こんな天気の良い日は、屋上で寝転ぶのが好きだ。まるで私自身が空に溶けていくみたいな何とも言えない感覚が好きだ。このまま寝てしまおうか、次の授業なんだっけ、と頭の中で考えを巡らせながら手に持っていた譜面を空に向かってばら撒けば、ヒラヒラと転がるように飛んでいく様子をただ見つめている。
私はピアニストだ。幼い頃は「天才」なんて呼ばれていたらしい。しかし、音楽の神様は私を愛してはくれなかったみたい。ピアノは弾けば弾くほど苦痛で、「昔はこんなんじゃなかったのにな」と自問自答する。好きなようにピアノを弾ければ、それだけで幸せだと思えていたのに。今では自分が無価値な人間だと突きつけられるだけ。私はピアノが嫌いになった。
私の指はピアノを前にすると動かない。精神的なものだと医者は言うけれど、そんな今でも私にはピアノしか残っていない。もういっそ、こんな手は切り落としちゃえばいいのかな。なんて考えているとバタバタと階段をのぼる足音が聞こえた。
「おい、みょうじ」
「岩泉」
「お前またサボるつもりか」
「今戻ろうと思ってたところ」
「嘘つけ」
岩泉は腐れ縁の友人である。 高校入学してから毎年同じクラスで、なぜかいつも席が近い。馬鹿みたいにバレーボールに情熱を注いでいる人。岩泉は「お前これ」と散らばっている譜面を拾い上げた。
「なんかもうやる気なくなっちゃって」
「バカやろう、大事なもんじゃねぇのかよ」
そういって岩泉は丁寧に譜面をかき集め、私の前に「ん」と差し出す。そんな岩泉の一挙手一投足を眺めながら、捲られた袖から覗く筋肉が程よくついたその逞しい腕に感心するのだった。「授業はどうすんだ」と聞かれるものだから「サボります」と呟くように答えれば、岩泉もサボることにしたのか私の隣に寝転んだ。隣に並ぶとよくわかる体格差。岩泉、また背が伸びた?
「みょうじは」
「うん」
「進路どうすんだよ」
「決めてないけど」
「そうか」
「岩泉はどこに行くの」
「俺は東京へ行こうと思う」
「バレーは?」
「もちろん続ける」
「…そっか」
真っ直ぐと前を見据える岩泉の視線の先にはいつもバレーボールがあって。私には、眩しすぎて、まるで手が届かない。岩泉が決めたことに口を挟む気も、否定する気も、そして肯定する気もない。ただ、その熱が消えることのないように願い続けるだけ。
「お前も東京こいよ」
「え?」
「続けるんだろ、ピアノ」
私は眉間に皺が寄せたことに気付いたであろう岩泉は上半身を起こして、頭にハテナマークを浮かべたような顔をした。岩泉の言葉がぐるぐると頭の中で回る。何かを言わなければならない、何かをここで答えなければならない。でも、言葉がうまく紡げない。理性的に答えようとする反面、感情的に答えてしまいそうになる私自身を心の奥に押し込める。
「ピアノはやめたの」
「は?」
「つまらなくなったから。だからやめた。」
岩泉は目を見開いて、私をじっと見つめる。その視線から逃れるように、私は空を見上げた。そんな真っ直ぐ見つめないで。
「なにがあった」
「別にライバルもいないし、楽しくなくなった。それだけ」
「お前はそんなやつじゃねぇ」
「買い被りすぎだよ」
「俺が知ってるみょうじはそんなこと言うような奴じゃねぇ」
「じゃあさ、岩泉は私の何を知ってるわけ」
青い空が滲む。岩泉を責め立てたいわけではないのに「成功する人なんてごく一部。バレーボールだってそうじゃない。なのに続けるなんて簡単に決めないでよ」と最低な言葉が次から次へと唇から溢れる。
「別に、ピアノなんてたまたま才能があっただけで。好きじゃない」
私が私じゃないみたいに、喉がぎゅっと詰まって自分でも声が震えているのがわかった。
「私は岩泉とは違う」
彼の顔を見ないように立ち去ろうと起きあがった瞬間、岩泉は手首を掴んで「なんでそんな嘘つくんだよ」と言った。途端に涙が溢れて、屋上に染みをつくる。涙を溢す私を見られたくなくて、同時に岩泉の表情を見るのが怖くて、私は顔を伏せた。きっと岩泉は、怒ったような悲しんでいるような、そんな顔をしているに違いない。
「嘘じゃない。弾けないんだよ。指がさ、動いてくれないの」
初めて伝えた挫折。1年ほど前からコンクールなど出ていない。ピアノもまともに弾けていない。弾けない課題曲の譜面を抱いて、私はいつだって何もできないままだった。「なんで言わねぇんだよ」と岩泉は苦しそうに言った。
「岩泉がバレーに真っ直ぐだったから、私も、真っ直ぐでいたかった」
たったこのひとことだけが、嘘ばかり吐いてきた私の本心だ。もう弾けないピアノ。岩泉にとってのバレーボールみたいに、ずっと好きでいれたら、きっと違ったね。眩しいくらいにまっすぐな貴方に、私は憧れて、嫉妬して、そして。
「岩泉なんて、大嫌いだよ」
何もかも、忘れてしまえたらいいのに。大好きだったピアノ、鍵盤の感触、思い出の曲、岩泉の視線、指先。全部。手に入らないのなら、私から離れていってしまうのなら、いっそもうなくなってしまえ。
ひがごと(僻事)
道理にあわないこと。事実にあわないこと。
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