨネーズが多いので弟が食べていたのはフライドポテトでもポテトチップスでもなくマヨネーズだ。
それで、ここまで育つ。
食育に神経質にならずのびのび育てることの素晴らしさを世間に訴える活動でも始めたらいい。
俺は絶対にそんな講義聞きに行かないけど。
「アーニキ? まずはオレの質問に答えてからじゃねえのォ?」
何か質問されただろうか。
まあ、どうでもいいとして「どうしてここに居るんだ」と尋ねる。
「ッとに、変わらねえなァ」
いつの間にか壁を背にする形で弟に追いつめられていた。
この格好自体は昔からよくある。
俺の脚の間に自分の膝を潜り込ませてくる弟はお互いの体格差を分かっていない。
弟の膝の上に俺が乗り上げる形になるが何がしたいんだ。
座り心地が悪いと思いながら上げられた膝に乗って落ちないように弟の肩と髪を掴む。
「ア? なに、してんの?」
「こっちの台詞だ。お前は兄貴を地面から離して何がしたい」
「オレは膝でぐりぐりしてやろうと思っただけで……跳び箱に失敗したみたいな状態になるとか思わねえだろォ。ってか、ナニ? アニキ、オレと密着したかった?」
腰を抱き寄せてくる弟に股が裂ける気がしてきて降ろすように髪を引っ張って訴える。
頭突きをしてやろうかと顔を近づけたところで絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
驚いてそちらを見れば真っ赤な顔をした雨音と倒れている元恋人である彼、木佐木冬空。
思わず弟とじゃれている場合じゃないと二人の近くに行こうとしたが、弟の力は強い。
相変わらず空気が読めない奴だ。
慌てている雨音に人命救助ができるわけがない。
「離せ、見殺しにする気か」
「息が止まってたら人工呼吸する気でショ。アニキの人工呼吸を見るとか、ヤ」
「アホか」
顎を突き上げるように殴りつけた。後ろに避けられたのでアッパーカットというほど綺麗に決まってはいない。でも、多少痛かったのか拘束は緩んだ。
二人は階段の上にいた。これから下に降りようとでもしていたんだろうか。
彼が誰かと一緒に行動するのは大変珍しいことだし、それが雨音であるのは初めて見た。
もしかして、先日の体育倉庫の件で呼び出されたりしたのだろうか。
階段を駆け上がり彼に近づく。
足をガクガク震わせている雨音は何かを言いたいのだろうが言葉になっていない。
驚きすぎると声は出ないものだ。
と、すると誰が悲鳴を上げたんだ?
倒れている彼を仰向けにしながら周りを見るが幸いなことに生徒は見当たらない。
彼のお綺麗な顔を力強く引っぱたく。医療行為である。眉が寄せられるが目を開けない。
耳元に顔を寄せて肩を叩きながら「とあ」と呼びかける。
呼吸はしているが急に意識を失ったのだとしたら頭に何かがあったのかもしれない。
もう一度「とあ」と呼ぶと無事に目を開けたので顔を上げて離れようとする。
彼の手が伸びてきて頭を押えこまれた。無理矢理に彼の顔めがけて落下する俺の頭。
俺の唇の着地点は目測を誤ったのかわざとなのか彼の頬。
「ザケンナッ!! 何してヤがんだッ! テメエェェ!!!」
階段というのは案外、音が響くのかもしれない。
ドタドタと足音を立てて誰かが廊下を走って来る。
彼の唇が自分の唇の近くにあることにドギマギして俺は動けないので分からないが「ケンタッ」と語尾に「キー」とつけたくなる勢いで俺を呼ぶのは一人しかいない。
「ケンタッ! 永遠ッ!! お前ら何してんだよッ」
「テメェ、人のもんに手ェ出してタダで済むと思ってんじゃねエよなァァァ」
鯨井も弟もテンション高すぎる。
無言で震え続けている雨音を見習って静かになれよ。
これを収拾つけるのは俺なんだろう?
勘弁してくれ。
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