二
どうするべきなのか答えはすでに出ているの。だというのに俺は逃げられるものなら逃げたい、向き合わずに済むなら向き合いたくないとやり過ごそうとしていた。
豪雨に防波堤が崩れ、濁流に家が押し流されている中で、悠長にベッドの中で眠るという逃避をしようとした。
三十手前で子供のようだ。
どれだけの時間が経ったのか俺の手足は消えていた。
動かないのではなく肘から先、膝から先がなくなっていた。
誰にとられたのか医者から説明を受けなくても分かる。
神様とかそういう目には見えない存在からの罰だ。
感染症で切断が必要になったなんていうのは、現実に生きている神秘を信じない俺みたいな人間を納得させるための辻褄合わせ。
これは俺が俺から逃げようとした罰に違いない。
枕元で泣きながら俺を好きだと言ってくれる釣鐘を無視しているせいだ。
釣鐘が俺に呪いをかけているわけじゃない。
呪いというなら俺が俺自身を呪った。
勉強を教えながら中学生である釣鐘に欲情した。
それはとても罪深い気がしたし、求めていたのが身体なのか心なのか男なのか女なのか分からなかった。
釣鐘の精子で受精したいと思うのは、俺の気持ちなのか妊娠しなければならない役目を帯びた下鴨の身体なのか。
俺はきっと自分に自信がなかった。
下鴨を抜きにした場合のひとりの人間としての魅力も、下鴨を含んだ場合の子供を産む男という意味でも、俺は自信がなかった。
子供を産む目的という、ある意味で下鴨のためという大義名分で釣鐘を汚すことも、ただ好きだから愛し合いたいという欲求に従うことも、俺にはできなかった。
そこに釣鐘にとっての利益が見出せなかった。
『僕も腐っても釣鐘です。下鴨の事情は知っています。センパイは跡取りを産まないといけないんですよね』
妊娠の義務を知って、俺に手を伸ばす釣鐘が信じられなかった。
喜べなかった理由が、義務を背負った俺に同情しているように感じたから、というのは被害妄想がすぎるんだろうか。
それでも、釣鐘自身が釣鐘という家の役目を次男に押しつけたと後悔を口にするので、自分の兄と俺を重ねているのではないのかと邪推してしまう。
三十手前になってから思い返せば、俺を見て、俺を愛してほしい、とワガママなことを思っていたのだ。
誰かと重ねられるのも、同情されるのも我慢ならず、潔癖な処女のように自分だけを見てくれと叫んでいた。
自分の心の声を聞けずにいた俺は、釣鐘と距離をとって終わりにした気になっていた。
年齢が離れていたから勉強を教えるという接点が消えれば、顔を合わせることはない。
「ねぇ、センパイ。僕はもう僕を受け入れてくださいって、頼むのはやめようと思います」
静かな釣鐘の声に胸が張り裂けそうになる。
自分の今の姿がどんなものであるのか想像して、釣鐘の言い分は当たり前だと理解しようとしても泣きたくてたまらない。
涙をこらえるように横を向いて顔を枕に押しあてようとする。
寝返りを打つほど身体は動けない。
指はすでにないから手を伸ばして釣鐘を引き留めることも出来ない。
「僕はこれからセンパイを抱きます」
釣鐘が俺の服を脱がしていく。
火事のやけどが治りきっていない包帯だらけの身体は手と足が欠けている。
「センパイ、気づいてなかったかもしれませんけど……僕はけっこう鍛えて、先輩のことお姫様だっこできるように頑張ったんですよ」
場違いな言葉だと思うのに少し怒っているような釣鐘に「気づいてた」とつい言ってしまう。
三男だからなのか褒められたがりの甘ったれなところが釣鐘にはあった。
テストでいい点をとったら、頭を撫でてほしいと言い出すそんな釣鐘が俺は嫌いじゃなかった。
素直でかわいいと思っていた。
「今はもう随分と体重が変わっちゃったから、センパイの持ち運びが楽すぎますよ」
随分なことを言われながら丸裸にされる。
下半身につけられているのが、下着ではなくおむつなことが当たり前だとしても恥ずかしかった。
顔を隠すことも出来ないし、釣鐘を突き飛ばすことも、この場から逃げることも出来ない。
文字通り手も足も出せない。
「僕に赤ちゃんみたいに持ち上げられても拒否できないんですよ」
そう言って釣鐘は軽々と俺を持ち上げて見せる。
浮遊感は昔に味わった高い高いというやつかもしれないが、物心をついてからは親に抱きかかえられた覚えがないのでわからない。
母は弟たちを抱きかかえて忙しくしていた。
ここまで育ててくれた親に申し訳がないという気持ちに涙が出る。
親孝行をしたいと思っても母はもういない。
下鴨の人間ではない母は俺がイヤなら子供は産まなくていいと味方してくれた。
「義務からは、誰も逃げることはできない……そうかもしれませんね。でも、義務も役目もマイナスに捉える必要はないと僕は思っています」
俺の腹を撫でながら「義務から、家から逃げた僕が何を言ってるんだって思っています?」と釣鐘が自嘲する。
「僕はセンパイと子供を作ります。それはきっと役目を担う兄にはできないことだから。もちろん、兄に対する義理を通すためだけじゃありません。僕がセンパイを好きだから、あなたに僕の子を産んでほしいんです」
腹を撫でていた指が下にすべる。
火事で毛が燃えたのか、治療の際に邪魔だから剃ったのかパイパンな俺の下半身。男性器と女性器の両方を隠すことなく露出していた。
釣鐘が俺を持ち上げて女性器の割れ目をなぞる。
普通なら足があるので見ることができないだろう位置に釣鐘の顔がある。
目を閉じて見ないようにすると自分の呼吸音が大きく感じた。
発情しているような吐息を否定したい。
指が入ってきたときの粘着質な水音に自分の罪深さをあらためて思い知った。
「人間は死にかけると子孫を残そうとするって言うじゃないですか。だから、きっとセンパイは孕みますよ。子供がお腹に出来たら、お父さんや弟さんたちは目が覚めると思います」
今はそれを信じてしまいそうな俺がいる。
信じてしまうというよりも信じたいと思っている。
家族の目覚めを願って身体を釣鐘に差し出すというよりも身体が望んでいるのがわかってしまった。
釣鐘の指が動いても動かなくても愛液をたれながす俺はとても浅ましい。