十三

 人にはこれがなければ死ぬというほどのものがある。
 瞬間的なものであっても熱中していてハマっているときはそれがないと生きていけないと感じてしまう。食べ物でも娯楽でも人間でも欠けたら自分の生活が回らなくなるもの。失ったひびなど考えたくもないもの。

 そういったものが誰にでもある。
 
 瑠璃川水鷹にとっては性的な快楽がきっとそれにあたる。
 なかったら生きていけない生活に密着したもの。
 人間の三大欲求の一つを重視するのはそれほど奇妙なことじゃない。
 素直な水鷹だからこそ納得するところもある。
 
 あの事件の後、すでに一カ月は経つが水鷹は女も男も抱いていない。
 水鷹はあっさりとばっさりとやめてしまった。
 俺のメンタルケアを優先した結果にしては友情に厚すぎる。
 元々、親友という単語をどこか特別視している気はしていたがここまでとは思わなかった。
 俺に気を遣いすぎて水鷹がストレスを溜めたら本末転倒だと探りを入れたが無理をしているわけではないらしい。
 
 真面目なところがある副会長と水鷹は犬猿の仲だと言われることもあったが上手くいっている。
 生徒会の仕事をしているし生活態度が変化したからだ。
 風紀からも褒められた。
 
 誰もが水鷹の変化を俺のせいだと思っている。
 たしかに水鷹に好かれて大切にされている人間として自分の名前を一番に俺は挙げたい。あくまでもそれは希望としてだ。そうであったらいいと思って今まで生きてきた。
 
 それがなければ死ぬというほど重要なものは俺からすると水鷹に嫌われないことだ。
 水鷹自身じゃなく水鷹に飽きられ呆れられ幻滅され見放されるようなことが俺の人生であってはならないことになっていた。
 
 水鷹に俺と同じ気持ちを持ってもらいたいと心の片隅で感じていても表面には出さない。
 思いを伝えて幸せになれるビジョンが浮かばない。時にはもしかしてと思う日もある。同時に友達でしかないとも思う。
 あくまでも友愛の延長線上に俺はいる。
 口先だけの愛の言葉はいくらでも水鷹から聞いていた。
 それが全部冗談だというのは分かっている。
 本人も茶化すし、元々水鷹は女好きで男は代替品だ。
 女要素のない俺を性的に欲しがるとは思えないし、先も見えない。
 
 水鷹の言葉を真に受けて喜べるほど俺は純真じゃないし、水鷹を知らないわけじゃない。
 
 その場のノリを優先して軽口を叩けるのが瑠璃川水鷹であり他人の気持ちは二の次だ。
 誰にどういう風に響く言葉なのかを考えるよりも先に面白さを優先する快楽主義者。
 だから水鷹の評価はその時々で違ってくる。
 場にハマれば「さすが会長」と言われる働きを見せるが言い分をコロコロ変えたり俺に丸投げしたりをして「やっぱり会長に相応しくない」と言われたりもする。
 
 
「藤高には振られ続けたが、結果的によかったよ」
 
 
 前会長に呼び止められて何を言われるのかと思えば水鷹への褒め言葉だった。
 本人に伝えてやればいいものの恐怖の大王として降臨しているせいか素直に声をかけられないらしい。
 
「藤高はおれが藤高のことを好きなの知ってただろ」
「いえ、初耳ですね」
「……まあ、そういうことにしといてやるよ」
「会長を断っていたのはセンパイの下につきたくなかったからじゃありませんよ」
「本当に瑠璃川がふさわしいと思ってたからってわけじゃないだろ」
「結果的に良かったってセンパイ自身が言ったじゃありませんか」
 
 俺の言葉に痛いところを突かれたような顔で頭をかく前会長。
 何が言いたいのかと思ったら転入生の話らしい。
 もうやってきて一カ月以上になるので転入生というのも他人行儀だが他人なので構わないだろう。
 
「おれはもう仕方がないと思って諦めてるが」
「彼に何が出来るっていうんです?」
「次の会長選に立候補だろうな」
「後期の役員は前期の引き継ぎが慣習ですが」
「あってないような選挙に割り込んで引っ掻き回すのは転入生のやりがちなことだろ」
 
