月が恋しいと 





「傑、いつまでも辛気臭ぇ顔してんなよ」
「…悟」
「元の生活に戻っただけだ。死んだわけじゃない」
「…その元の生活が問題なんだろう」
「なに?お前。あいつのこと好きなわけ?」
「そういう話をしているんじゃない」




 彼女には、まるで感情というものが欠落しているように思えた。その身体は生きていて痛みも苦しみも感じることができるはずなのに、まるで心が死んでしまっているようだった。しかし、根が悪い人間ではないとわかっている。なぜなら、なまえは私のことを何度も救おうとしてくれたからだ。だから、放っておけなかった。ゆっくりと、大切なものを、人のぬくもりを、彼女が取り戻すまで、見ていたかった。少しずつその瞳に光を宿していく彼女を、本当はもっと、傍で見ていたかったんだ。






「傑、禪院家から勝手に連れ出すのは無理だ。なにより、禪院家の屋敷からアイツの呪力を感じなかった。本家とは違う場所にいるか、結界の中にいる可能性が高い」
「ふ、まるで行ってきたような口ぶりだな」
「...たまたま近くに用があっただけだよ」
「となると…正攻法で行くしかないか。悟。これは私も本当は口にしたくもない提案なんだが」
「わかってるよ。ただ、時間がかかる。今回の暴走の件がある。禪院家から引き離したとしても、その代わりになる監視役が必要だしな」





 傑は、「頼んだよ」と小さく呟く。教室に陽が差し込んだ。窓の向こうには、真っ青な夏空が広がっていた。














 ―呪ってやる




 なまえは身を跳ねるようにして起き上がり、格子窓から差し込む陽光に目を細めた。ほとんど寝られない日々の中で、今日がいったい何日なのか、あれからどのくらいの時間が経過したのか、なまえにはわからなくなっていた。布団から起き上がり、壁伝いに一歩ずつ、窓際へと近付く。窓の外へ視線を向けた途端、頭蓋の内側がぐわんと揺れて、その背中がふらついた。なまえの身体が地につく寸前で、直哉の腕がなまえの身体を抱き留める。




「危ないなぁ」




 なまえが力なく「申し訳ございません」と零すと、直哉は彼女の目の下の隈にそっと触れる。なまえはいつかの傑の指先を思い出し、誤魔化すかのように俯いた。




「たまには散歩でも行くか?」
「…」
「屋敷の中やけど」




 なまえが目を見開くと、直哉はその手を引いておもむろに立ち上がらせた。なまえが決して開けることができない特殊な術式が編まれた襖を開けると、曇がかった灰色の空が広がっていた。




「今日は五条家と大事な会合があるらしいで。みぃんな出払ってて、誰もおらん」
「…そう、なんですね」




 手を引かれるまま廊下を歩き、直哉はふと足を止める。そこには色とりどりの紫陽花を咲き誇る小さな庭園があった。雨上がりなのか、紫陽花の葉に雨露が滴っている。




「…綺、麗」




 なまえは直哉に手を引かれるままに、紫陽花が咲き乱れる小道を歩く。温かな風が頬をくすぐり、一歩踏み締めるたびに砂利の音が耳をくすぐった。雨に濡れた紫陽花が、青や紫、桃色、様々な色がキラキラと輝き、なまえの目には、まるで花火の火花のように思えた。いつかの傑や悟、硝子の声が耳に蘇ってくるようで、なまえはそっと目を閉じる。

 次に瞼を開けるとき、あの頃に戻っていたらいいのに。夏の青い空の下で、また、




「…会いたいな」




 はらり、と言葉が口を突いて出た。無意識にこぼれ落ちた自らの言葉に、なまえは目を見開く。




「誰に?」




 低い、低い声だった。ぞわり、と肌が粟立ったなまえは思わず後退りしたが、直哉はなまえの襟元を掴み、強引に顔を寄せる。
 思わず視線を下げれば、雨で濡れた地面に蝉が仰向けに転がり、じじじ、と弱々しく音を鳴らしている。ああ、まだ夏だったのか、となまえは思った。地面に転がって鳴き続けた蝉はしばらくして事切れると、直哉がそれに気が付いてか、蹴飛ばした。ああ、事切れた後のことで良かった、と彼女は思った。



