ここはまるで夜のようだと


「なあ、悟。どう思う?」
「いーじゃん、ベロチューできて」
「悟。私は真面目に」
「はいはい。常識ならお前が教えてやれば?俺よりずっと得意だろ、そーゆーの」




 傑の両目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。どうやら昨日のなまえとの任務での出来事が、彼を悩ませているようだった。そんな傑とは正反対に、悟はいつもと変わりない声色で「だりぃ」と呟く。




「俺、飲み物買ってくるわー」
「悟が私の話をまったく聞く気がないことはよくわかったよ」
「へいへい」




 教室から呼び出して自動販売機へ向かえば、そこには木陰で座り込むなまえの姿があった。その手には炭酸飲料が握られている。




「おい」
「…」
「お前、禪院直哉の婚約者だろ」
「うん」
「聞いたことがあんだよな、禪院家が特異体質の女を婚約者として迎えたってさ」




 「お前だろ」とまっすぐに尋ねれば、どこか霞がかったなまえの瞳はぼんやりと悟を捉えていた。悟が指摘した通り、みょうじなまえはその稀有な術式から、禪院直哉の婚約者として禪院家に迎えられ、長く監禁されてきた。実の両親と引き離され、禪院家では虐待ともいえるような「教育」を受け、今、ここに立っていた。どのような教育が行われていたのか、悟は知らない。しかし、あの禪院家がやることだ。想像はついた。徹底的に調教され、道具として扱われてきたに違いなかった。
 その細い青白い腕で、いったいどんなことを命令され、どれだけ心を殺してきたのか、悟は少しだけ想像をして考えるのを辞めた。同情しても意味はない、今重要なのはみょうじなまえという女が悟たちに危害を及ぼすかどうかの判断だ。




「お前、ここに何しに来た」




 悟はなまえの隣に腰掛けると、彼女が片手に持っていた炭酸飲料を手に取り、まるで奪い取るかのように飲み干す。




「...言えない」
「あっそ。お前の術式、呪霊だけじゃなく人間も対象なんだってな」
「うん」
「俺にやってみろよ」
「...キスだけなら、たいしたことはできないから安心して」



 なまえは顔を上げ、悟の横顔を見る。




「五条君は、甘いものは好き?」




 なまえは隣に座る悟の顔を覗き込むようにして視線を合わせ、悟の頬に触れ、唇を押し重ねる。十代の少女とは思えぬほど大人びた表情を浮かべ、角度を変えながら何度も交わし、互いの口が少し開いたところで舌が混じり合った。
 舌が絡み、次第に悟の口内で唾液が混ざり合う度に、身体が痺れていくような、そんな感覚が悟を支配していた。なまえは、悟の少し汗ばむ首筋に触れ、白く柔らかな髪を撫でる。そうして、唇を離して少しだけ距離をとれば、互いの舌先から透明の糸が引いた。




 その真っ青なサファイア色の瞳に吸い込まれそうだと、なまえは思った。悟の唇が微かに動き、その口内にはまるで生クリームとカスタードクリームを口いっぱいに頬張ったかのような甘い味が広がっている。「なるほどね」と悟はなまえから身体を離し、すっと立ち上がった。同時に、悟は彼女の術式を理解していた。
 彼女の説明通り、いくら悪意があったとしても、唾液程度の交換ではそう大したことはできないだろう。ただし、あくまで唾液の交換であれば、だ。




「お前が少しでも悪意をもって俺のまわりの人間に手を出したら、」
「…」
「その時は、俺がお前を殺すから」




 蝉の鳴く声が聞こえる。悟の言葉に頷いたなまえを横目で見やりながら、悟は踵を返す。もう授業は始まっている時間だ。なまえもゆっくりと立ち上がり、その背中に声を掛けた。




「必ず、殺してね」




 悟は振り返り、「ああ」と言った。なまえはその言葉をまるで噛み締めるように唇をきゅっと結ぶ。なまえの方へ視線をやった悟は、そこにある表情に戸惑った。その瞳は、まるで悟に殺されることを望んでいるかのように、恐れか、それとも悲しみか、まるで何かを懇願するような色をしていた。五条君、と振り絞るようにして呟いたなまえの姿が、なぜか、悟の脳裏から離れなかった。











「だりー。てか、お前のせいじゃん」




 悟は夏が嫌いだ。ただでさえ暑くて不愉快なのに、任務先は古ぼけた建物ばかりでクーラーなど効いているはずもない。悟はチッと舌を打ち、気を紛らわせるように足元の小石を蹴った。先日のやり取りで授業に遅れた悟となまえは、その反省とでもいうように2人での任務を夜蛾に依頼され、とある廃病院に来ていた。普段は傑が面倒を見ていたから、話すことも特にない。禪院家がこれまで秘匿していたはずの女が何故今さら高専に通い始めたのか、悟はいくつかの可能性を想像しては、馬鹿馬鹿しくなり、考えるのを辞めた。






「私、いくね」




 なまえは使役する呪霊を顕現し、ふぅっと息を吐く。女の姿をした呪霊。1級か特級相当だろうが、まだそこまでの実力ではないはずの彼女がどのようにこの呪霊を使役するに至ったのかは、御三家の事情をよく知る悟には容易に想像ができた。
 禪院家が手を貸して強力な呪霊を与えるわけがない、何故なら、一度強大な力を持てば、その駒は敵として排除されるからだ。使役する呪霊からなまえの呪力の巡りを感じたことから、悟はとある仮説を立てる。彼女は自身であの呪霊を育てたのではないか、という仮説だ。いや、育てるという概念ではなく、呪いを強くすることならできるのかもしれない。なにより、彼女の術式の根源は支配と操作だ。




 しかし、それは彼女の危険性も同時に指し示していた。身に余る才能はその身を滅ぼす。力を求めてあの呪いを強力なものにしたのであれば、その代償と、彼女の支配権から脱した際の末路は見えている。そうやって悟がぼうっと考え事している合間に、なまえはあっさりと対象の呪霊を祓い終わっていた。
 彼女の方に視線を向けると、割れた窓ガラスで怪我をしたのか、その腕には切り傷が浮かび、じわじわと赤く染まっている。




「鈍間。なにやってんだよ」
「ごめん、なさい」
「とりあえず上着脱げ」




 悟は止血をするため彼女の赤く染まったワイシャツを捲ろうとしたが、なまえは少し罰が悪そうに眉を下げて腕を引っ込めた。「なんだよ」と眉根を寄せる悟に対し、「自分でできるから」と彼女は唇を噛む。




「止血、片手じゃできねぇだろ。貸せよ」




 悟はなまえが手にしていたタオルを奪うように掴み、ガラスで切れてしまっているワイシャツの袖をビリリ、と破った。持っていたペットボトルの水を掛け、慣れた手つきでタオルを巻いて止血する。そのとき、なまえの腕に残る不自然なほどの注射痕と、まるで、何度も切開されたかのような切り傷の跡が目に入る。彼女はひゅ、っと息を呑んだ。




「なんだ、これ」




 低く深く響いた声。なまえはまるで台本の台詞を読むかのように、感情のこもらない、ぼんやりした声で「自分でやったの」と答えた。それは、明らかな嘘だった。なにより、いま悟が暴いたのは彼女の利き手だし、まるで薬物の投与や、何度も同じ個所から血液を採取されていたような傷跡は、到底自傷したとは考えにくい。なまえの術式は対人間のトリガーは体液だ。それはつまり、彼女の術式を悪用しようとする奴等からみれば、彼女の唾液や血液は利用価値のある産物になるということだ。
 悟はまるでその価値を確かめるかのように、なまえの腕に唇をつけ、傷口をちろりと舌で舐めとる。そんな悟から逃げるように、なまえは腕を引っ込め、「だめ、危ないよ」と横に首を振った。予想外の言葉に悟はふっと笑い声を漏らし、「チャンスの間違いじゃね?」と言った。




「お前、どうせ禪院家から命令されて来たんだろ」
「...私の呪力では、どうせあなたのことは支配できない」
「なぁ、お前さ」




 何かを確信したかのように、悟の青い瞳がなまえを捉え、彼女の体がぴくりと跳ねた。




「禪院家で何されてきた」
「...」
「お前、」
「やめて」




 なまえは悟の言葉を遮るように立ち上がると、少し気まずそうに唇を結び、「これ以上はだめ」と息を漏らすように呟いた。それは体の奥底を冷やすような声色で、次第に力を無くしていくその声には懇願するような色が滲んでいた。




「...硝子にみてもらえ」
「ううん。このままで、いいの」
「あっそ」
「本当は、誰にも見せたくない」




 悟は頭の中で渦巻いていた様々な言葉を呑み込む。何かが込み上げてくる。怒りにも似た感情だった。呆れるほど正義感の強い傑がこの事実を知れば、きっと。




「…隠したいんだったら、もっとちゃんと隠せ」
「だって、五条君が急に長袖を破るから」
「俺のせいかよ」
「うん」
「その五条君っての、気持ち悪ぃからやめてくんね?」




 悟はなまえの頭に手を置き、くしゃりと撫でた。彼女はそっと頷く。その細く小さな身体に刻まれた痛みが、負ってきた傷が、早く薄くなって見えなくなってしまえばいいのに。なぜだか悟は、そう思った。










(2023.11.17)









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