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翌日の朝、鯨井を起こして朝食を食べさせて登校。
子守をしている気分になる。
朝から元気で勢いがありすぎる鯨井と話していると疲弊する。
昼に一緒に食べるために迎えに来ると恐ろしいことを言われたが友人と食べると断っておいた。
明日からはお弁当を作るべきかもしれない。
彼と暮らすことがなくなってから俺の自炊率は下がった。
朝だけは簡単にでも作って食べるがそれ以外は食堂で済ませることも多い。
この学園の食堂の料理は大衆食堂のような大味ではないしファミリーレストランのように冷凍食品が中心というわけでもない。
メニューは豊富にあるが提供までの時間の目安が小さくではあるが書いてあるので、すぐに料理が出てくるものに人気が集まっている。
彼が言うには何代か前の生徒会で食堂の複数化が検討されているようだ。
食事の提供が昼休み中に間に合わなくて昼休みの後の授業をサボる生徒が一定数いるのがその理由だ。
食堂をみんなが利用しすぎているという話だろう。
それを思うと昼にお弁当は作るべきかもしれない。
そして、ふと思い出す。
どうしてお弁当を作るのをやめたのか。
最初は作っていたのだ。
部屋にまだ弁当箱だってある。
途中から作るのをやめたのは彼の親衛隊の人間に弁当箱をひっくり返されたのだ。
その瞬間に作るのをやめようと思った。
安全な場所に隠そうとか見つからないようにしようとかそういう考えにならないのは俺が諦めきっていたからかもしれない。
親衛隊の彼らが元恋人である彼にかける情熱はすごい。
どこまでも追ってくると言いたげな理解できない執着心。
それを思えば彼を言いくるめて肉体関係を結ぶのは考えられることでもあった。
恋人として当時に先手を打って釘を刺していればよかったのだ。
あんなことになるなど思いもよらなかったので後悔先に立たずの状況でしかない。
鯨井のクラスは彼と同じだ。
つまり、玖波那と同じ。
それに対してなんとなく嫌な気持ちが芽生えるのは俺の感情が制御できていないせいだ。
元恋人なのだから複雑な気持ちになっても普通だろうか。
「懐かれたのか?」
「それはケンちゃんでしょー、もうっ」
外見に不釣り合いなどこかオネエが混じった口調の玖波那。
アンバランスだからこそ肩の力が抜けるのかもしれない。
外見通りに朴訥とした喋り方だったら顔と相まって怖い印象になるだろう。
先程までひたすら玖波那は鯨井に話しかけられていた。
鯨井に忘れ物を届けに来たら玖波那の災難を見てしまった。
なんとか渡すだけ渡して帰ろうとしたが鯨井のおしゃべりは止まらない。
やかましいと感じても天使のように神々しい美貌で微笑みを振りまいているからサイレントモードに設定したと思い込んで鯨井を見つめるといいかもしれない。
今は副会長に呼ばれて玖波那から離れている鯨井だがいつ戻ってくるか分からないので俺は話す場所を離れたい。
気持ちが通じたのか玖波那は俺と教室の出入り口近くに移動する。
鯨井は窓際なので多少とはいえ距離はできた。
「まあ、一番の被害者は木佐木《きさぎ》だろうな〜」
「どういうことだ?」
溜め息をつく玖波那から予想外の名前が出てきた。
俺と彼が別れても玖波那と彼の友情に変わりはない。
生徒会長と風紀委員長としての付き合いだってある。
だから今では俺よりも玖波那が彼に詳しい。
「惚れられてんだろうよぉ、あれは」
「昨日会ったばっかりだぞ」
「だってそうじゃなけりゃあ、根掘り葉掘り聞いてこないっしょ」
「話したのか?」
「ケンちゃんとの関係? 言うわけないじゃん。危ないもんよ」
危ないの意味が分からなかったが気まずくはなりたくないので彼との関係は黙っていてもらうに限る。
いずれ知るところになったとしても言いふらしたくない。
転入してきたわけだから鯨井は男同士ということに抵抗があるかもしれない。
それなら彼に対する鯨井の感情はどういうことになるのかわからない。
ダブルスタンダード、同性愛を忌避する気持ちと自分の恋心は両立するものかもしれない。
それはそれ、これはこれ。便利な言葉だ。
「木佐木の趣味はケンちゃん一択だから転入生がどんだけ美少年でも意味ねえけどね」
「何言ってんだ、玖波那疲れてる?」
「いや、マジな話。ガチで木佐木《きさぎ》はケンちゃんしか興味がない人間なんだって。俺は正直ここまでだと思ってなかった。ちょっと舐めてたかもしんねぇ」
「……でも」
「浮気の件は俺もないわって思う。けど、木佐木にとって人間の常識なんて意味をなさないのよ。俺もその認識が甘かった。あいつに普通の道徳を当てはめるのが間違ってる。木佐木は木佐木星の住人だから」
「木佐木星……」
「木佐木国でもいい。あいつは自分のルールで物事の善悪を判断する。その指針がおかしいのはケンちゃんも分かるだろ」
木佐木《きさぎ》冬空《とあ》の美貌は物事のルールを捻じ曲げる。
彼自身が故意にそうしていることもあるけれど大体、周りが気を利かせてしまう。
それは違うと教えない。
だからこそ彼はどんどん気分屋になりわがままが通用する境界線を見極めようとする。
