009 人は手に入らない場所に焦がれてしまう

 子供ながらに享楽主義の貴族を多く見ていたからか、大人に失望していた。
 快楽に酔いしれて、庶民の心と命を踏みにじり続ける汚いもの。
 陛下の目が届かないと思って、王都から離れるにしたがって貴族の質は悪くなる。
 
 その中でプロセチア家というのは例外だった。
 侯爵家の中でまともという言い方は失礼だけれど、庶民への不当な圧力や罰などおこなわない。
 豊かな土地を持っているので、領民たちは幸せに暮らしているらしい。
 
 侯爵夫妻が王都の屋敷に滞在することは珍しくない。
 メッツィラ商会に日用品の注文が入るので、どの程度宿泊されるのか私の耳にも入ってくる。
 半年前から兄妹がやってきたというのは意外な話だ。
 社交界や王宮への顔出しで一時的に王都住まいになることは不思議ではない。
 それでも、半年となると領地で問題が起こったのかと疑ってしまう。
 単純に何かの予定を調節しているのかもしれないが、兄妹が目的をもって出歩いているという話は聞かない。
 
 商会というのは情報通でなければならない。
 情報によって商品の価値は天と地ほどに差が出来る。
 十歳の私でも知っていることで、私以上に従兄のアロイスも知っているはずだ。
 食品部門を取り仕切っている、フーチェおじに取り入ってパン屋で働いているアロイス。
 彼は自分のするべきことや能力を理解していない。
 
 次男であるアロイスに商会のドンが期待をかけているのは身内贔屓ではない。
 長男であるカッツェロが想像を絶するクズ野郎だからだ。
 
 忘れもしない五歳のときのこと。
 私のことを仲良くしている貴族相手に裸で渡したのだ。
 カッツェロは十五で、物事の分別も付いたはずだが、商会のドンへ「どうなるのかわからなかった」とクソでしかない言い訳をした。十歳も年下の従妹を売っておいてとぼけた。
 
 当時からメッツィラ商会の愛娘なんて呼ばれていたこともあって、貴族も私に無体なことはしなかった。舐めまわされただけだ。怯えて失禁したことは許せない。屈辱は消えない。肥え太った肉の塊に押さえつけられた恐怖をいつかカッツェロにも味わわせてやる。この決意だって消えていない。
 
 一番いいのは、後継者としてアロイスが立ち、カッツェロを失脚させること。
 そう思っているのは、クズを自分の跡に継がせたくない商会のドンも同じ。二十歳のカッツェロに必要以上の権限を与えずに飼い殺しにしている。
 
 アロイスが次期ドンというのは、アロイス本人に商会を背負う気がないという一点以外でとても現実味のあるいい案だ。
 
「……手を、おれの、手を、握ってくださった」
 
 顔を真っ赤にして涙ぐんでいるアロイスは、ごみクズカッツェロの弟とは思えない。
 十三歳という年齢では説明できない純朴さは美徳だが商人としてはいらない素質だ。
 
「クロトさまはどうして直接いらっしゃったのかしら」
 
 白に近い金髪と青灰色の瞳の侯爵家の一人息子。
 クロト・プロセチアは七歳だったはずだ。
 五歳のあの惨めな気持ちを忘れるために自分よりも年上の貴族を何度となくやりこめてきた。
 それが、七歳に負けた。
 戦うこともなく一瞬で負けた。
 私が騎士であったのなら頭を下げて剣を捧げたに違いない。
 一目見て彼が特別なのだと分かった。
 本物の貴族とは彼のことを言うのだろう。
 まとう空気が違う。
 下品な笑みを浮かべる快楽主義者が持ち合わせることのない本物の気品。
 彼が居なくなった店内は未だに緊張が満ちている。
 
 職人気質なオヤジさんですら、彼の言いなりになっている。
 貴族嫌いなオヤジさんが万が一をしでかさないために私が急いできたのだが、険悪な空気はなかった。
 口では追い払おうとしていたが、オヤジさんの本心でないのは分かっていた。
 クロトさまに王都一番のパン焼き職人ということは、国で一番ということだと言われて心の底から喜んでいた。
 
 オヤジさんの弟は王宮で陛下のためにパンを焼いているらしい。
 それを誇りにしながらも、どこか引け目に思っていたのだろう。
 性格上、王宮料理人になどなれないと分かっていても憧れはある。
 人は手に入らない場所に焦がれてしまう。
 
 歌で生計を立てられない。
 それを分かっていても、歌うことをやめられない。
 だから、アロイスがパンを焼いていることが歯がゆくなる。
 早く商人としての経験を積んで欲しい。
 カッツェロのクズが勢力を広げる前に次のドンはアロイスなのだとみんなに知らしめてもらいたい。

