獣は贅沢だと


 それはもう酷い有様だった。なまえの腕には、太い針を何度も刺されたような跡がいくつもあり、皮膚は膨れ上がり、黒ずんで変色している。さらには、切り傷、擦過傷、挫創。特に酷かったのは、まるで折檻されたのように、背中一面に隙間がないほど、みみず腫れが赤黒く這っていた。硝子は、そのひとつひとつを反転術式で、できる限り綺麗に消し去っていく。
 反転術式はあくまで再生力を促すだけなので、もう塞がった傷の痕を完全に消し去ることはできない。治るものもあれば、残ってしまうものもある。なまえの首筋から胸元にかけては、直哉に付けられたであろう赤黒い鬱血した跡が、まるでそこだけ萎んだ花びらのように点々と残されていた。それを見て、硝子は「やってらんねー」と呟くのだった。




「硝子。なまえは」
「できる限りはキレイにしたよ、つっかれたー」




 硝子が吐き出した煙草の煙を、悟は煙たそうに手で払う。




「お疲れ」
「あの子、今はぐっすり寝てるよ。夏油、行ってあげたら」




 傑は一瞬目を見開いて、「ああ、そうだね」と腰を上げた。






「…ねえ、五条」
「ん−」
「最後までなまえが抵抗するから、結局軽く麻酔して無理やり治しちゃった。…こうでもしないと、傷、見せてくれないんだもん。あの子」
「ふーん」
「あんたさ、知ってたの?なまえがされてきたこと」
「知らね。でも、大方想像はつく」
「そ。御三家ってのは、みんなクズばっかなわけ」
「なんで俺が怒られなきゃいけねーんだよ」
「怒りたくもなるだろ。」




 硝子の煙草をもつ指先が、微かに震えている。悟はその指先を、見て見ぬふりをした。











「なまえ」




 硝子から指示された部屋を覗くと、斜めに差し込む夕陽の中で、なまえは横になって寝息を立てていた。傑が声を掛けてもなまえは微動だにすることなく、すやすやと息を立てて眠っている。そんななまえの姿に、傑は思わず頬を緩め、その傍らに座る。オレンジ色の斜陽にキラキラと光る黒髪に指を滑らせ、そっと頬を撫でた。先程まで痣が浮かんでいた頬はすっかりと元の肌色に戻っており、目の下の隈だけは以前よりも色濃く残っていた。




「ん…、」
「すまない、起こしてしまったかな」
「す、ぐる…?」
「よく寝れたかい」
「…ここ、は」
「高専の医務室だよ。硝子のおかげで、君の傷は粗方綺麗に治ったんじゃないかな」
「…硝子、が」
「ああ。」
「、そう」
「なまえ、迎えに行くのが遅くなってすまない」




 傑の言葉に、なまえは黙って首を横に振る。




「驚かせてしまったね。」
「…私、もう禪院家の婚約者じゃなくなったの?」
「ああ。君は五条家の養子になって、禪院家との婚約はなくなったよ。悟と家族になってしまったのは想定外かもしれないが、これで君はあんな家にいる必要はない。自由になったんだ」
「じ、ゆう」
「そうだよ」




 傑は、そこにあるなまえの表情に戸惑った。なまえは、喜びではなく、恐れや悲しみが入り混じったような顔をして俯いていたからだ。傑が迎えにきてくれた事実はなまえにとって確かに喜ばしく、心身ともに疲弊していた禪院家での監禁生活から解放されたことは、まるで夢でも見ているかのようだった。
 しかし、同時になまえは、心の奥にどろりとした何かが沸き上がるような感覚を覚えていた。なまえは、これまでの禪院家や直哉の仕打ちを、母親を手にかけた自身の罪に対する贖罪だと思い受け入れてきた。その圧倒的な暴力が、どこかでなまえの罪悪感や罪の意識を救ってきていたのだと、なまえは気づく。そのようなことを感じていた自分にすら嫌悪感を抱き、次第になまえの眉間には、深く皺が刻まれていった。




「なまえ」




 傑の呼びかけに顔をあげると、なまえの眉間に傑の指先がとん、と触れた。




「皺が寄っているね」
「…」
「私は君の過去のことは知らない。君が何を考えているかもわからない。」
「…ごめんなさい、まだ、言えなくて」
「いいんだ。言いたくないことは言わなくていい。だけど、これ以上、君が傷付く必要なんて、」




