006 副会長と風紀委員長の密談
冷蔵庫からリンゴジュースを取り出して飲む。
手元にあるケータイで連絡するのは一年の風紀委員。
彼は風紀の相談窓口だと言っていた。
匿名希望の相談メールや電話を受け付ける係。
スクールカウンセラーでは届かない場所をフォローする風紀の機関。
それは本来、誰が担当しているのかは極秘。
個人的な悩みはそのまま弱みに繋がる。
プライドもある生徒が誰に相談しているのかを知った上では口を開くことがなかなかできない。
そんなわけで彼は俺にだって教えてはいけなかったんだろうけど副会長ということもあって身分を明かしてくれた。
そして、風紀用とはいえアドレスと番号を教えてくれた。
いざという時に連絡するように言ってもらったのに俺は布団の中で時間を消費しまくって気づいたらこんなに時間が経っていた。
ともかく相談窓口である彼は口が堅い人間であり客観性がある。
だから、俺のこの情けなさなんてよくあることだと流してくれるはずだ。
それと、ハル先輩の声を聞いたから思ってしまった。
「あっちゃん先輩は……なんていうかな」
風紀委員長の秋津先輩はハル先輩と同じ剣道部であり友人同士だ。
二人はとても仲が良かったから俺の親衛隊になんかハル先輩をしたことを怒られて嫌われていると思っていた。
無表情が板についていて口数が少ないから威圧感があるあっちゃん先輩。
『……問題は起こるだろうが、きよが何かを頑張る必要はない』
一年生から委員長へ渡されたケータイから聞こえる声。
何を言えばいいのかわからなくて「お元気ですか」とか言い出した俺に対して怒ることはないあっちゃん先輩。
おどおどとして要件をサクッと伝えることのできない俺を急かすことのないあっちゃん先輩。
あっちゃん先輩はとても優しい。
ハル先輩が小川のせせらぎだとするとあっちゃん先輩は凍てつく吹雪のような雰囲気なのだけれど心の中は全然違う。
声が堅く冷たく鋭いように感じるのは俺が怖がっているからに違いない。
あっちゃん先輩はきっと澄んだ湖。
水面に映る自分の姿に俺は怯えている。
見られたくないもの、触れられたくない場所を暴かれる気分になってしまう。
あっちゃん先輩に俺を傷つけようという意図はない。
今までもこれからも、きっと変わらない。
不器用なのだ。俺はそれを知っている。ゆっくりと教えてもらった。
怖がって勝手に避けるような失礼なことをしていた俺にあっちゃん先輩は正面から聞いてきた。
『俺が怖いか?』
思わずうなずいて殴られると緊張した。
空気が軋んだ気がしたから怖くて目を閉じて震える。
『どこが怖い?』
何が怖いかと言えば雰囲気としか言えない。
草食動物は肉食動物に本能的に恐怖して逃げる。
自分を食べる相手と仲良くできるのは本能が壊れているとしか言えない。
俺は人間だけどそういう感覚は動物的だ。
野生の勘ってやつがないと今日まで生きられなかったと思ってる。
いろんな局面で空気を読んで心を隠して息を殺してやり過ごしていた。
先輩の存在感は強すぎた。俺みたいな野ウサギや野ネズミは食い殺されるだけだ。
家柄や容姿なんか関係ない。
ただ怖い。
漠然としすぎていて何を言えばいいのか分からない。
どこと聞かれて全部とか失礼すぎる。
無言の俺に秋津先輩は少しだけ屈んだ。
中学の俺は平均的な身長で発育がいい先輩からすると小さく見えただろう。
見下ろされていたのが目線を合わせられた。
『どうしたらお前は俺が怖くなくなるんだ』
たとえばこれがハル先輩なら悲しそうな顔でこちらに罪悪感をもたらすような苦しげな声で言っただろう。
あっちゃん先輩、当時は秋津先輩と心の中で呼んでいた。口に出すのはおこがましいと思ったのだ。避けていたので呼びかける機会もなかった。
秋津先輩は違う。声にも表情にも感情が乗っていない。
一言で表現すれば冷徹。
冷たさと鋭さだけが空間を支配する。
『怒りませんか?』
『あぁ、怒らない。……お前には俺が怒っているように見えたか?』
ビクつく俺に秋津先輩は「怒ってない」と繰り返した。
