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俺は疲れ切っていた。
すぐにシャワーを浴びて眠りにつきたい。
それは暫く叶いそうにない。
「なあ、永遠っ!」
「気安いぞ、愚民」
「そんなこと言うなって! オレと永遠の仲じゃねえか」
「他人なら敬意を払え」
「同い年じゃん」
「この学園には俺の方が長くいるんだから俺が先輩だ」
「え、あ……そっか、永遠先輩」
俺は思わず噴き出した。
ずっと留年していて卒業できない先輩を想像した。
永遠先輩ってなんだ。
「ケンタッ!! ケンタが笑ったッ。先輩、見たっ、って何してんだッ!」
元恋人である彼、木佐木《きさぎ》冬空《とあ》はケータイを構えて俺に向かって連射状態。
シャッター音がすごい。
「済まない堅太。動画にするべきだったな」
問題はそこじゃない。写真を撮るな。
俺の写真をどうする気なんだ。
「動画だとどうも画像が荒いからな……」
「録画のモードの変更で高画質になる……けど、俺を撮らないで」
「それは無理だな」
「どうして」
「逆に言うが、俺が堅太以外を撮影する日が来るとでもいうのか?」
そんな言い方されても「来るんじゃないの」としか答えられないじゃないか。
やっぱり胸が痛む。
あの食堂で俺の心はなくなったはずだった。
でも、今、痛んでいる。
なくなった場所が痛むなんて幻肢痛というやつだろうか。
ファントムペイン。
「永遠先輩、それはダメだ。肖像権の侵害だ」
「誰にも公表せず個人で楽しむから問題はない。CDやDVDをダビングするのも個人的なバックアップは禁止されていないだろう。公《おおや》けに人に配ったり商売にしたりするから問題になるんだ」
「そ、そっか?」
彼の迫力に鯨井は負けた。
最初から見えていた勝負ではあるがさっきから鯨井が勝てた試しがない。
全部言いくるめられている。
どうして彼が俺の部屋というか俺と鯨井の部屋に居るのかといえば鯨井が誘ったからだ。
なんとも単純な話。
俺が遠ざかろうとしたところで鯨井が彼を離さずに部屋まで半ば無理やり引っ張ってきた。
もっと話がしたいと言って共同スペースのソファに彼を座らせて三十分ほど喋り通しだ。
「永遠、永遠はどうしてそんなに偉そうなんだ?」
「偉いからこの態度なんだ。偉そうではない。立場に相応しい振る舞いをしている」
「マジか。永遠って何者? 裏世界の支配者?」
「どうして裏である必要がある」
「表の……世界征服を!?」
この二人が何を話しているのかさっぱりだった。
本名を教えるのが嫌なのか訂正するのが面倒なのか鯨井はなぜか彼のことを永遠と呼ぶ。
どうでもいいからか彼は適当な相槌を打ちながら視線はずっと俺に向けられていた。
自分の部屋に逃げてしまいたいがそうもいかない。
「堅太、転入生はエイリアンアブダクションの経験者か?」
「さぁ……俺は知らない」
真面目な顔で「宇宙人に改造手術を受けたとしか思えない思考形態だ」と呟く彼に案外鯨井と相性がいいのではないのかと思った。
同じタイプだ。
時間を考えれば彼を一般生徒がいる寮の部屋に長居させるわけにはいかない。
不満げな鯨井を風呂に入らせて彼を玄関まで見送る。
名残惜しそうにされても鯨井がいないので遠慮せず追い出せる。
そして余計なお世話だとは思ったが俺は彼に作っておいたお握りを渡す。
このために部屋に戻らずに彼が帰ろうとするのを待っていた。
もう、今更なことかもしれないがうどんだけでは足りないだろう。
俺に合わせて彼がうどんを頼んだのは分かっている。
あえてそれ以外のものを注文しなかったのも気を遣ってくれたからだ。
自分でも不思議な感覚だがうどんとうどんの交換は許せるが一方的にうどんを貰うような状況になってしまうと彼と自分の関係を見直して、そんなやりとりをするのはおかしいと思ってしまう。
彼から与えられたものを受け取ってしまったら、即復縁とまではいかないが足がかりになってしまう。
頑なに嫌がりたいわけじゃないが今の俺に彼が向けてくる優しさのようなものは受け入れがたい。
一方的な施しではなく見返りを求められているのを言外に感じてしまう。
うどんとうどんなら構わない気がしてあの時はそのまま食べてしまった。
気分的な意味での口直しを求めていたこともある。
いま、食べないなら朝ごはんにも出来るはずだと俺は彼が部屋にやってきたことで少し考えてご飯を炊いてお握りの具材を作った。
もし、ご飯が炊きあがらない内に彼が帰ったのなら別にいい。
ご飯は朝に食べればいいのだから無駄にはならない。
炊き立てを朝に食べたい気持ちはあるが一日ぐらい一晩おいたご飯があっても構わない。
お握りではなく傷まないように酢飯にしてお稲荷さんにするべきかときつねうどんをもらったことを考えて悩んだが彼は具が入っているものが好きだった。
食べてみて何があるのか分かる瞬間が好きらしい。
少し子供っぽいが「おお、梅チーズ」と中身を絶対に口にして笑う。
塩むすびのよさは分かっているらしいが具がないと恨めしそうな顔をしてくる。
お握りを作っている時そんな昔のことを思い出していた。
一年前のことじゃない中学の頃のことだ。
懐かない猫に餌を与える感覚で夜食にお握りを作った。
彼は目の前のことに集中すると寝食を忘れるタイプだ。
天才肌なんだろうと思いながらガラスの瓶の中に船を作るという地道な作業をする彼に俺は三種類のお握りを作って渡した。
