出右手は玄関脇の棚に、色もとりどりの熱帯魚を飼って居た。
大雑把な彼には似つかわしくないが、なにやら明天名が繁殖させたとかで、水槽やらポンプやらを共に貰い受けたのだ。

はじめは日がな一日水槽を見つめ続けた。マゼンタやターコイズとでもいおうか、その美しくかつとぼけたような愛嬌ある行動から目がはなせなかったものだ。
来客があれば自慢げに披露したものであるし、何より自ら手塩にかけて育てたいきものがすばらしく可愛らしかった。
水槽に映る自らの顔は、いつに無く優しく瞳を細めていた。

さて、熱帯魚を飼い始めて3週目が経とうとしていたころである。
彼らの世話もようやく板に付いたころ、出右手の部屋に平良が来るのだといった。彼ら2人は、そういった関係である。出右手は磨き上げたシンクに本棚、そして今までのいつよりも綺麗に磨きあげ、新調した水草を植え込んだ水槽で平良を待った。

玄関のチャイムが鳴る。
平良がブーツを脱ぐために一瞬屈み、玄関脇の水槽に目をやった。あろうことかその瞳は笑いを含むどころか、怒りを孕んでいる。
「これは、なんだ」
ゆっくりと口を開き、穏やかに怒りを露出させる。
「…アテナに…貰いました」
平良は答えない。平良は出右手の性格を熟知している。それみたことか、愚かにも魚たちは出右手に向かって餌をねでるそぶりを見せているのだ。
瞬間、平良の拳が空を鳴らした。かつて水槽だったものは分厚いガラス片になって飛散している。美しい弧を描いて水が地に落ちた。
ガラス片の刺さった平良の手の甲からは絶え間なく血液が流れ、熱帯魚は酸素を求めて喘いでいる。出右手はバケツに一杯の水、それにティッシュペーパーを持って駆けて来る。熱帯魚を水の張ったバケツに入れ、泣きそうな顔で平良の手にティッシュを巻きつけた。
出右手は、何も言わない。
平良がそっと手を握ると、気遣いつつも握り返してくれた。
「…悔しかった」
「はい」
「死ねばいいと思った」
「はい」
バケツのなかの熱帯魚は、水温の低さに衰弱し、もはや数匹が死んでいた。
「俺は、先輩が、好きです」
静かにうなづいた平良の目に、表情は無かった。

熱帯魚は、グラウンドの隅に埋葬した。
バケツの水に浮いたおびただしいまでの熱帯魚の腹は、どこか平良の傷口を思い出させた。
「アテナには、悪いこと、したな」
平良がぽつりとつぶやいた。遠くを見つめていた平良の焦点が出右手にうつったとき、かれはふいに自分の傷口を出右手の手に押し付けてきた。
「傷は、治るから嫌だ」
薄く血の滲んだ包帯をぎゅっと握り締めて彼は言った。
「だって、豊はあの熱帯魚のことわすれないだろう」
美しいマゼンタ。ターコイズ。出右手には、否定することが出来なかった。

正午の日差しの中、こつこつと2人分の靴音が響く。
「俺はさ」
「はい」
「全部豊のものになりたいと思ってる」
「はい」
「あの、熱帯魚みたいに」
気づくと2人は、くだんの熱帯魚を埋葬したグラウンドの端に来ていた。
「豊」
平良はひときわ鋭利な水槽の破片を出右手に手渡して泣きそうな顔で微笑んだ。
「俺は豊に忘れないでもらいたいから、熱帯魚と一緒に今ここで死ぬんだ」
平良の声が震え、涙が流れていた。
「死にたくないけど、死ぬのは怖いけど、でも、忘れられたくないんだ。豊、愛してる」

抜けるような青空から、暖かい風がさらりと吹いた。春がもう近いのだろう。
小春日和のグラウンドの片隅で、そうしてふたりはいつまでもいつまでも立ち尽くしていた。
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