雑草の名を持つ彼はこの世界で一番美しい | ナノ

  俺と初恋の彼


 自分の中で何かが足りないと思ったことがある。
 前ぶれがあったわけじゃない。
 ただふとした弾みに自分の中に何もないと自覚した。
 この世界の誰にも必要とされていない気がして、ほんの少し泣いた。
 純粋な気持ちが溶け込んだ涙。
 その涙はこの世で一番綺麗なものだ。
 自分がどんな存在だとしても胸を張って言える。
 俺がどれだけ何も持ち合わせていない人間だとしても心から沁みだした透明なしずくは美しい。
 
 けれど、それを他人に伝えられる気がしなくて俺は筆を執ることにした。
 
 白いキャンバスを埋め尽くす夢想。
 俺の中にある幻想の風景と現実とねじれた融合。
 絵の具で表現できない世界は不要だ。
 キャンバスの中でだけ俺は自由になれる。
 何もないと思っていた世界はここにあったと確信できる。
 激しい没入感は危ないクスリでトリップしているみたいだった。
 
 最高傑作を作り上げたという達成感の熱から覚めると出来上がったものは無価値でゴミのように感じてしまう。
 
 自分自身の薄汚れて欠けているものが練り込まれているようで作り上げた作品は醜い。
 作っている最中とは正反対の評価を下す。
 自分に厳しいのではなくそれが事実だった。
 
 欠けている部分を補うために行動を起こしたはずなのに俺はどんどん失っていく。
 自分がどういうものであるのか表現するための手段だったはずなのに描くほどに俺はどんどん自分を偽っていく。
 
 それでも作品というのは独り歩きを続けるらしい。
 俺の迷いも苦痛も知らずに作品は評価を受けていく。
 嘘とまがいものが増えていく気がした。
 圧迫感に心が死んでいくような気分の悪さがある。
 
 孤独感の中に立ち往生してまた俺はキャンバスと向き合う。
 
 延々と終わりのない最悪の循環。
 将来の夢もこの先の未来も何一つ希望をいだけない。
 死にたいとは思わなくても死んだ方が世界のためになるかもしれないと思う。
 それほどに俺は他人も自分も嫌いになっていた。
 
 朝比奈(あさひな)夕陽(ゆうひ)、その名前も響きも自分に相応しくない。
 半端な時間帯は不安定で気持ちが悪い。
 彼に出会うまではずっと自分のことをそう思っていた。
 似合うのは夜であり昼でも夕方でもない。
 黒く静かな闇夜だけが俺の心をいやして落ち着けてくれるものだと思い込んでいた。
 
 
 
 自分が馬鹿だというのは百も承知だけど恋ってのは本当、どうしようもない。
 今までのすべてを破壊してくれる。
 
 
『夕陽、キレイですね』
 
 
 なんてことない言葉。ふとした拍子にこぼれた深い意味はない呟き。
 同意を求められたわけでもない。世間話未満。
 
 自分に、夕陽という名の自分に向けられた「キレイ」という言葉じゃない。
 それを分かった上で涙が出るほど嬉しかった。
 なんの裏表もなく純粋に吐き出された言葉なのが分かったからだ。
 言葉以上の意味はない見たままの事実を彼は口にしていた。
 
 キラキラと流れる汗をぬぐいながらはにかむ姿。
 すらりと伸びる手足の瑞々しさ。
 
 心が初めて震えた。
 自分の中で欠けたものが埋まる気がした。
 たったの一言で世界に色がついて満たされた。
 何よりも綺麗な相手から吐き出されたからこそ心は打ち抜かれた。
 
 
 大嫌いな逢う魔が時。
 夜の帳が落ちる前。
 太陽が沈み行く赤く燃えた空。
 
 黄昏時に一人でいると自分を憐れみたくなって、落ちていく太陽に自分を重ねてしまう。
 センチメンタルなんて気持ち悪いと思っても悲観的な気分にさせられる。
 
 それが打ち砕かれた。
 
 もう日が暮れるたびに絶望しなくていい。
 彼が綺麗だと定義してくれたものを嫌い続ける必要はない。
 俺は夕陽という名の自分を嫌わなくてもいい。
 
 こんなことで憂鬱になる必要はないと彼の表情を見て思う。
 清々しい風をまとった彼は俺の中にある薄暗く面倒で気持ちの悪い部分を洗い流してくれた。
 身体が軽くて心が落ち着かない。
 気分の悪いゆらぎじゃない。
 
 すこし経ってから恋だと分かったその気持ちは俺の世界のすべてになった。
 
 俺の中にあった絶望を打ち砕いてくれた彼を愛さずにはいられない。
 夕方が怖かった。イヤだった。自分の名前だって嫌いだった。世界が嫌いだった。
 何もかもが受け入れがたかった。
 息苦しい狂った学園が許せなかった。
 ストレスは溜まるだけ溜まって捌け口がない。
 
 そして、気持ちの悪いこの状況が平気になるのも恐ろしかった。
 吐き気がする大人になって心を鈍らせる。そういう将来を想像するのが嫌だった。
 少なくともチガヤくん、彼のおかげで俺は最低最悪なゴミのような世界から脱出できそうだ。

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