真実はここにあるのだと


「わ、待って」
「鈍くせぇな。早く来いよ」
「五条。お前と違って浴衣は歩きにくいんだよ、カスが。ほらなまえ、ゆっくりでいいから」




 なまえは硝子の手を取って、人波を縫うように足を踏み出す。近所で花火大会があるらしい、と硝子に誘われたのはつい一週間前のこと。赤や桃色の提灯が夜道を飾り、その鮮やかな光景に、なまえはきょろきょろと回りを見まわす。
 なまえが五条家に引き取られてから1年が経とうとしていた。




「こっちこっち」




 先に会場へ入っていた傑が、レジャーシートの上で座り込んで、こちらへ手を振っている。悟は腕いっぱいに焼きそばやイカ焼きを買い込み、気怠そうな態度とは対照的にその目はキラキラと弾んでいるようだった。傑はポンポン、と隣へ座るようになまえを促す。




「なまえ、浴衣姿、似合っている」




 促されるまま隣に座ったなまえを眺め、傑は目を細めた。なまえは少し照れたように小さく頷くと、傑は「とても可愛いよ」とまるで諭すように囁き、そっと彼女の頬に触れる。なまえはそんな傑の一挙手一投足に、胸がどくん、と鳴るのを感じて息を呑んだ。




「ここでイチャイチャすんなよ、オッエー」
「…悟、邪魔しないでくれないか」
「はいはい。仲良く飯でも食いな。なまえ、焼きそば食べる?」
「ありがとう、硝子」




 会場の照明が落とされ、真っ暗な夜空に一筋の光が昇っていく。大きな音ともに弾けると、手を伸ばせば届きそうなくらい大きな光の粒がキラキラと舞う。




「わぁ、なまえ、見て!ハートマークだ」
「…綺麗」
「初めての打ち上げ花火はどうだい?」
「すごい、大きい。見れて、よかった。みんなで」
「…ああ。そうだね」




 傑は手を伸ばし、なまえの頭を撫でた。滲んだ視界に、花火がゆらゆらと揺らめく。まるで蓋をしていたなまえの感情が花火とともに弾け散るように、ぽたり、となまえの瞳から涙がこぼれ落ちていく。




「なまえ、」
「夏油!なまえに何したの?」
「私は、何も」
「なに泣いてんだよ、余計ブスになるぞ」
「悟。なまえは可愛い」
「ここで突っかかってくんなよ、傑…」
「…こんな綺麗なもの、はじめて、見た」




 振り絞るようにそう言ったなまえは、硝子に促されるまま、焼きそばを口に運んで「美味しい」と笑った。どんなに望んでも手に入らなかったものが、今、ここにある。なまえはそう思った。禪院家での日々を、母親のことを、自らの術式のことを、忘れることなどない。しかし、硝子や悟、傑が掛けてくれた言葉、与えてくれた温もりが、本来在るはずのない日々を、未来を、与えてくれたのだ。




「なまえの人生はなまえのものだ。もう誰にも奪わせたりしないよ」




 肩を震わせるなまえを、傑が抱き寄せる。その全身から溶け込むような温もりに、なまえは傑の胸に顔を押し付け、その大きな背中に腕を回す。




「傑、好き」
「…え?」
「硝子も、悟も、みんな、大好き」
「あー。そういうことか」
「夏油、ドンマイ」
「まあ、なまえが好意を伝えてくれただけで一歩前進かな」




 傑はなまえの頭を撫でながら、どこか諦めに似た笑みを浮かべて笑った。












 その日、なまえは単独任務を終え、深夜にようやく高専に戻ってきたところだった。補助監督の車から降り、高専の敷地に足を踏み入れようとしたその時、




「なまえ」




 突如として落ちてきた聞き覚えのある低い声に、なまえは一歩、二歩と後ろへ下がった。振り返るとそこには、いるはずのない直哉が笑みを浮かべて立っていた。




「久しぶりやなぁ」




 地面には蝉が仰向けに転がり、じじじ、と弱々しく命を鳴らしている。それは、最後に直哉と過ごした、あの日と同じだ。息が止まりそうだと、なまえはうまく働かなくなった頭の片隅でそう思った。