けれど、俺は疑った。
秋津先輩の顔が怖かったからだ。
『怒ってはいないが困りはした……』
『怒らないでください』
そして俺は秋津先輩を殴った。平手打ちはペチっと情けない音が立つ。
秋津先輩は瞬きをして俺を見るだけで他のリアクションはない。
『怒りました?』
『いや……悪いな、お前が何をしたいのか察することが出来ない』
困ったような台詞だが声音は淡々としてどうでもよさそうに聞こえる。
でも、困惑しているのだ。秋津先輩は今までにない事態に戸惑ってる。
本人がそう言っているし、指先が戸惑いを伝えてくれるから嘘ではないと俺は信じられそうだった。
秋津先輩に普通の心がある、それが分かって俺は気が楽になった。
勝手に先輩の手を取って握って自分との手の違いを見る。
ずっとそうしたかった。
武道を嗜んでいる人の手は普通とは違う。
ゴツゴツとしてカタい手。
ハル先輩とも違う。
秋津先輩が剣道以外もいろいろとやっていると親衛隊の人たちから聞いた。
『触られて嫌でした?』
『構わないが……怖くはないのか』
『怖いですけど、触りたかったので』
そう、俺は知りたかった。
強い人の手がどんな風になっているのか知りたかった。
秋津先輩の武勇伝は数多い。
一人で百人を相手にしたとか動物園の檻から逃げたライオンを倒したとか人を食い殺した狂犬を人にらみで降伏させたとか。嘘か本当かよく分からない秋津先輩の逸話は多い。
『怖くても笑えるのか?』
『……俺が笑ってたならそれは嬉しいから、です』
秋津先輩は怖いけれど強い人の手をニギニギしたのは嬉しい。
普通ならできないことをやってのけた俺。
満足した俺は秋津先輩の顔を見て驚いた。怖くなかった。
『あっちゃん先輩、俺、笑ってもらえたら怖くないかもしれない』
『あっちゃん?』
『いやです? 俺のことは「きよ」で』
『お前は朝霧きよらではなかったか』
『きよらはきょーらみたいな発音ならいいですけ、あっちゃん先輩だと多分「こらっ」って言われてるみたいになって怖いから』
あっちゃんに対してツッコミを入れないことにしたらしいあっちゃん先輩。
微妙な話だけれど「ら」の発音が強いと恐喝されている気分になる。
周りのみんな「ら」を強く発音しないから「きよ」しか聞こえなかったりもする。
それで伝わるから「きよ」でいい。「きよ」なら「カナ」に繋がらない。
姉と切り離される気分になる。たった一文字がないだけで心が楽になる不思議。
『一文字ずつしっかりと発音するのは祖父の教育だ。嫌な思いをさせてしまったな』
『あっちゃん先輩の発音は正しいし綺麗だと思います』
『必要なのは正しさではない。お前が……きよがどう感じるかだ』
あっちゃん先輩はとても優しい。
けれど、やっぱり雰囲気が怖いので俺は普通なら怒られるかもしれないということをやってみる。
試しているみたいでイヤな奴だけどあっちゃん先輩は気にせずにしたいようにしていいと許してくれる。
これはきっと誰も知らない俺達だけの秘密。
こっそりひっそり探るように俺はあっちゃん先輩に甘えて見せる。
彼は俺に危害を加えない。
まずは信じて手を伸ばしてみないことには始まらない。
それがあっちゃん先輩と俺との約束。
損得勘定なんかまるでない、あっちゃん先輩に不利なだけの決め事。
あっちゃん先輩は俺を怒鳴らないし俺を殴らないし俺を信じて甘やかしてくれる。
俺が信じるまで、ずっと。信じきっても、たぶんずっと。
『きよ、お前がもし生徒会役員を降りるというのなら辞職の手続きをとることもできる』
回想から現在に戻ってくる言葉にしては強烈なものだった。
温度のないあっちゃん先輩の声。
けれど、頑張ってやわらかくしようとしている。
俺を怖がらせないようにあっちゃん先輩はずっと努力している。
ケータイ越しで顔が見えないからやっぱりちょっと怖いけれど、あっちゃん先輩は優しい。それは疑っちゃいけない。
あっちゃん先輩は自分が苦労しようが何だろうが俺に楽をさせようとする。
ちゃんとそれは自覚しないとあっちゃん先輩に失礼だ。
