夜明けはここにあるのだと



 雲ひとつない快晴ともいえる青空。そんな空とは対照的に、なまえはじっと手にした切符を見つめて俯いていた。




「まさか電車に乗ったことがないとは」
「ごめんなさい」
「いや、謝ることではないよ。少し驚いただけだ」




 任務が終わり、車で迎えに来るはずの補助監督から渋滞で時間がかかると連絡がきた。そこまで遠い距離でもなかったので、傑が電車で帰ろう、と提案したのが始まりだった。これまで禪院家に監禁されていたなまえが電車に乗る機会などあるはずがなく、ICカードは勿論、切符の買い方すら彼女は知らなかったのだ。




「ほら、ここに切符を入れて」




 勢いよく改札に吸い込まれていった切符に、なまえはびくっと肩を跳ね上げたあと、体を硬直させた。そんな彼女の姿が可愛らしく見え、傑の口角が思わず上がる。




「怖くないよ。さぁ、行こうか」
「...うん」




 傑に手を引かれ、人波に揉まれそうになりながら電車に乗り込む。ちょうどふたつ空いた席に座れば、なまえは窓の外から見える景色を遠巻きに眺めていた。ひとつひとつ各駅停車でどこかに止まるたび、降りていく人を見つめる彼女の横顔。その両目には薄らと隈が浮かんでいる。




「隈ができているよ」
「...」
「悩み事でもあるのかい?」
「ううん」
「そうか。まだしばらく電車には乗るから、寝るといい」




 傑はそっとなまえの頭を手のひらで撫で、自分の肩に乗せる。くしゃり、と頭をひと撫でし、どこか名残惜しそうに引いた手はポケットの中へと消える。なまえは大人しく傑の方に頭を乗せたまま、ゆっくりと瞼を閉じた。車窓からは温かな日差しが差し込み、ゆったりとした電車の揺れが彼女に妙な安心感を与えていた。うまく働かなくなっていく頭の片隅で、ふっと力が抜けたように沈黙が流れ、ものの数秒のうちに寝息をたて始める。
 傑は、なまえの生い立ちや高専に来るまでの事は何も知らない。悟が以前「禪院家に囲われていた女」と溢したことはあったが、苗字が禪院ではないことから何かしらの事情があるのだと察してはいた。電車の乗り方も知らない、世間知らずとも言える一面に、どこか確信めいたものすら感じている。彼女は、人ではなく、駒や物として扱われてきたのだと。傑は彼女の目の下の隈をそっと指でなぞり、ただ彼女が良い夢を見れるように願い、腕を組んで目を閉じた。




「傑、」




 そっと肩を叩かれ、傑は目を覚ます。その肩にはまだ彼女の体温が残っており名残り惜しく感じたが、そこが降車駅だと気づくと傑はなまえの手を引いて慌てて電車を降りる。駅のホームを歩いていると、「なーにしてんの」と聞き覚えのある声が弾んだ。




「硝子」
「なまえじゃん。こんなクズと何してんの」
「クズとは心外だな」
「...任務、終わって帰ってきたの」
「じゃあなんかご飯食べに行こうよ」
「私のことは無視か」
「クズはクズじゃん。それよりポテト食べたい気分」




 硝子はまるで傑から奪うかのようになまえの手を取り、ファーストフード店に着くやいなや、ハンバーガーとポテトのセットを頼んだ。なまえはメニューに目を落としながら「同じものを」と呟く。




「夏油はー?」
「じゃあ私はこれで」
「追加でナゲット頼む?みんなで分けようよ」




 硝子は4人掛けの席に着いてこっちこっちと手招きすれば、傑が全員分の飲み物やハンバーガー、ポテトやらを運んできた。




「いただきまーす」
「...」
「なまえ、どうした?まさかハンバーガー食べるの初めて?」




 こくり、と頷いたなまえは硝子の見様見真似でハンバーガーを包みから出し、一口齧り付く。硝子と傑が息を呑んで見守る中、なまえは目を大きく見開き、「美味しい」と息を漏らすように言った。そんな言葉に傑はふっ、と笑う。




「よかったー。ほら、ポテトも食べな」
「...美味しい」
「あんた、本当にどんな生活してきたのよ」

「おーい、俺を仲間外れにしないでくんない?」




 なまえが顔を上げると、そこには不貞腐れたような顔の悟が立っていた。両手をポケットに突っ込んだまま、悟は上から彼女を覗き込むように「ポテト」と一言呟いてサファイア色の瞳を光らせる。なまえがまさに食そうとしていたポテトのことだろう、彼女はポテトをつまんで悟の口元に運んだ。




「ちょっとー。なまえ、私にもちょうだい」
「え、うん」
「こら硝子。なまえが困っているだろう」
「羨ましいくせに」




 そう傑に挑発的な目線を送りながらなまえの手を取ってその指先からポテトを食んだ硝子を、なまえはどこか困惑したような目で見つめるのだった。




「なまえはさ、ここにくる前、何してたの?」
「...婚約者の家に、いた」
「婚約者?なまえって婚約者いたの?」
「うん。たまに依頼された仕事をして、あとはずっと家に」
「依頼じゃなくて、命令の間違いだろ」
「悟」
「なんだよ、傑。事実じゃん。結局、禪院家の言いなりになってただけだろ」
「...それ以外に、私のできることなんてないから」
「そんな無能なら、呪術師なんか辞めちまえよ。」
「悟、いくらなんでも言い過ぎだ」
「五条のせいで飯が不味くなるわー」
「は?なんで俺のせいなんだよ」
「べっつにー」




 なまえは少し間を置いたのち、ふと思い出したように「直哉さんの言うことは絶対だから」と首を横に振った。その声は、どこか震えていた。




「ここは禪院家じゃねぇんだよ」
「...」
「お前の目の前にいるのは俺らだ」
「...え?」
「だーかーら、禪院家のことは忘れろ。いいな?」




 ぽかんとするなまえとは正反対に、硝子は淡い笑みを浮かべて「素直に言えばいいのに」と呟く。悟はなまえの頭に手を置き、くしゃりと撫でた。すると彼女はひとつだけ頷き、きゅっと唇を結んだ。








 初めてだらけの世界。電車で傑の隣に座った時は、どこか胸の中がポカポカとした。私は酷い人間だ。だから、世界は私のことが嫌いだと思っていたけれど、そんなことはなかった。でも、こんな優しい世界なら、知らなかった方が幸せだったのかもしれない。幸せを比べてみても意味など無くて、身勝手な願いだと分かっていながらも、目の前で笑う彼らの幸せを願った。一生、背負っていく私の痛みは、分かち合うことさえ許されない。


 嗚呼。本当はあの日、私の世界が終わってしまえば良かったのに。









(2023.11.21)









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