 なまえは思わず「違う」と傑の言葉を遮る。




「だって、私は、」
「君がどう思ってもいい。私が嫌なんだよ」
「…」
「過去の傷も、その頬に残っていた痣も、首筋にあったキスマークも…憎くて仕方がなかった。君が傷付くことに慣れてしまっていたとしても、私が、耐えられないんだ」
「…っ、」
「まるで身を切られるようだった。君が自分を大切にしないことも、君が誰かに傷付けられることも、私は許せない」




 ぎゅう、と傑はなまえの頭を胸に引き寄せ、「自分勝手な男で幻滅したかい?」と強く抱き締める。それは、まるで子どもが親に縋るようでもあった。なまえの目に映る傑の姿が滲んでいく。




「お願いだ…私のために、君自身を大切にしてくれないか」




 振り絞るようにそう呟いた傑のぬくもりに、なまえは溢れ出そうになる声を抑え、傑の胸に顔を押し付ける。その瞬間、ぽたり、と涙が零れていくのがわかった。









 それから傑は、できる限りなまえの傍に寄り添うようになった。禪院家の元婚約者が報復しにくるかもしれない、またどこかに行ってしまうかもしれない。そんな不安が傑に巣くっていた。任務がないときは、朝方、宿泊所のなまえの部屋の前まで傑が迎えに来る。そうしてゆっくりと歩きながら教室へ向かい、授業を受け、共に昼食を食べた。夜はなまえの部屋まで傑が送る。そんな日々が続いていた。
 その夜、悟との任務で傑が不在だったため、硝子の提案でなまえは女子会と称して共有スペースで時間を過ごしていた。畳に寝転んでお菓子を食べ、テレビを見ながら何でもない会話をした。




「ねえ、夏油そろそろウザくないの?」
「そんなこと、ないよ」
「いっつもなまえの傍にいて邪魔。過保護を通り越してめんどい」




 硝子の言葉になまえが眉を下げると「なまえを怒ってるわけじゃないんだよ」と硝子がなまえの頭を撫でた。




「てかもう秋通り越して冬じゃん。寒い」
「…花火、またしたかったな」
「ん−。もう売ってないんじゃない?」
「…」
「…まあ、」
「来年、できるかな」
「…うん。できるよ。来年しよう。来年は花火大会でも行くか」
「花火、大会?」
「でっかい花火が打ちあがるの。それを見に行くんだよ」
「そっか…楽しみ…」




 うとうととし始めたなまえをみて、硝子は目を細めながら頭を撫でる。なまえの目の下の隈は大分薄くなり、身体つきもようやく標準体型に近づいてきている。そして何より、彼女から来年という言葉が出たことに硝子は驚いていた。「これも夏油のおかげか」と、硝子は溜息をつき、なまえの肩を揺する。




「もう寝よっか」
「うん…」
「ねえ、なまえ」
「どうしたの?」
「…私たちがいるからさ」
「…え?」
「なまえの過去なんてどうでもいい。今のなまえには私たちがいるから」




 硝子は真っすぐになまえを見る。そんな硝子から思わず顔をそらすと、なまえは少し間を置いたのちに口を開く。




「…禪院家でのこと、忘れることは、できない」
「…」
「、怖い」
「私たちなんて、いつ死んだっておかしくないんだよ」
「そんな、」
「呪術師なんていつ命を落とすかわからない。そうじゃなくたって、交通事故で明日にでもこの世からいなくなるかもしれない。私や夏油、五条は、明日にも帰ってこないかもしれない」
「っそんなこと、言わないでよ、」
「だからこそ、ちゃんと見てよ。私たちの今を」




 硝子がなまえの手を握る。なまえの右手を、両手でぎゅと包み込みながら、「私はなまえといたいよ」と言葉を紡いだ。




 忘れなくてもいい。過去を捨てろだなんて言うつもりはないし、過去の呪縛に囚われ続けてしまうことを責めるつもりはない。でも、過去に思いを馳せて不幸せになるくらいなら、たった今あんたの目に映るものを、愛してもいいんじゃない?
 もっとちゃんと見てよ。なまえのこと、大切に思っている人がたくさんいることを。傷ついてほしくないと、笑っていてほしいと願う人がいることを。たくさん悲しんだなら、同じくらい楽しいことがあったっていいじゃないか。等しく大切な思い出に囲まれて、帰る場所はここだよって言ってくれる奴がいて、与えられて、満たされて。それでいいじゃないか。あの子が泣いてばかりの試練を与えるなら、神様なんか、死んじまえ。











(2023.12.19)









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