「副会長は続けます。迷惑をかけてすみません」
生徒会業務が滞ったりはしないはずだ。
ただみんなに心配はかけただろうし、生徒会長浅川花火と転入生が一緒にいるところはできたら見たくない。
それは俺のわがままだけれど口にすれば誰かが叶えてくれる。
榎原はなんだかんだで世話焼きなところがあるから生徒会室から書類を持ってくるのを請け負ってくれるだろうし、博人だって同じだ。
浅川花火と関わりたくないと言ったとしても博人は無理に仲直りを進めてきたりしない。
浅川花火と葛谷博人はいとこ同士だが仲の良さは正直分からない。
幼なじみとして三人でくくられながら俺達は生徒会として俺とハナちゃん、親衛隊として俺と博人、それかいとこだから浅川花火と葛谷博人になる。
三人ではあまり過ごした記憶がない。
今更、少しおかしい気がした。
「迷惑かけた分、頑張って」
『きよ、いい』
意気込みをへし折られた。
情けない声が口から漏れる。
『頑張るな』
「俺が頑張っても何もいいことなんてないから?」
転入生の案内なんか本当は嫌だった。
知らない人は怖かった。
榎原が替わろうかと言ってくれたのにハナちゃんが挑発してきたから平気だと強がって挑んで、結果玉砕。
浅川花火の言い分はわかる。
転入生の言葉でいちいち傷ついていたらこの先やっていけない。
生徒会長浅川花火は「大人になって暴言なんて笑って許してやれよ」と言った。
俺はその時、心にトゲが刺さった。今まで感じたことのない憤り。
どうして自分が耐えないといけないのか。
転入生は同い年だ。
理事長の甥なのだから家柄は俺と対等のもの。
立場としては似たようなものであるはずなのにどうして俺が一方的に我慢しないといけない。
通り過ぎればどうでもいい言葉だったとしてもその時の俺にとっては重要すぎた。
俺は、弟だから、男だから、年下だから、そういう理由で我慢しかない日々を生きてきた。
与えられたオモチャも絵本も壊され引き裂かれ、それが耐えて当たり前だと言われてきた。
苦しい、悲しい、つらい、悔しい。
我慢するのは嫌だ。
優しくされたい、甘えたい。
俺は自分の中の欲望に気が付いた。
とても醜い願い事。
誰か、俺を大切にしてくれ。
俺は俺を大切にできない。
俺なんか死ねばいい。
俺は俺を愛せない。
役立たずと言われて笑うたびに指と爪の間に針を刺された記憶。
体が震えて心が痛くて俺は俺を投げ捨てた。
自分が正しいと口にするのは誰かの正しさを否定することに繋がるから喋らない。
顔を上げていると人と目が合って罵られるかもしれないから俯いている。
そんな情けなく惨めな俺はハナちゃんに壊されたけれど根本的には変わってない。
明るい仮面をつけただけ。
優しくするのは優しくされたいから。
あっちゃん先輩とは違う。
俺は損得勘定だけで生きている。
親衛隊が好きなのも彼らが俺に親切だからだ。
好きだと言って大切にしてくれるのは気分がいい。
なんて自己中。
『頑張ると疲れてしまうだろう』
泣きそうになった。風呂場に移動しながら俺は歯と歯がカチカチと鳴る音を聞いた。
震えているのは怖いからじゃない。
いいや、やっぱり怖いかもしれない。
あっちゃん先輩は逃げも誤魔化しもなく俺自身を俺に突きつける。
『お前の頑張りを認めない奴の言葉を聞く必要はない』
誰のことを言っているのか分からない。
俺は何を頑張っていたのだろう。
努力が実らないなんて知ってる。
この学園に天才は多すぎて秀才は上を見すぎて首が疲れて俯いてしまう。
『きよの周りにはそのままのきよを認めている人間が集まっている』
そのままの俺とは何だろう。
弱さを晒す今の俺だろうか。
部屋の外にいる親衛隊を思い出す。
彼らは俺を見捨てていない。
『なら、それでいいだろう』
やっと話が見えた。
なるほど、これは訣別の話だ。
浅川花火との別れを確定させるための会話。
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