五
木鳴弘文が「久道(ひさみち)、悪ふざけがすぎる」とオレをにらみつけながら言う。
もちろん久道というのはオレではなくヤる気まんまんになってくれた風紀委員長の兄のことだ。オレに精液をくれるありがたい人。
この状態のオレに言うのではないあたり木鳴弘文は酷い。
見つめ合っているにもかかわらずオレたちの距離は他人だった。
「康介くんが本気なら俺だって本気」
久道さんはお兄ちゃんと呼ばれたい変態であっても軽薄でも軽率でもない。
親切で良い人だからこそ伸ばした手を拒絶しないでくれる。
オレが年下だから、弟のクラスメイトだから、中学からの付き合いがあるから、甘やかしてくれる。
「オレは本気です。センパイとして生徒会役員室をこういったことに使うなと言いたいんですか? 誰も来ないしいいじゃないですか。それにセンパイは言えた義理じゃないでしょ」
木鳴弘文に敬語を使う気持ち悪さ。
今までいくら年下だからわきまえろと言われても他人行儀になるのが嫌でセンパイ扱いなんかしなかった。
他人行儀も何も他人なのを理解していなかった。
「そうだよ。ヒロだって自分の親衛隊とイチャついてたじゃんか!」
「久道と一緒にするな。俺はホモじゃねえ」
吐き捨てると入り口から木鳴弘文が近づいてくる。
身構える間もなくオレは頭を思い切り叩かれた。
暴力的な行動は今に始まったことじゃない。
以前から蹴られたり叩かれたりしていた。
でも、気にならなかった。
そういうコミュニケーションの仕方をする人なんだと思っていたからだ。
周りは叩かれたりしないと言うが、それならそれでオレだけが特別なんだと感じていた。
それは勘違いだ。
木鳴弘文にとってオレは特別でもなんでもなかった。
転校生のことは労わるように優しく触れるのにオレに触れられることを避ける。
手を振り払われたことは何度もある。
人とべたべたするのは嫌いだと言っていた。
それでもめげずにオレは木鳴弘文にくっついて嫌がられ怒鳴られたり叩かれた。
常に拒絶されていたことにも気づけなかった。
今まで耳に入らなかった周囲の声がやっとオレの中に染み込んでいく。
木鳴弘文は自分の気を許している人間とも肩を組んだりしない。
場合によっては握手すらしたがらないような人種。
スキンシップは気持ち悪いのだ。
オレは木鳴弘文が引いた境界線を踏み越えてガンガン近寄って行った。
何を言われても引き下がらずにそばにいた。へばりついていた。
気が進まないと言いながら自分の親衛隊の男と関係を持とうとしたのは邪魔したし、婚約者候補の女と会うのも妨害した。
そのことを特別責められた覚えもない。
呆れたような顔をされたがオレの行動を本気で咎めたりしなかった。
だから、木鳴弘文にとっていい行動をしたのだと思った。思い込んでいた。
木鳴弘文が口に出さない本心をオレだけがわかっていると驕っていた。
オレはずっと傲慢だった。
木鳴弘文にとって特別なのはオレじゃなくて転校生。
年下であるオレが普通に話しかけると最初は敬語を使えとか、どうしてお前はそんなに偉そうなんだとうるさかった。
出会って数年たった今でも時折、口調については舌打ちされるのに転校生は同い年の仲間と同じように普通に話している。
目の前の風紀委員長の兄である木鳴弘文の親友と同じような空気で愛称である「ヒロ」と気軽に呼んでいる。
思い出すだけで不愉快な光景に早くここから消えてしまいたいと願った。願わずにはいられない。こんな悪夢見ていられない。
学校をやめてしまえば会うこともない。
学校をやめるためには妊娠するのが手っ取り早い。
家族に怒られることはないどころか祝福されることだろう。
下鴨は昔から当主を自分たちの子どもに産ませる。
だが、血筋なのか男が生まれやすく女が生まれにくかった。
そして、いつの間にか両性具有の子どもが生まれるようになった。
男の身体に女の膣を持って生まれた下鴨は誰の子でもいいから孕んで次の当主として育てる。
外から嫁をもらうことはもちろんあったがその嫁が産んだ子供は基本的に信用されない。
他の家の血が流れているかもしれないからだ。
生まれた子供が両性具有であった場合にだけ嫁はあたたかく迎えられ貞操を守っていたことを信じられる。
普通の子どもを産んだ嫁は不貞を疑われ最悪、家から追い出される。
血の継承に関して神経質な下鴨ならではとでもいうのか男が産んだ赤ん坊と子が産める身体の作りの赤ん坊以外は下鴨と言ったところで正式には認められていない。
特異な体の作りのはずが一代おきに生まれいるので下鴨からすると男で膣があることは自然だった。
そのためオレは「気持ち悪いっ」と吐き捨てられた言葉が自分に向けられたものだと分からなかった。
久道さんが「そんなこと言うなよぉ」と弱った声を出すのでオレに向けられたのだと気づく。
オレを庇ってくれたのだ。
自分が気持ち悪いと言われても久道さんは笑って受け流す。
でもいつだって木鳴弘文がオレを攻撃してきたら「そういう言い方はダメだって」とフォローしてくれる。
オレはずっと本心から木鳴弘文が言ってるとは思っていなかった。
邪険にしているのはポーズで照れ隠しだとわかっていたから傷つくこともない。
オレが思っていた木鳴弘文の本心などどこにもない。妄想の産物だ。
人とは違うので気持ちが悪いと思う人がいるのは頭のどこかで理解していた。
でも、木鳴弘文に言われるとは思わなかった。
なんだかんだ言っても「仕方がねえな」とか呆れながら受け入れてくれるイメージがあった。
オレを突き放すなんてありないと思っていた。それはオレの勝手な願いだ。現実はこんなものだ。
「久道お兄ちゃん、エッチしましょう」
「その言い方かわいい!!」
テンションが高くなったのかオレを抱きしめようとした久道さんは木鳴弘文に裏拳を叩き込まれた。
無様にひっくり返った自分の親友を無視してオレの服装を整える木鳴弘文はおかしい。
オレに対して容赦ない態度は普通だったが会長時代は愛想がいいとは言われないまでも暴君や暴力的というイメージはなかった。
自分の親友にこんな態度に出るなんてありえない。
転校生が来てからありえないことばかりが起きている。
ケンカは弱くはなくても戦わなくて済むならそれが一番だなんて言っていた。
その木鳴弘文が自分の親友を殴りつける。これは異常事態だ。
お遊びではない本気の拳なのは倒れている久道さんの姿から分かる。張りつめた空気が怖い。
「いい加減にしろ」
制服をきっちり着せられ真っ直ぐ立たされてオレは木鳴弘文に見下ろされた。
中学の時に危ない場所に行くんじゃないと説教された時以来の真剣な表情だ。それになんだか嬉しくなる。
結局、オレを心配して気遣っている。オレが特別なんだ。
転校生と一緒にいるところを思い出すと気持ちが深く沈み込んで木鳴弘文のことなど考えたくなくなる。
それなのに自分が気にされているのだと思うと心が躍る。
この日のために生まれてきたような気がする。
木鳴弘文の視線が自分に向けられていることにときめく。
「俺のことを好きだからってバカなことをするな」
思ってもいない言葉に首をかしげると「気を引くにしても冗談にならねえ」といつものようにオレを見て溜め息を吐いた。
久道さんが倒れたまま「素直じゃないなぁ」と笑うのは以前からよくあることで別にいい。
木鳴弘文に邪険にされたオレに謝ったりフォローをするのは久道さんにとっては日常だ。
いつだってオレの味方側に居てくれる。
優しくてオレに甘いと知っているからこそ妊娠に協力してもらおうと思ったのだ。
聞き逃せないのは木鳴弘文の言葉。
「オレ、別にセンパイのこと好きじゃないです」
好きか嫌いかなんて考えたことがない。
一目見て木鳴弘文は自分のものだと感じた。
下鴨家の人間として絶対に子どもを産まなければならないなら木鳴弘文の子どもだと確信していた。
それは勝手なオレの思い込みで間違いだらけの日々だった。
長々とオレは勘違いし続けていた。
別に木鳴弘文でなくたっていいのだ。
協力的な相手として久道さんがいるのだから構わない。
「もう付きまとったりしないので安心してください」
淡々と吐き出す言葉は他人行儀だ。
木鳴弘文にこんな口調で話しかけるのは自分でも違和感がある。
でも、以前には戻れない。
木鳴弘文はオレのものではなかった。
殺意が滲んだ瞳でオレをにらみつける相手をどうして自分のものだと感じていたのだろう。