これが世界だと


 彼女を連れ戻しに禪院家へ悟と向かったあの日。悟に抱きかかえられた彼女からは、血と土の匂いがした。幼子のように見えたほど、その身体は小さく痩せ細り、頬には殴られたような青痣、首筋には赤く鬱血した跡が残されている。こんなものが、愛であってたまるか。その歪んだ欲情に吐き気がした。同時に、家族、友人、恋人、何の不自由もなく愛を知り、育ったことは、たいそう贅沢なことだったのだと、初めて知った。
 それから私は、朝から晩まで、できる限り彼女の傍にいた。そうすることで、本来彼女が愛し愛されるはずだった日々を取り戻せるのではないかと、そんな淡い期待を抱きながら。そんなこと、できやしないと頭の中では理解している。もう過去の彼女には、家族から愛されることも、婚約者に愛されることも、できやしない。そして、今、腕の中で震える彼女を泣かせたのは、他でもない、私だ。








「傑、あとはよろしく」
「ああ…」
「冷静になれよ、お前らしくない」
「…わかってるよ、悟」




 額を胸に押し当てて「ごめんなさい」と謝るなまえを抱いて、傑は一歩、また一歩と夜道を歩いていく。なまえが任務から帰ってこないことを心配していた傑は、直哉の呪力を察知した悟の後を追って此処まで来た。その時、傑は見てしまったのだ。月明かりに照らされる金色の髪。その男の腕に抱かれ、唇を重ねるなまえを。瞼の裏に蘇ってくる光景に、傑は思わず唇をきつく結ぶ。




「君は悪くない。ただの…私の、嫉妬なんだ」




 まるで感情が堰を切って流れ出てしまいそうになり、傑は口をつぐんだ。階段を上りきったところで腕に抱いていた彼女を降ろし、そっと頭を撫でる。

 あの日、悟に抱きかかえられて禪院家から出てきた彼女の首筋。今と同じように、赤く鬱血した跡が残されていた。それを見たとき、私は彼女が無事に戻ってきた安心感と同時に、心の中で別の感情が渦巻いていたのだ。なまえと過ごしていると、傑はどう言い表したらいいのかわからない感情に出会うことがある。その感情の根源はいったいどこからくるのか、その感情がいったい何なのか、その時の自分では分からなかった。いや、分かろうともしなかった。でも、今は、今なら、はっきりと分かる。




「…君は、あの禪院直哉という男が…好きかい?」




 声が震える。体の中で何かが蠢いている。生きてほしい、笑ってほしいと、幸せであってほしいと、ただそれだけを願っていたはずなのに。傑はまるで何かをこらえるような表情で、眉間に皺を寄せた。




「私、は…」
「いや、いい。忘れてくれ」
「…傑、私はね、酷い、醜い人間なの」
「…」
「だから、直哉さんに与えられる痛みも、苦しみも、悲しみも、全部、私への罰だって思って受け入れてきた」
「なまえ、」

「私ね、自分の母親を、殺したの」







 そうして紡がれた彼女の過去に、傑は瞬きも呼吸も、何もかも忘れてしまった。











 知らない君がそこにいた。触れさえすれば心を覗けるなんて、愚かな思い違いをしていた自分を恥じた。もしも過去に戻れるのならば、私が、君を傷つけさせやしないのに。そんなことできやしないと、神なんて世界なんて、彼女には何の役にも立ちやしないと、分かっているのに、君のことを想わずにはいられなかった。今さら喚いても取返しのつかないことくらい、分かっているのに。
 彼女にとって禪院直哉という存在は、きっと途方もなく大きなものなのだろう。例えそれが、一般的な幸せとはかけ離れていたとしても、依存関係にあったことは確かだった。私は、それにすら嫉妬していた。なんて小さな器の男だ。どうして、私が君を愛するのと同じくらい、神も、この世界も、君を愛してはくれなかったのだろう。