「三日に一回、来てくれって」

 嬉しそうなアロイスにいい加減にしてくれと怒鳴りつけるのは私の役じゃない。
 オヤジさんが許可したことを私は止められない。
 
「アロイス坊ちゃんにとっていい経験になるだろう」
「オヤジさん、店の仕込みだって手を抜かないよ」

 未だにクロトさまに握られた手を見てニヤニヤしていたアロイスが顔を引き締める。

「ばっか野郎! おまえさんは侯爵家の皆様方のために全力を出すんだ。おれはここから動けねえ。……おれの味を食べたいからって、ひよっこの鼻たれなおまえでもいいから寄越せなんて、普通は言えねえぞ」
「普通は言わないことをクロトさまはここまでおっしゃりに来た……どうして?」
「ゾフィー嬢ちゃんの悪い癖だな。おれのパンが気に入ったからだって言っていただろ」
 
 たしかにクロトさまはパンの種類の多さに驚かれて、自宅でも食べたいとおっしゃった。
 配達するために持ち運びに適したパンしかお渡ししていない。
 おやつの焼き菓子、夕食のパン、それらも朝に配達したものを召し上がられている。
 
 豊かな領地を持つ侯爵家としては不自然な質素な生活だ。
 昼過ぎや夕方の配達をメッツィラ商会が提案しなかったはずがない。
 プロセチア家が他の商会を利用しているとも聞かない。
 食に興味のない侯爵さまだけなら不便さを感じないけれど、兄妹の気持ちは別だったということかもしれない。
 
「チーズやショコラを練りこんだパンはアロイス坊ちゃんの気まぐれで出来たもんだしな。子供の味覚には子供が作ったもんがいいもんだ」
「たしかにティアさまはとても気に入られて――そっか、妹を喜ばせたかったのかしら」
 
 好き嫌いが多く少食なのだとクロトさまはティアさまのことをおっしゃっていた。
 誰でも小さいころは野菜が嫌いなものだ。
 私もアロイスが野菜を入れたパンを作ってくれなければ、野菜など一生食べなかったかもしれない。
 
「庶民的であろうと、例外的であろうと、どうだっていい。ティアさまがおいしく食事をされるのが一番」
「そうだね。クロトさまは、そうおっしゃっていた。そこに嘘なんかない」
「十三歳のガキを侯爵家に送り出すなんて、死ねと言ってるようなもんだが……」
「アロイスなら大丈夫。いいえ、クロトさまが大丈夫にして下さるでしょう」
 
 口に出してから後悔する。
 パン屋なんかしているんじゃないと叱りつけるべきなのにクロトさまからの期待を裏切れない。
 アロイスの立場など知らないクロトさまに別の人間を用意するなんて言えるわけもないし、アロイスもオヤジさんも納得しないだろう。オヤジさんの弟子はアロイスだけではないけれど、アロイスが一番優秀だ。
 
 ティアさまが気に入ったパンもアロイスが作った物なので、別の人間を送り出すなどあってはならない。
 高品質のものを作れる別人ならともかく、質が下がってしまうならクロトさまに紹介するべき人間ではない。
 
 屋台骨であるオヤジさんではなく、才能はあっても若いアロイスを呼び寄せるあたり、クロトさまは物事を分かっていらっしゃる方だ。貴族はわがままで、自分の言うことを庶民は聞くべきだと考えている部分がある。無茶を叶えるのが商人だという貴族すら存在する。
 
 カッツェロはそんな道理の分かっていない貴族にすら頭を下げる愚か者だが、そんなことをしていたら商会は潰れてしまう。貴族と商人は主従関係にない。貴族にとって便利な存在にならなければいけないが、商人は奴隷ではない。
 
 クロトさまは七歳であっても、間違えていない。
 商人を下に見たりしていない。
 こちらが先に見下した形で対応したにもかかわらず、見ないふりという大人の対応をとられた。
 明確に仕切りなおされた上に主導権を持っていかれた。
 あれが貴族だ。
 
「もし、侯爵家お抱えにでもなったら――」
 
 メッツィラ商会はどうなってしまうんだろう。
 私の不安をアロイスは「兄は優秀だから、大丈夫だよ」と馬鹿げた言葉で誤魔化そうとする。
 クズのカッツェロが優秀だとしたらそれは弟に権力を持たせないようにすることぐらいだ。
 徹底してアロイスを商会から遠ざけるように動いている。
 
 アロイスからすれば、それが良い兄に見えるのだろう。ふざけている。
 
 
2019/08/19
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