番外:下鴨家の人々 「1月31日は愛妻の日:夕飯」
下鴨康介視点。
テレビで一月三十一日は愛妻の日なのだと話していた。
時間と天気予報を見るために夕方のニュースを見ていた。必要な報道というよりは、どうでもいい内容が多い。ただ事前に何時ごろから何を特集するのかお知らせしている番組構成なので、画面を見ていなくても時間を確認しやすい。弘文から連絡があるまでどのぐらいなのか、テレビから流れてくる音を聞きながら把握する。
画面に目を向けると愛妻の日として花屋が花を売りたいからか、奥さんに買って帰れば喜ばれるとセールストークをしていた。奥さんはきっと花より欲しいものがある。そう思うがチャンネルを変えるほどじゃない。
改札から出たすぐの場所にある花屋として、こういったイベントごとは購入するための後押しになるのかもしれない。
オレには関係ないという気分でいたら弘子が「コウちゃん、お花欲しい?」と聞いてきた。
すぐさま、弓鷹が「コウちゃんは興味ないよ」と返す。その通りだが、まったく気にしないわけじゃない。弘文に頼まれてミニトマトは毎年育てている。
弓鷹の言葉を訂正するか悩んでいたところで、愛妻の日としての旦那が早く帰ってくるとか、八時九分を語呂合わせでハグと呼んで抱きしめあうなんていう取り組みにも触れられる。バレンタインデーぐらいにメジャーな日にしたいという意気込みは分かるが、流行らないだろうという気配がひしひしと伝わってくる。
最近、バレンタインデーは告白イベントではなくなってきた。
節分や恵方巻きの特集を見ながらその後に訪れるチョコレートデーを想像する。
好きな人やお世話になった人にチョコレートを渡すのではなく、各店で特別に作られた限定のチョコレートを買ったり食べたりするのが二月十四日だ。オレが学生だった時よりもその傾向は強くなっている気がする。
腐るほどチョコレートをもらいそうな弘文だが、毎年おばあさまと弘子からしか貰っていないと言っている。
たぶんチョコではないものをもらっているのでノーカウントなだけだ。弘文が何も貰わないわけがない。
「コウちゃん、チョコケーキ嫌いだった?」
ジッとデザートを見ていたせいで鈴之介に心配された。一月三十一日はオレに二月のバレンタインデーを想像させてきて複雑な気持ちにさせる。それは、目の前にあるデザートのケーキとは関係ない。クリームのないクラシックなチョコレートケーキ。
フォークで切ってもボロボロと崩れていくわけでもないので食べやすい。
食べやすいとか面倒がないというのは味の感想じゃないのはオレも分かる。
味覚障害ではないはずなのに味の感想を聞かれてもよくわからなくなってしまう。
「康介、お前……無糖の生クリームが欲しいと思ったのか」
横から弘文がオレの皿からケーキをとって食べた。
弘子から「マナー違反っ! 人のをとっちゃダメでしょ!!」と叱られるが弘文は気にせず店員を呼びつけて生クリームを持ってこさせた。
「おいしい」
生クリームをつけて食べると素直に感想が口から出る。
弘文の「あたりだろ」という表情のせいか、一口目で感じた口の中の水分を持っていく感覚がクリームによって緩和されるからか。オレは自分の気持ちがすこし分からなくなったが、店員の表情を見て気づく。
どうやらオレはいつかに感じた、蛇に丸呑みにされるような不快感を覚えていたらしい。
蛇に飲まれて消化される生きたエサ。
弘文と会話する店員や厨房から視線を送っているシェフ。
元々、弘文の知り合いの店なのでオレに対して思うところはありそうだが、学生時代と同じ気持ちの人間もまだ居るのだ。目には見えない圧迫感。昔は全く気にならなかったものから、目を背けたくなる。
自分が弘文にとって必要な人間であるとか、自分が弘文にとって特別だという確信が揺らぐと、途端に威圧され、よくわからないものに負けそうになる。
何かを仕掛けられたわけじゃない。
きっと料理はおいしかった。
何を口にしたのか思い出せないが、家族はみんな満足そうな顔をしている。
嫌なことは不必要なことだから記憶に留まることがない。
いらないものを頭の中に入れたくないので、見なかったことにした。聞かなかったことにするのが、お互いのためだと思った。
オレが頼んだのはコーヒーだと思いながら食後の紅茶を飲み干した。
弘文が会計を済ませて、店員が子供たちのコートを持ってくる。
お店に入る時に弘文がオレのコートを脱がそうとした際に誰かから声をかけられて、そちらに向かった。
すこし肩からズレたコートをそのままで立ち尽くすオレに「コートもひとりでお脱ぎになられないんですね」と囁くように告げてきた店員がいた。乱暴に引っ張るようにコートを脱がされながら「良いご身分ですね」と吐き捨てて、コートを持って去って行った。
そういった扱いが、無礼で嫌なものなのだとすぐに理解することがなかった。
驚いたわけじゃない。言葉を理解する前に忘れてしまったからだ。考えることもなくどうでもいいこととして脇に置いた。他人の気持ちの尻拭いをオレはしたくなかった。
弘文を好きな集団たちに敵意を向けられるよりも前からオレはどうやら他人に嫉妬されていた。
向けられていた感情が嫉妬なのだと気づくこともなくないものとして生活していた。けれど、弘文と会ってわかった。オレが弘文に好かれているからこそ、攻撃的だったりオレの粗探しに躍起になる人間がいる。それは嫉妬しているからだ。自分がオレと比較して弘文から大切にされていないと感じるからこそ、オレに嫉妬する。
そう思うと嫉妬はむしろ居心地がいい気がする。
誰の目から見ても弘文はオレを好きだというのを証明しているのだから気分がいい。
それなのに入店時の言葉に引きずられて、上の空になっているなんて恥ずかしくてバカらしい。
思った以上に弘文から弘文に近寄らない理由が手渡されたことがダメージだったのかもしれない。
捨ててしまったが、弘文がゴミ箱から拾っていた。
弘文がくれたものなのでハンドクリームを使いたい気持ちと、ゴミはゴミとして捨てるべきだという気持ち。
オレに弘文が何を求めているのか分からない。
足元が不安定になる気持ちは一瞬で消えた。
魔法でも何でもない。
弘文のそばにいるといつだって味わうものだ。
オレの中にある名前を付けることなく通り過ぎたいくつもの感情は、やはり不要なものだったのだと実感する。
なぜかオレのコートを持った弘文がお店の外に出て「五秒な」と抱きしめてきた。
入店時の記憶や席順や料理が運ばれてくる順番などの細々とした不満が消える。
距離感はどこにでも転がっているものだけれど、弘文とオレの間で感じたくない。
五秒を超えても抱きしめられていることが、照れくさくて嬉しい。
オレが料理をしたらこんな店に来ないで家の中でゆっくり過ごせたのかもしれないと思うと気合を入れて木鳴のおばあさまに師事したくなる。今までだって真面目だった。でもきっと、今まで以上に頑張ればどうにかなるのかもしれない。
「満足したか」
「弘文は?」
「お前、ときどきエロいよな」
答えになっていない返事に首をかしげたくなるが、コートを着せられ「いくぞ」と手を引かれる。
子供たちはお利口なので、きちんと車の中でシートベルトを着けて待っていた。
比較的、助手席に乗ることが多い弘子が深弘の隣に居た。
お姉さんとして妹の面倒を見たいのだろう。
オレは空いた助手席に乗りながら「よし、ドライブだ」と弘文の肩を叩く。
ふざけるなと一蹴されるかと思ったら弘文は「大丈夫か?」と子供たちに声をかけた。
「三十分以上なら一旦、俺たちを家に送ってから二人で行ったほうがいい」
弓鷹の言葉に鈴之介が「弘子と深弘のお風呂は俺たちでしておくよ」と付け足す。
これで三十分以下のドライブに決まったけれど、三十分も時間をもらえないと思っていたのでガッカリする気持ちにはならない。
ドライブで立ち寄ったお店で弘文に謎の小瓶をもらった。
どうやらエッチなアイテムらしい。
2018/02/05