その時は彼の好みなど知らないし食べてくれないかもしれないとも思った。
彼は完食しておかわりすら要求してきた。
図太さはうちの猫に似ている。
いつもは近寄ってこないのにご飯の時だけ堂々と欲しがる。
しばらくしてから彼は俺に猫のワインボトルに船を入れてくれた。
それは今でも俺の部屋にある。
中学の時にくれたあの猫のボトルは彼が俺に心を開いてくれた瞬間のようで捨てることも彼に返すことも誰かに渡すこともできない。
自分だけの彼の作り上げた創造物。
「食べないなら玖波那に渡してくれ」
「食べないわけがない。ありがとう、堅太」
お握りを見て驚いた顔の後に嬉しそうに彼は笑った。
少し幼さが感じられるその笑みは俺だけに向けられた、以前はずっと見ていたものだ。
中学のあの頃から変わらない顔に見える。
「愛しているよ」
お握りを受け取ってそんなことを言ってくる彼に俺の頭は誤作動を起こしそうになる。
飾った言葉や持って回った意味のつかめない台詞よりもストレートなものはどうしても心に突き刺さる。
彼からすれば俺のツボなどお見通しだろう。付き合い自体はそれなりに長い。
いいや、違う。
まるで今、彼にときめいてしまったみたいな考えはいけない。
お握りを嬉しそうに撫でている彼にもっとご飯を作ってあげたいと思うのはおかしい。
俺を見ないと思った猫がすり寄ってきた、そんな気恥ずかしさを覚えるのは彼がどこまでも彼であるからだろう。
彼の在り方は本当のところ変わっていない。
俺がついていけなかっただけで彼は彼であったのだ。
俺を傷つけるのも俺を甘やかすのも彼の勝手でやっていたことであり俺の感情は二の次。
彼は好きなように生きている。
もう少し早く気づいていたのなら傷つくこともなかった。
暫くはまだ見えない傷が痛むのだろうか。
ファントムペイン、治ることのないとも言われる病。
切断した手足が痛むという現象。なくなってしまった場所が発する痛み。
見えないのに確かにある痛みから逃れることは難しい。
どこが痛んでいるのかは分かっているのに治療が出来ない。
そこには何もないのだから。
「いつまでも、いつだって俺は堅太を愛してる」
どこかで猫が鳴く声が聞こえる。
俺はたぶん落ち込んでいるのだろう。
以前のように彼を思えないことを悔やんでいる。
自分の心の動きを悲しんでいた。
彼の見合いの話を聞いて問い詰めた時のような激情があるような、ないような不安定な気持ち。
あの日の激情があれば今、俺は彼の浮気について嘘つきと怒鳴りつけただろう。
俺を愛していたらそんな行動はとらないと、ふざけるなと叫んだはずだ。
今の俺はただぼんやりと迷っている。
鯨井と彼が話しているのを見るのがイヤだと感じていた。
彼が俺にうどんを渡してくれたのが嬉しかった。
彼が俺が食べ続けられなかったうどんを食べたのが嬉しかった。
理解されているような行動に満足していた。
食べ物をダメにすることに俺は嫌悪感がある。
食べきれない量を口に詰め込むような行動は見るのも好きじゃない。
大食い大会のようなものは嫌いだし、バイキングで食べ散らかす人間も好きではない。
よそったものを口に入れずに残すのは自分の許容量を見誤ったと、それだけかもしれないが皿に残った食べ物の数々がただのゴミと化したと思うと気分が悪くなる。
弟が目が欲しがってあれもこれもと手を付けて食べきらないということをよくしていた。
母が残飯処理のように弟の残したものを食べる。
小さい時の話だがその印象が強いのでバイキングは好きではない。
学園の食堂は朝だけバイキング形式になっているので俺は朝の自炊を徹底していた。
食べきらない量をとってしまう生徒はどうしてもいて、俺はどうにも嫌な気分になってしまう。
朝からそんな気持ちになるのは嫌なので朝に食堂へは行かない。
食べ物をダメにするという観点で言えば彼が来なかった場合のうどんの行方が問題になる。
食欲がないのに物を口に入れることはどうしてもできない。
それでも納豆の入った月見うどんは食べたくない。
俺は月見うどんを捨てることを選んだがそれだって葛藤の上でのことだ。
べつに俺がうどんを残したとしてもそれを批難するような生徒はいないだろう。
俺には他に責めるべき場所がある。たとえば彼と付き合っていた過去や現在、復縁を迫られていることなど。
そちらの方が俺を監視するように見ている人たちにとって重要なのだ。
だから俺の葛藤や心残りなど誰も気に留めたりはしない。
俺にとってだけ重要な小さな問題。
そのはずだったのに彼が介入してきた。
彼はあっさりとスマートに解決して見せたのだ。
俺の心を見越したように。
だから、どんな態度で、どんな言葉を吐き出しても、彼のことが格好よく見えてしまう。
自分勝手だとか、自己中心的とか、そんなことを思っていても、それはそれ、これはこれ。
こんなのどこか騙されていると頭では考えられるが感情はあの時の助かったと感じた嬉しさを覚えている。
そのせいか俺はどうして彼を愛していないのか疑問に思ってしまう。
「にゃー」
どこからかひょっこりと猫が出てきてくれないだろうか。
心に空いた穴に隙間風が吹いて寒いからすり寄ってきてあたためて欲しい。
無理なのはわかってる上で望んでしまう。
なんだか、とても寒くて淋しい。
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