眠るのが怖い。いや、億劫だ。眠るとは何だろう、休息など僕にはいらない。それならばボールを蹴っていたい。蹴っていなければならない。僕は、無様なところなどみせられないんだから。神であらなければいけないんだから。照美みたいにきれいな顔立ちでもないんだから、せめて実力だけはつけておかなくちゃ。美しくないよ。
グラウンドの照明が消えて、夕飯を食べて、部屋に戻って22時を回ったら、消灯。僕は真っ暗な部屋でリフティングの練習。ちょっとだけ、お洒落だ。今日は朝日が登るまで続けるんだ。

朝食に手を着けないヘパイスに、何かあったのかと栄養士と世宇子所属の研究員が詰め寄る。ヘパイスは、何食わぬ顔で吐いちゃうから食べたくない、と言ってのけた。
「夜はずっと部屋で練習してるから、朝から何か食べるなんて気持ち悪いよ」
小さな痩せた手のひらを引いて、ヘパイスは何やら廊下をいくつも曲がったそこへある、処置室へ連れて行かれた。

カーテンから入る光が眩しい。閉めてよ、僕は点滴してるから、手が窓まで届かないんだ。点滴は、落ちるのが遅い。僕はあんまり気が長くないから、早く練習に戻らせてくれないと困るよ。せめて本でも持ってきてくれればいいのに、ああもう大人は気がきかない。

それからすこしばかり経って、ヘパイスはようやっとブドウ糖の点滴から解放された。苛ついている彼に、夜はしっかり眠るようにと研究員が諭す。不服そうに頷くヘパイスに、彼は、どうしても眠れなければ使うと良いと、睡眠薬を手渡した。納得のいかぬ面持ちで彼は橙色の錠剤を見詰めていた。

22時になって、僕はいつものようにサッカーボールを取り出そうとして、あの薬を思い出した。薬まで使って眠らなきゃならないなんて、やっぱり睡眠なんてインチキだ。でも、朝ご飯は食べたい――吐くのは気持ち悪いし。まあ、1日くらいならいいか。1錠だけ飲んでみようか。そうしたらきっと眠気が来るから、それまではリフティングの練習をしていよう。明日の朝は、パンが食べたいな。

ヘパイスは、睡眠薬を飲み下して後、ふたたびボールを取り出してリフティングを始めた。10分、20分、30分――おかしい、眠気が来ない――と気付くと同時に、ヘパイスは今までにない高揚感を覚えた。体がふわりと浮くようで、何故だか楽しくなって、理由もなく笑顔が溢れた。真っ暗な窓に映った、自分の顔を見つめる。
「あれ」
頬に軽く触れる。
「ねえ、僕ってこんなにきれいな顔してたんだ!」
嬉しくて楽しくて幸せで笑い転げて、ヘパイスはうっとりと自らの顔にゆっくりと触れていく。大きな目、小振りな鼻、柔らかい唇、額、頬、眉、顎、全てに触れるたびに笑い声が漏れる。
「ふふ、僕って、こんなにきれい」
次は睫毛に触れようと目を閉じた瞬間、ヘパイスはふっつと眠った。安堵と喜びに満ちた、心地よい眠りだった。

――あの薬は、魔法みたいだ。僕の不安を全部、楽しくて幸せなものに変えてくれた。

次の日から、ヘパイスは暇を見つけては鏡を覗きこむようになった。ナルシストかよ、と茶化されても構わなかった。ヘパイスは昨夜の高揚感を、求めていた。
今夜も彼は薬を飲んだ。これこそが彼の求めていた、満ち足りた多幸感だった。
しかし3日目、薬はついぞ効果を見せなかった。おかしいと思ってもう1錠を流し込む。4日目、5日目、6日目――ヘパイスが飲み下す錠剤は増えてゆく。不安や焦りが笑顔になり、軽口を飛ばして仲間を笑わせて、軽い手触りで自らの顔に酔いしれた。
錠剤をいつもポケットに忍ばせていれば、彼の世界はいつでも明るかった。

ヘパイスの笑顔は、今日も途切れることはない。ぼうっとする頭は何を見ても美しく面白い。自ら傷つけた相手チームの選手を見ても、優越感しか湧かない。笑顔が止まらない。

「あいつ、最近よく笑うようになったよな」

ヘパイスの部屋の屑籠に詰まった彼の笑顔の脱け殻たちを、チームメイトも、ヘパイス自信も、何も知らない。
何百錠もの脱け殻は、増えてゆく。増えてゆく。

――ああ、人生は楽しい!


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