「悟君?」




 それはほとんど囁くようで、なまえがふるふると首を横に振れば、直哉は彼女の手首をぐいと掴んで、まるで引き剥がすように、彼女が装着していた呪具を取り外し、廊下に向かって放り投げる。




「よぉ会いたいなんて言えるなぁ。術式、使ったんやろ。洗脳してオトモダチになってもらったん?よかったなぁ」
「ちが、」
「そんなに此処から出たいんやったら、今ここで、俺に術式使え。簡単や、俺に死ねって命令すればええんやから」
「っ、そんなこと、」
「じゃあ、君に何ができんの?任務でも役に立たへん。君の術式は誰かを助けるためにあるんやない、誰かを殺すためにあるんや」




 ぐ、っと後ろ髪を掴まれ、なまえはその場に引き倒される。直哉はなまえに跨り、「そんなおっかない君のことなんて誰も愛さへんで」と罵るように笑う。




「術式使うてないなら、仲良いフリしてもろてただけやろ?」
「…っ、」
「ほんま、世間知らずでポンコツなんやなぁ。よかったなぁ。現実に気付けて」




 直哉の言葉に、呑み込まれていくようだった。ずるずると引き摺られ、なまえの着ていた水色の着物が泥水で汚れていく。それは、今朝、直哉が選んで着せられたものだった。直哉は泥汚れを気に留める様子もなく、なまえを抱え上げると、そのまま廊下に彼女を投げ出した。
 痛い。泥まみれの腕が視界に入る。視界が滲む。彼女の目尻から流れ落ちた一粒の涙を直哉がぺろりと舐めとると、なまえはびくりと身体を震わせた。そのまま、直哉は首筋や鎖骨に唇を押し当てながら、着物を崩していく。




「…、花…火」
「あ?」
「また、みんなと…花火しようって…神様に、お願いした…っ、」
「だからなんや」
「…あの日々は、嘘なんかじゃ、ない」




 なまえの揺るぎない言葉に、直哉の息が詰まる。




「…この場に及んで神様かい」




 少しだけ間を置いて、直哉は低い声を放った。途端に腕を掴まれ、直哉が着物の襟を乱暴に広げる。剥き出しになった両足に、直哉の手が触れる。その内腿に手を当て、太腿から脹脛にかけて、すぅっと撫でた。




「神様なんておるわけないやろ」
「っ、い…、」
「仲良しごっこが嘘か本当かなんて、ぶっちゃけ、どーでもええねん」
「痛、い…ッ」
「君がここから動けへんようにしたる。やっぱりこの足、無い方がええ」




 ぐぐ、と直哉の手に力が入り、なまえは悲鳴のような声を上げた。直哉には、目の前にいるなまえの悲鳴が、まるで遥か彼方のように聞こえる。




「君のせいやで。君のせいで、俺はこんなことせなあかん」




 息をしていた。冷たい廊下の床にうずくまって、なまえはただ、息だけはしていた。




「はっ、君を泣かすんも、楽やないなぁ」




 柔らかい風がなまえの頬を撫でた。

 真夏の青空を、手を伸ばせば掴めるほどに近く感じていたのに、今ではもう遠く感じる。あれ、あの日、見た空はどんな色をしていたっけ。私なんかを気に掛けてくれたあの人たちは、どんな顔をして笑っていたっけ。直哉さんの言う通りだ。こんな私が、罪を犯した私が、今更誰かのぬくもりを感じることなんて、できっこない。すべてを吐露してしまえば楽になるのかもしれないが、真っ白な彼らに、言えるわけもなかった。