 「…あ、」




 視界が揺らぎ、なまえは思わずその場にうずくまった。ザラリ、と石畳が指の先を冷やしていく。頭が痛む。まるで頭の中に蟲が沸いて蠢いているような、じくじくとした痛みが広がっていく。すると、直哉はゆっくりと近寄り、なまえの様子を見て薄い唇を歪ませるように口の端を上げた。




「具合悪いん?連れて帰ったろか、禪院家に」




 揺らめく視界を上にあげれば、直哉の金色の髪が月明かりを浴びて淡く光っている。直哉はなまえの視線を合わせるかのように屈むと、その頬にそっと触れた。




「冗談やて。誰がお前みたいなクソ女、連れて帰らなあかんねん」




 なまえの身体は小刻みに震えるが、直哉から目を離すことはできない。ただそっと触れたその指先に、禪院家での思い出が、まざまざと蘇るかのようだった。痛み、苦しみ、血、痣、呪い、月、紫陽花、金平糖、水色の着物。地面に転がって鳴き続けた蝉は、遂には隣で事切れたかのように静かになった。




「…どう、して」




 なまえはか細い声で呟くと、直哉はハッと息を漏らして笑った。




「俺は君を殺しに来てんねんで」




 なまえの唇はふるふると震え、その震えをまるで抑えようとするかのように唇を結び合わせる。この場を離れるべきであることは理解しているものの、足がすくんで動かない。




「そんなに俺のことが怖いんか?元婚約者やのに」




 月明かりだけが、なまえと直哉を照らす。




「可哀想な女。君はどこにおっても、幸せになんかなれへん」




 まるで幼子をあやすように、直哉の手がなまえの頭をそっと撫で、そしてなまえの唇に熱が落ちた。




「ッ、や、」
「抵抗なんて、できるようになったんや」
「…っ」
「でも、力では勝てへんよ。残念やったなぁ」




 直哉はなまえの胸ぐらを掴むと強引に顔を引き寄せ、唇を深く重ね合わせた。なまえは咄嗟に身体を離そうと力の限り直哉の胸を押し返すが、直哉は一層強い力でなまえを抱き寄せる。
 直哉の唇が首筋から鎖骨のくぼみに押し当てられた。首筋を這う感触に、なまえは思わず声が漏れそうになる。小さな痛みがなまえの首筋にじわりと広がり、直哉の跡が付けられていく。




「…ほら、術式使うチャンスやで」
「っ、」
「俺を操ればええ、殺せ。俺を殺さんと、俺が君を此処で殺す」




 なまえには直哉に愛された記憶はない。しかし、直哉が与えてくれたものは覚えていた。




「…殺せ、ません」




 直哉に与えられた数々の痛みとともに、時折見せる柔らかい表情が、最後に直哉が発した苦しそうなあの声が、なまえの脳裏に焼き付いて離れない。そして、今、目の前で膝をつく直哉は、今まで見たことのない表情をしていた。




「そんなんやから、良いように利用されて捨てられるんやで」
「どう…して、」
「…」
「どうして、会いにきたの?」




 直哉はなまえの髪を掴み、その場に引き倒した。そのまま彼女の後頭部を抑えつけ、貪るように口づけをする。互いの唇から唾液が垂れ、なまえにはそれがひどく淫らなものに思えた。