 学園のやり方を知らないので動けるのはよそ者だけだ。
 彼を転入生と呼ばなくなるのはこの学園に馴染んでからだろう。
 
「藤高がポーズじゃなくてまるで覚えてないって状態だから気になって調べたんだが」
「惚れ惚れしちゃいます」
「茶化すな。……転入生の言っていることは嘘じゃない。学校は違うようだが近くに住んでいたのは間違いない。本当に覚えていないのか?」
「家の中がごたごたしていた時期のことはちょっと」
「あぁ、なるほど。執拗に山波って口にするのはそれでか。誰も知らないきみを知ってるって言いたいわけだ」
 
 気持ちの悪い解釈だと思ったがその通りかもしれない。
 俺ですら忘れた俺を転入生は覚えている。
 そのことにちょっとした恐怖がある。
 下半身のことを抜いても苦手意識が出るのは昔の名字を呼ばれるせいもあるかもしれない。
 
「迷惑極まりないですね」
「その顔はもうすこし隠しておいた方がいい。きみに愛されたがっている人間たちが動き出してしまうからね」
「親衛隊には俺と水鷹に接触するのを妨害する以上のことはしないように伝達しています」
「だとしても、瑠璃川がきみを独り占めしている現状を腹に据えかねている人間は増えつつある」
 
 水鷹が下半身のだらしなさを前面に出さない状況は真面目になったという好意的な評価が多いが同時に俺とやることをやっていると思われている。
 水鷹が望まないので俺が誰かを用意することはない。
 それは俺を目当てで水鷹の親衛隊に所属している人間たちが俺に抱かれることがなくて鬱憤を溜めていることにもなる。
 俺の役に立って自分の有用性をアピールしたい人間は少なからずいる。
 前会長のセンパイもそういう人間と同じ穴のムジナだとは言わないが俺に対する親切が百パーセントただの善意じゃない。
 
「でも、今の水鷹は」
「おれはいいと思うよ。あくまでおれはね。けれど、人は自分よりも劣った存在に優しいことがままあるから……」

 俺のことを好きな人間からすると水鷹の快楽主義な部分は蔑むべき要素。
 何よりも水鷹の趣味に俺を付き合わせていることを腹立たしく思っている。
 俺に夢を見て理想像が汚されることに拒否感を覚えている人間が極一部だがいる。
 そういう人間たちにとって水鷹は悪だ。
 
 けれど、憎むべき部分、認められない部分、そういうものがあった方が良かったのかもしれない。
 
 水鷹が表面上、俺以外の誰とも何もしていないように見えることで俺のことを好きな人間たちの心の置き場がなくなった。
 下世話で低レベルだと批難されるような言動が減ったことで批判しにくくなったのだ。
 俺の下半身を復活させたと思い込んでいる人間たちは水鷹に対して好意的だし認めている。
 その結果、俺を理由にして水鷹を嫌う人間がマイノリティーとして隅に追いやられる。
 多数派だったことはなくても同志の数が減ったことは彼らの心を刺激する。
 
「水鷹に何もないように親衛隊以外の人間もつけてはいます」
「不満が瑠璃川に行くこと自体は甘んじて受けるべきだろうけど、問題は藤高きみのほうだ」
「俺に何か?」
「不満の矛先が自分に向いた時にきみは対処できるかな」
 
 頭が痛いことを言ってくれる。
 俺はいつも物事の責任を取ったり選択をする前に手を打ってきた。
 自分がしたくないことをしないために全力を傾けていた。
 
「瑠璃川に泥をかぶせて逃げる?」
「それを望んでるみたいな顔してますね」
「珍しいことなんだけど、どうも諦めきれていないらしい」
「自分の感情なのに他人事ですね」
「藤高もそういうところあるだろう。自分の心と距離を置きたがって冷めた態度がくせになってる」
「そういうつもりはありません」
 