 傑、優しい匂いのするあなたのことが、私、きっと、好き。貴方がいる景色を、この目に焼き付けたかった。私は、初めての恋をした。どんなに直哉さんに触れても、私はあの日に届かない。





 みしり、となまえの両足が歪んだ瞬間、後ろから直哉の腕が、無遠慮に掴まれた。




「久しぶり、なまえ」




 そこには、白い髪色の、上背の大きな男が立っていた。直哉は信じられないものを見るような目で男を見上げ、声を絞り出すように「悟君」と言った。




「悪ぃ。遅くなった。あ、こいつ、俺がもらうから」
「あ゛?」
「正確には五条家のものになったんだよ。だから連れて帰る」
「俺の婚約者やねんから。そう簡単に五条家に渡すわけないやろ」
「もう現当主から許可は貰ってんだよ」




 悟はハッと息を吐くように、「わかんない?お前、頭悪いね」と笑った。




「…歩けねーか。折れてはいないようだけど。よいしょと」




 悟は後ろ頭を掻きながら近づき、なまえを抱き上げる。




「悟、泥が…、」
「それ、いま気にすることかよ。てか俺、無限あるから汚れねぇし」




 悟はなまえの頬についた泥を乱暴に拭い、まるで勝手知ったる様子で、なまえを抱えたまま悟は廊下を歩いていく。直哉は口元に手を押し当て、息を震わせた。




「待て、や」
「…まだ何かあんの?」
「殺したる、二人まとめて、ッ」
「お前ごときが、俺を殺せるはずがないだろ」




 直哉の拳が固く握られ、かすかに震えている。直哉には、自分では制御できないほどに肥大化していたなまえという存在が、すぐそこにあったはずの存在が、手からすり抜けていくことが許せなかった。




「この…カスがぁ…っ!」




 唸るような声が途切れ途切れに聞こえた。しかし、直哉がこれ以上、追いかけてくることはなかった。悟はまるで耳をふさぐようになまえの頭を自身の胸元に寄せ、禪院家の屋敷を出る。




「ただでさえ仲悪いってのに。これで五条家と禪院家の関係は悪化する一方だな」
「…悟、」
「お前、俺の妹ってことにしといたから」
「え?」
「五条家の養子にした」
「ど、ういう、」
「ほらよ、傑。取り返してきてやったぞ」




 屋敷を出ると、呪霊に乗った傑はなまえの姿を見て目を微かに見開いた。




「…やあ、なまえ」
「すぐ、る」
「泥だらけじゃないか」
「ごめんな、さい」
「頬に痣もある」
「…っ、」
「でも…生きていてよかった」




 まるで声を絞り出すように傑は言った。それは、命を落としかけたあの任務で、傑がなまえに告げられなかった、どうしても告げたかった言葉だった。久しぶりに聞いた傑の声に、なまえは胸の奥がぎゅっと絞られるかのような感覚を覚える。




「帰ろう」
「…か、える?」
「ああ。私たちと一緒に帰ろう」




 傑は目を細めて、悟からなまえをもらい受けるように抱き締めた。




「本当によかった」




 傑の肩は、微かに震えているように思えた。身体が包み込まれる感覚に、なまえが傑の背に腕を回せば、「お前らさー、どこか別の場所でやってくれる?」と悟が呆れたように息を吐く。




「感動的再会なんだ。悟は黙っていてくれ」
「は?俺のおかげじゃね?てかそいつ、もう俺の妹なんだけど。お兄ちゃんって呼べよ」
「…」
「おい、無視すんな」
「なまえ、私に掴まっていて」




 傑はなまえの腰に腕を回したまま、もう片方の手でなまえの頭を撫でる。なまえはその温もりに、まるで脱力するように傑の胸元へ倒れこむと、そのまま瞼を閉じる。傑は、腕の中で瞼を閉じるなまえを目に映しながら、この思いの行き着く先、無垢に笑う彼女の姿を想像した。












(2023.12.08)









×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -