夜はまだ来ないのかと


 それは、うだるような真夏の日だった。悟と傑が宿舎から教室へ向かっていると、青空の下、木の陰から一人の女子生徒が現れた。黒髪が風に揺れて緩やかに波立っている。その女子生徒はゆっくりと足を止め、膝を折り、地面の何かを見つめていた。




「傑。あれ、なに?」
「さあ。君、どうかしたのかい」




 制服を着ているから高専の生徒なのだろうか。傑が声を掛けたその女子生徒の視線の先には蝉の死体が転がっている。どうやら蟻に運ばれている最中のようだった。彼女は傑の呼びかけに、ゆっくりと顔をあげる。整った顔立ちに似つかず、その目は異様に冷たい。思わず、傑は息を止めた。その目の下にはうっすらと隈ができていて、肌はこれまで1度も陽の光を浴びたことがないかのように、白さを通り越して青くすら見えた。




「蝉が、蟻に運ばれていたので」




 その女子生徒はまるで囁くように呟いて、その視線を足元に移した。その目には何が見えているのか。雲一つない晴れやかな青空の下、彼女の目はまるで一切の光を映していない。




「お前」
「悟、知り合いか?」
「…いや」
「悟、傑。ちょうどよかった」
「先生」
「新入生だよ。みょうじなまえ、お前たちと同じ学年だよ」
「はぁ?こんな時期に?」
「教室まで案内してやってくれ」
「めんどくせー」
「悟」




 傑が窘めるかのように悟の名を呼べば、悟は不服そうに彼女を一瞥したのち、「根暗な女」と声をあげてポケットに手を突っ込む。




「みょうじ、さん?行こうか。彼のことは気にしなくていい」
「…ありがとうございます」
「何してんの。ナンパ?」
「硝子。こんな真夏の朝っぱらからそんなことすると思うかい?」
「誰?」
「新入生。私たちと同じ学年だと」




 ひらひらと手を振る硝子に、なまえはぎこちなく手を振り返した。硝子は唇の端を緩ませ「ふーん。よろしくー」と喉を鳴らした。こうして、4人の生活が始まったのだ。




 彼女は優秀だった。呪力の扱いも術式も悟たちと遜色なく、常に煽って他人に絡む悟も彼女に対しては「からかう」という行為をしなかった。むしろ、何故か悟はなまえを避けているようだ。





「傑、なまえの術式は知っているか」




 彼女が入学して数週間が経ったある日、傑となまえは夜蛾に呼び出された。




「随分強力な呪霊を操っているのを見たことはありますが」
「そうだ。なまえ、見せてやれ」
「はい」




 彼女は頷くと、禍々しい呪霊を呼びつける。1級程度には相当するであろう、いや、それ以上、特級クラスかもしれない。傑は改めて感じたその呪力に、不意打ちを食らったように目を丸くした。




「なまえは呪力を与えることで、呪霊を従えることができる。ただし、こうやって自由に使役することができるのは1体のみ。お前のように複数の呪霊を格納することはできない」
「つまり、私が取り込んでいる呪霊も、彼女であれば使役できると」
「そうだ。なまえの呪力が尽きない限り、な。なまえの術式は傑と相性がいい。しばらく任務は2人であたってくれ」
「わかりました。なまえ、よろしく」
「…うん、よろしく」





 彼女はあまり自分からは話さなかったが、よそよそしい敬語から、よそよそしいタメ口へと変化したのがつい最近だ。彼女との時間は傑にとって悪いものではなかった。初任務はあっけなく危うげもなく終わり、試しに傑の使役する呪霊を複数なまえに操らせてみたが特段問題はなく、なまえも複数体の呪霊を使役できる程度の呪力量を持ち合わせているようだ。
 廃墟の片隅で、いつものように祓った呪霊を飲み込んだ。いつまで経っても慣れない、吐しゃ物を飲み込んでいるかのような気持ち悪さに、思わず傑は眉根を寄せる。




「気持ち、悪いの?」




 彼女から声を掛けられるとは思っていなかったので、呪霊を飲み込んだ気持ち悪さよりも、なまえに話しかけられた驚きが勝った。目を丸くして動かなくなった傑に一歩近づき、なまえは「気持ち悪いの?」ともう一度確認した。




「…あぁ、呪霊を取り込むときはいつもこうなんだ。慣れているから大丈夫だよ、ありがとう」
「傑」




 ふいに名前を呼ばれたことに意識が向いたその瞬間、なまえは傑に唇を重ねた。え、と呆気に取られている傑に構うことなく、なまえは舌を差し入れ、傑の首に腕を回した。傑は割って入ってきた舌に驚きなまえの身体を引き離そうとしたが、その細くて今にも壊れてしまいそうな彼女の身体を掴んで引き離すことすら躊躇ってしまう。互いの口端から漏れる吐息。口づけを繰り返し、やっと唇を離せば、なまえの唇から唾液が蜘蛛の糸のように垂れた。




「…気持ち悪いの、治った?」
「…は?」




 なまえは傑を見据えたまま「気持ち悪くないように、精神を操作したの」と、囁く。その声はどこか弾んでいるようだった。




「君が、いったい何を言っているのか、理解できない」




 傑の問いかけに、なまえは首を傾げて、じっと傑を見つめる。そうして手の甲で唇の唾液を拭い、「私の術式」と言葉を漏らした。




「私の術式は、私自身が対価になるの」
「…君が操作できるのは呪霊だけかと思っていたが」
「人間も対象だよ。呪霊には呪力が、人間には私の体液が対価になる」
「体液?」
「それで、傑に唾液を、」
「わかったわかった、もういい…今は説明しないでくれ」




 そういえば、あの独特の気持ち悪さはスッキリと消え去っていた。これが彼女の能力によるものなのか、単純に突然唇を奪われたことに対する反動なのか傑には判別が付かなかったが、「治ったよ」といえば、なまえはわずかに柔らかく目を細め、どこか照れたように唇を結んだ。そんな表情を見たのは初めてで、傑は思わずなまえから目を逸らす。




「なまえ、ありがとう。ただ、もうこんなやり方で私を助けないでくれ」




 またもや首を傾げる彼女に、傑は溜息をひとつ吐く。年頃の男女が唇を重ねるということが一体どういうことなのか、なまえを諭そうにもどう説明すべきかを躊躇っていた。彼女と唇を、しかも深い口づけを交わしてしまった事実と、開示された彼女の術式とで、処理すべき内容が多すぎて頭が追い付かない。




「そう簡単に男にキスをしては駄目だ」
「...どうして?」




 それはほとんど囁くような、低い、低い声だった。まるで何かに絶望したような声色だ。彼女はふと視線を地面に落としたかと思うと、「わかった、じゃあこうした方がよかったんだね」と地面に落ちていたガラスの破片を手に取って、その細い指に当て、ぷつりと赤い雫を垂らす。




「何を、」




 傑はなまえの細い手首を掴み、ぐっと引いた。




「唾液でなくて血液なら」
「なまえ、私のために君を犠牲にしないでくれ、と私は言っているんだ」
「…」
「私は君に、私を助けるために傷をつけてほしくない」
「いまさら」




 なまえは悲しいくらい平気な顔で、その言葉を切った。文脈から察するに、きっと、「傷付くことなんて今更どうでもいい」とでも言いかけたのだろう。先ほどの彼女の行為は、彼女なりの善意なのだ。
 どのような形であれ、呪霊や人間を操ることができる力は誰しもが喉から手が出るほど欲しいだろう。あの年齢で、あれだけの術式や呪力のコントロールができているにも拘わらず、これまで術師として表舞台に出ていなかったことも、傑は引っ掛かっていた。躊躇いもなく、まるで転んだ子どもに持ち合わせの絆創膏を貼ってあげるかのように、深い口づけをし、指をガラスで切りつけるその行動が、彼女がこれまでどのような生活を強いられてきたのか、その術式をどのように利用されてきたのかを表しているようだった。




 あの気怠い真夏の空の下、何を考えて、彼女は蝉の死体を見つめていたのか。傑は、初めてなまえの本質に、その輪郭に、触れてしまったのだと思った。




「...どうせ、減っていく一方の生命だから」




 もうきっと手遅れなのだ。一度染みついたものを簡単に拭い消せるほど、生まれ育った環境での教えというものは浅いものではない。色濃く人間を支配してしまう。
 ありきたりな言葉を与えたかったわけではない。ただ、すべてを諦めてしまった彼女の笑顔の理由になりたいと傑は思った。



 彼女を傷つけてきた愚かな世界なら、全てを壊してしまいたい。そんなことを考えながら、傑は俯いた彼女の柔らかな髪を撫でる。そうすると、なまえは少し罰が悪そうに眉根を寄せるのだった。









(2023.11.06)




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