「自惚れんなや。君に死んでもらお思ただけや」




 今にも泣きだしそうななまえの目を捉え、直哉は唇を着物の裾で拭うと、その場から立ち上がった。その瞬間、白檀の香りが、ふわりと、なまえの鼻をくすぐる。




「…っ、直哉、さ」




 何故、彼の名前を呼んだのか、なまえには理解できなかった。その声には、まるで懇願するような色が滲んでいる。白檀の香りが、きっとそうさせたのだ。直哉がなまえの部屋を訪れるときには、いつも、この香りがした。
 直哉が本気でなまえを殺そうと思えば、もう彼女は事切れていることだろう。しかし、直哉に殺気はない。ただ、会いにきたのだと、なまえはそう思った。そして、きっとこれっきり。これが、最後なのだろう。




「…変な呪力感じると思ったら、お前か」
「悟くんか。気配消しとったのに、流石やね」
「なまえ、立てるかい?」
「…随分優しいお友達やなぁ。で、君は誰?」
「お前に名乗る名前はないよ」
「まあ、俺が用あんのはなまえやからぶっちゃけ君はどーでもええねん」
「何しに来た」
「別にええやろ。俺が来ても来やんでも。まあ、流石に分が悪いか。めんど、帰るわ」




 直哉は足腰の力が抜けて思うように身体を動かせずにいるなまえに背を向けると、真っ暗な暗闇に向かって「なあ」と呼び掛ける。




「男を立てられへん女は死んだらええ。せやから、」




 直哉は言葉を切った。何かがこみ上げてくるようだ、と直哉は思った。身体の内側を何かが食い破るかのように、叫びだしたい衝動が沸々と湧き上がる。望んでいたものが何だったのか、それは直哉自身ですらわからない。なまえのすべてを奪い、壊し、片時も忘れることがないよう、直哉は彼女の母親を利用して殺したのだ。
 嗚呼、あの夜は、最高やった。彼女が俺だけのものになったと、そう確信していた。しかし、結果はどうや。なまえは五条家に奪われ、俺の知らない表情を浮かべ、他の男に向けて笑い掛けるなんて、許されるわけないやろ。もう要らん、そんなお前なんて、俺は、






「君はもう用無しや」






 なまえが一粒の涙を零してこくりと頷くと、直哉はそのまま暗闇の中に消えた。悟と傑はようやく警戒を解いたかのように、地面にうずくまるなまえに駆け寄る。




「…わりぃ、遅くなった」
「悟、ありがと、大丈夫、だから」




 月明かりの下で、傑の目に、なまえの首筋に咲く薄っすらとした紅い跡が見えた。どうしようもない感情が、傑の胸の奥底で沸き立つようだった。




「…何をされた」
「傑…?」
「あいつに、何をされた」




 聞いたことのないほどの低い傑の声色に、なまえの肩がぴくりと揺れる。傑の人差し指が、そっとなまえの首筋に触れ、なまえは身体を硬直させた。




「…どうして抵抗しなかった」
「ごめんな、さ」
「君の術式を使えば、自分の身は守れたんじゃないのか」
「やめろよ、傑」




 地面に膝をついたままのなまえの目から、涙がひとつ、ふたつ、と零れ落ちた。そんななまえの様子を見て、傑は眉根を寄せ、何かを堪えるように唇を噛む。




「…すまない、違うんだ。君を責めたいわけじゃない」
「わた、し」
「これ以上は言わなくていい」
「…傑」
「言わないでくれ…すまない」




 唇が記憶する感触は、あの頃のまま、何も変わっていなかった。そんなことを思いながら、なまえは月明かりの中、地面にしゃがみ込んだまま、自分の腕で顔を覆い隠した。そんな彼女の腕を傑はそっと解き、涙に濡れたその瞳を見つめる。傑は彼女の視界を塞ぐように涙を拭うとそのまま抱き抱え、なまえもまた傑の首に腕を回し、まるで傑を受け入れるかのようにその胸に頬を当てる。
 この温もりが、今日だけは、すべてを忘れさせてくれればいいのに。確かに在った直哉との日々も、今夜あったことも、微かに震えていた直哉の唇も全部、このまま錆びついて早く過去になってしまえばいい。











(2024.02.16)









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