 前会長は笑って「そうやって目をそらす。おれも似ていたからわかる」と口にした。
 俺のことを理解できる人間なんかいない。俺ですら俺のことを完全に把握できない。俺が俺を操り切れたら水鷹を好きにはならないし、たとえ好きになってもそれ以上は望まない。身の程をわきまえて距離を取ったに決まっている。
 今の俺は夢の中にいる。
 自分の願望が実現するんじゃないのかという希望の中にいる。
 ありえないと否定し続けながらも水鷹の言葉が親友に向けたものではないのだと思いたい。
 じわじわと水鷹への愛に心が変質する。
 日々いろいろなことに煩わされて疲れた心は見返りが欲しくなる。
 水鷹のために頑張っているという大義名分で水鷹からの愛情をねだりたい。
 実際にはそれをした瞬間に夢から覚めると思っているから出来はしないただの妄想だ。

 俺は俺のことを好きだと言いながら行動を起こした人間を別に好きになったりしない。助けられたことに恩義を覚えないし、感謝をしない。俺を助ける行動を起こすように事前に俺が種を撒いていたからこそなんだから当然の結果だ。
 俺が何一つせずに俺の味方でいたのは水鷹だけかもしれないとそう思う日があるが、水鷹はそれだけじゃない。
 
「藤高はもうすこしだけ自分の愛され方を知っておいた方がいい」
「粘着質な人を引き寄せがち、ということですか」
「正確には違うね。心の中に怪物を飼っている人間に期待を抱かせてしまう」
「……期待ですか。怪物ごと自分を受け入れてくれる相手として?」
「いいや、怪物を飼い慣らしてくれる調教師としてだよ」
 
 目には見えないものを飼い慣らすなんていう芸当を俺が出来るとは思えない。
 
「自分が制御できない自分のことをきみが制御できてしまう。藤高の一言で行動の指針を決める人間が学園内に少なからずいることは知っているだろう? あれはきみの容姿とか才能とか性格とかそういったものではないところに恋焦がれているからだよ」
「容姿や才能や性格ではない場所って家柄とかになりませんか」
「おれはあまりないことだけれど、富士山に対する日本人の感情とかだね。富士がたとえゴミが多いと言われた時期も樹海で人が自殺していると知識があっても、富士山を見ると感慨深いものがある。ただ高い山であるとかそういう問題ではないけれど、感覚的なものはわかりにくいね」
 
 富士山を信仰する気持ちは否定しないが俺と並列で語られるとずいぶんと違和感のある話だ。
 
「人は誰しも穢したくない領域がある。他人に無遠慮に触れられると攻撃的になってしまう」
「誰かにとって俺がそういった存在だったとしてもその人のためにだけ生きられるほど自分がないとは思っていません」
「だからこそのきみなんだよ。強固な自己を持ち合わせているきみだからこそ妥協したり折れたり曲がったりしてくれたらそれはとんでもなく特別なことだ。地位も名誉もこれから先の未来も全部消費してもいいぐらいに幸せなことだよ」
 
 強烈なラブコールを受けているのはたぶん勘違いではない。
 以前から前会長はこういった言動をしていたけれど今日は異様に重い。
 
「きみがいないと死んでしまうとすら思わせる存在なんだと藤高は自己認識を更新した方がいい」
「ありがたい評価ですけれど、さすがに」
「いきすぎだと思っているなら身辺に気を配った方がいいね」
 
 足元をすくわれるとだけ言って前会長は去って行った。
 忠告をしに来たのか脅したかったのか分からない。
 
 ただ確実にこの一カ月で学園の空気は動いている。
 全寮制であることで停滞するような空気があるこの学園において転入生というのはキャッチャーな娯楽であり暇つぶしだ。
 水鷹が行動に出なかったら別の誰かがいじりにいった可能性がある。
 すべては仮定の話になるが水鷹の行動によって多方面から火種として面白おかしいマスコットにされなかっただけ転入生は幸運だったのかもしれない。
 犯されかけたというか実際に水鷹に挿入されてしまったがそのことは気にしていないらしい。はじめてじゃないんだろうか。
 
 転入生の人間性や俺とのかかわり、水鷹の変化とそれにともなう周囲の変化、俺の期待とそれにブレーキをかける理性との攻防。
 単純なようでいて一瞬で解決できるというほど簡単でもない。
 
 一番切り崩しやすい問題は転入生のことであるが対面したくなかった。

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