やさしさをあげよう | ナノ

  六 また明日……の約束破った……こと?


 目が覚めたら知らない場所だった。
 桐谷が俺を移動させたんだろうか。
 意外なことに手がきちんと治療されていた。まだ痛む。指の骨が折れたのかもしれない。
 汗で身体が気持ち悪い。
 
 上半身を起こそうとして自分の手足に手錠がついていることに気づく。長い鎖なので寝がえりはできるけれどベッドから降りて部屋の外には行けそうにない。
 誰かを呼ぼうと声を出そうとして喉が渇きすぎてかすれた音しか出ないので諦める。
 
 しばらくそのままで待っていると扉が開いた。
 
 てっきり桐谷か店のオーナーが顔を出すと思ったのにそこにいたのは田山さんだった。
 想像もしていなかった相手に口がポカンと開いてしまう。
 間抜けな俺に田山さんは溜め息を吐いた。呆れさせてしまったのが悲しくて何か言い訳をしようと口を開いてもかすれた喉は何も言葉を発することが出来ない。
 
「……まず飲め」
 
 いつになく冷たい田山さんの声に怖くなりながらパックのジュースをちゅーちゅー吸った。百パーセントのオレンジジュースはとても美味しい。目の前で飲んだことはないのに少し話した俺の大好物を覚えていてくれたらしい。
 
 そんな場面じゃないのに俺はジュースのせいで和んでしまった。危機感が薄いと桐谷がよく俺に言った。危害を加えてくる人間の筆頭である桐谷にすら心配されるレベルの俺は何者なんだろう。
 
 ジュースが好きだから太るのか、太っているからジュースが好きなのか。
 
 中学の頃はまだぽっちゃりぐらいだった。
 桐谷に夜中に連れ出されてご飯を食べさせられたり学校の中で間食としてスナックを食べさせられたせいじゃないのかと自分の腹の肉をつまむ。
 
「ジュースぐらいでそんなにすぐに太るかよ」
 
 いつも軽い口調。肩の力を抜いたいつも通りの田山さんがそこにいた。俺を見る目が優しい。
 冷たいと感じたのは気のせいだったと俺は拍子抜け。何も深く考えることなんかないと笑っていたら田山さんが俺の手を握った。どうしてこんなことをされるのか分からない。
 
 痛みにジュースのパックをベッドに落とす。謝ると「どっち?」と聞かれた。手は放してくれない。間違ってはいけないと無言の圧力がある気がする。田山さんは優しいけれど時々こういうところがある。気が立っていて正解以外の返答を絶対にしてはならないという空気。
 
「ベッドを汚したのと手を怪我したの」
「それと」
「また明日……の約束破った……こと?」
「あぁ、そうだな」
 
 俺の答えはちゃんと正解だったのか田山さんは手を放してくれた。頭を撫でられながら俺は肩の力を抜く。「田山さん?」と呼びかけると「どうした」と何でもないように声をかけられた。本当に何でもないみたいないつも通りの田山さん。それが異様だけれど何で異様だと感じるのか違和感の理由が分からない。
 
 俺がおかしいんだろうか。
 
 田山さんはもう怒っていないみたいだから安心していたけれど、この状況が分からない。
 俺はどうしてここに居るんだろう。
 ここはそもそも何処なんだろう。
 夢を見ているみたいだ。
 現実感が希薄。
 手が痛いのに田山さんが目の前にいる理由が分からないせいで全部がぐちゃぐちゃだ。
 
 俺の混乱など気にしない田山さんはいつも通りとも言える。マイペースな人だから重要なこと以外は大体どうでもいいこと扱いだ。俺がここにいるのは思ったほど驚くようなことじゃないんだろうか。俺の感覚がズレていて正しいのは田山さん。そう思ってしまうほど田山さんはいつも通りだ。

 田山さんが背広を脱いでベッドの中に入ってきた。ベッドに転がるジュースのパックは無視だ。田山さんはずぼらな人だから掛け布団がジュースで汚れても気にしない。俺が謝らなかったら怒ったかもしれないけれど謝ったから流してしまった。田山さんは優しいから大抵ことは許してくれる。いつもの田山さんだ。
 
 疲れているなら休ませてあげたい。でも、その前に説明が欲しい。
 
「田山さん」
「ゴミ箱は足元の方だ」
 
 指をさされて俺はジュースのパックを捨てる。元々ほとんど飲み終わっていた。少し入っていた分は布団が吸収してしまっている。
 
「ユメ、寝るぞ」
 
 そういえば田山さんと一緒に寝た記憶はない。延長しても三時間ほどで俺たちの時間は終わっていた。いつもあっという間で名残惜しかったのだ。田山さんに仕事があると分かっていても一緒にいたかった。
 
 どうしてと疑問はあるけれど聞いてしまえばこの時間が壊れる。
 そう思うとどうすればいいのか分からなくなってくる。
 何が正解なんだろう。
 
 聞かなければ田山さんと一緒にいられるなら何も言わない方がいいかもしれない。
 俺は気が弱すぎる。田山さんから怖い答えを聞きたくないと思ってる。
 
 田山さんに引き寄せられて安心と同じぐらいに寒気がしながら目を閉じる。起きたばかりなので眠気はやってこないけれど田山さんが近くで寝ているのがなんだか嬉しかった。
 
 ベッドは柔らかくて部屋は大きい。
 田山さんのアパートとは全然違う。
 それなのにこの部屋の主は田山さんだと何故か確信できた。
 人の部屋を借りているような態度じゃない。
 田山さんが何者か分からないけれど俺は優しい田山さんを信じようと思った。
 それが俺が田山さんに出来る優しさだ。

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