黒を白に白を黒にすら変えてしまう木佐木冬空に対して一般常識を説く方が間違い。
いいや、一般常識を教えたとしてもその常識を守らないことでぶつかる他者との対立というものに木佐木冬空はかち合わない。
赤信号を木佐木冬空が渡っていたとしても木佐木冬空を轢き殺したら轢いた人間が大罪人であり木佐木冬空は一方的な被害者になる。
俺が浮気をされて別れるというごく当たり前の価値観で動いたにもかかわらず、土下座をして謝っている木佐木冬空が圧倒的に被害者であり許して復縁しない俺が極悪人。
木佐木冬空に存在する非を周りはなぜか消してしまう。
その不条理を俺は呑み込めないわけじゃない。
彼の容姿や立ち振る舞いに目を奪われるのは俺も同じなのだから。
ただ俺の中にある劣等感が痛いほどに刺激されて、呑み込んでも吐き出してしまう。
湧き上がる激情。彼にぶつけた感情。
彼に見合いが持ち上がったあの時に俺が過剰な反応を示さなければ彼は浮気というような行動はとらなかっただろう。
愛情の実感を得るための火遊びなんて俺には理解できない。
彼にとって浮気は火遊びですらなかったかもしれない。
それもまた考えられないものだ。
玖波那の言葉通りに思考回路が一般と違う。
みんな誰より木佐木《きさぎ》冬空《とあ》を上位のものとして優先している。
『お前みたいな平凡が付き合ってもらえただけ幸せなのに、よく別れなんて切り出せたな』
『会長様がかわいそう。一回ぐらい許してあげればいいのに』
『元はと言えば平凡がちゃんとしてないのが悪い』
『騙されただけで会長様は何も悪くないんだから責めないでやってよ』
別れた後が夏休みだったのは幸運だったが休み明けは地獄だった。
俺に泣きつく彼を跳ね除けるたびに視線が痛い。
ヒソヒソと聞こえる言葉が痛い。
食堂という衆人環視の下で修羅場を繰り広げたのだから噂されるのは仕方がないと思っていたし、ある程度は覚悟していた。
ただ、ある程度の覚悟しかなかった俺は軽く見ていた。
一緒に食堂など行かずに人気のない場所で落ち着いて話をするのが一番頭のいい選択。
彼がその気があろうとなかろうと大衆を味方にする人間だと知っていたのに人が大勢集まる場所に自分から俺は誘導してしまった。
「泣き寝入りしろとか許してやれとかじゃなくって、あいつはああいうのだって思うしかねえんだよね」
「それは、やっぱり庇ってるだろ」
同情でも何でも彼の側に立って玖波那は俺に話をしている。
それに対して嫌な気持ちにならないのは俺と玖波那と彼の三人で過ごした時間が少なからずあるからだ。
穏やかな時間は惜しいと思うほど満ち足りたものだった。
あの日々が続いていればよかったというのは俺たち三人の共通の気持ちかもしれない。
「あ、ケンちゃん……小耳に挟んだんだけど、ケンちゃんのクラスの伊須海夢? あいつに告白されてるんだって?」
「あぁ、悪ふざけにしては……ちょっとしつこい」
「本気なら?」
「もっと性質が悪い」
「受ける気は」
「あるわけない」
伊須が嫌いなわけじゃない。
ただ元恋人である彼との事で思ったのだ。
身辺を整理してから俺のことを好きだと言ってくれ。
せめて、俺に何かが起きそうな状態で好きだなんて言うのは無責任だ。
「もしかして、伊須の親衛隊から、制裁……?」
「まだ制裁とも言えないレベルだけど来月あたりか、何か切っ掛けがあれば爆発するかもしれない」
「風紀はまだ介入できないレベルかぁ。ん、っとにもう〜」
問題があった後でないと風紀は対処できない。
もちろん事前に護衛として着いて守ってもらうこともできるけれど俺の場合は無期限になりかねない。
一定期間だけならともかく無期限で風紀委員の一人を常に俺が借りるなんて出来るはずがない。
「俺に電話してね」
本当にお願いと玖波那はなぜか頭を下げる。
世話になるのは俺なのだから俺がお願いする立場だろうに玖波那は俺が頷くまで顔を上げない。
風紀としても生徒が制裁を受ける事態を見過ごせないし、友人としても気にしてくれている。
「それにしても過剰じゃないか?」
反応が少し、強すぎる気がする。
元恋人である彼に関することで俺は中学から人の悪意に晒されたことは少なくない。
なら、今更だ。
「木佐木が……なんか親衛隊たちにおかしなことを吹き込んでるらしくてねえ」
「俺のボディーガード?」
「もう少し過激かも。繭崎堅太に何かする人間は強制的に排除するのが生徒会長の親衛隊としての義務だとかなんとか」
「それは雨音は了解済みなのか?」
「生徒会長の親衛隊で会長本人からの願いなら無下にはできないんじゃないの。ってか、あのちっちゃい子が隊長って大丈夫なわけ?」
「俺に言われても……」
確かに雨音のことは心配だ。
雨音に何かがあれば俺はきっと後悔する。
彼自身に対して何も感じなかったが俺は自分の行動には後悔していた。
もっと上手く立ち回れたはずだろうという考えが脳裏にチラつく。
彼のいない、彼が勉強する教室。
そこから立ち去るのがどうにも後ろ髪が引かれる気持ち。
人はそれを未練と呼ぶのだろう。
俺は何を未練がましく思っているのだろう。
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