「結局、私は…君に何もしてあげられなかったな」
「そんなこと、」




 すまない、と絞りだした傑の声が、夜の空気に溶けて消えていく。傑は胸の奥底から込み上げてくるものを飲み込むように息を深く吸う。なまえは今にも零れ落ちんばかりの涙を浮かべ、瞳を震わせながら、まっすぐに傑を捉えた。




「傑」




 それは、意外にも迷いのない声色だった。




「何もしてあげられなかったなんて、言わないで、」




 なまえの手は、微かに震えている。これまで彼女には、生きる希望も、生きる目的もなかった。禪院家の命令がなければ自らの意思で命を絶つことすら許されない。呪術高専東京校へ通うよう、禪院家からの命令を受けたとき、彼女は、心の奥で五条悟に殺されることを望んでいた。最強と呼ばれる彼であれば、きっと自分を殺してくれるに違いない。水に沈むように、静かに、安らかな眠りにつきたい、と彼女は思った。
 ぬくもり、と呼ばれるものに憧れた。生きたい、と思えるような、そんな未来に憧れた。そして、それはどちらも、傑がなまえに与えてくれたものだ。禪院家に再び監禁された夜、なまえが声を殺して呼んだのは傑の名前だった。なまえの声が震え、その目からひとつ、またひとつと、涙が零れ落ちていく。




「私には今まで、ずっと、生きる意味なんてなかった。でも…もう、違う」




 今、この手を掴まなければ、きっと後悔するとなまえは思った。自分の意思を伝えることは慣れていなかったが、ひとつひとつ、言葉を紡いでいく。




「傑と初めて電車に乗った時、私、初めて、心がポカポカした。誰かの温もりがあたたかいってこと、傑が私に教えてくれた。明日に、未来に、傑がいてくれることで、景色がこんなに綺麗なんだって…。傑と一緒だから、私、生きていたいと、思えたの」




 声も、指も、もう震えてはいなかった。そうして、傑の頬に、なまえの指先の温もりが触れる。傑の肩がぴくりと動いた。




「私の生きる理由は、貴方なの、傑」




 傑はその腕に彼女を抱き寄せ、その髪をさらさらと指で掬い上げる。頬を撫で、唇に触れる。そこで、ふと手を止め、まるでこれ以上の言葉を塞ぐかのように、ゆっくりとなまえに顔を寄せて、口づけをした。




「すぐ、る」
「ん?」
「私の…術式、怖くないの?」
「そんな心配しなくていい。それに、君になら篭絡されても構わないさ」




 傑はなまえの顎を掬うように上へあげると、再び唇を押し重ねた。呼吸の合間に漏れる吐息が濡れていく。幸せ、と目を瞑るなまえの額に唇を寄せた。どこまでも深く染み渡っていく熱は、憂いも、妬みも、悲しみも、まるですべてを優しく溶かしていくようだった。


















 春。一歩外へ出れば、外は数多の草木と花を織り交ぜた香りに溢れていた。道の端に植わる何本もの桜木からは、風に揺れる度に桃色の花びらが舞い、青空を背にちらちらと煌めいている。咲き乱れる花の中、傑の頭に花びらが乗っているのを見て、なまえは笑みを浮かべる。




「傑、可愛い」
「笑ってないで取ってくれ」




 少し背伸びをしたなまえに、傑は少し膝を折って高さを合わせる。傑は、花びらを撫でる彼女の指に触れ、その指先に口づけた。此処に在る幸福は、もう誰にも奪わせない。あの頃は想像もしていなかった。すべてを失った先に、こんなにも尊い今があったことを。




「君がこれまで奪われた分だけ、いやそれ以上に、君を、幸せにする」




 君の生きる理由になれるのであれば、私も生きよう。君が望むなら、その目を向けた先で、私は笑っていよう。たくさんの喜びと、たくさんの大切な思い出に囲まれて。そしてどうか、私を愛するのと同じくらい、君がこの世界のことも、愛せますように。







 咲き乱れる花の中、君と駆ける、笑う、涙が溢れる
















(2024.03.28 完結)




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