幽霊が出るのだという。場所はこの教室で、窓際の一番後ろの席だという。怪談をせがまれた教師が苦笑しながら話す。臨場感にさらわれた幾人かの生徒が、ちらりちらりと明天名の方を見る。窓際の一番後ろの席には、明天名が座っている。
蝉がやかましくなってきた頃、たいして厚くもない問題集が配られる。夏休み明けの提出だと言われるが、明天名はたいてい連休に入る前に解きつくしてしまう。それは今年も例にもれない。どうせなら早めに提出してしまおうと、明天名は終業式の日、表紙に光沢の残る問題集を空っぽの机に入れた。
明天名は怪談のたぐいを怖いとは思わない。幽霊がいるもいないも分からないが、今まで出会ったことも無いものであるから、さして関心もない。こちらを一瞥する同級生の視線たちは微妙な焦燥感だけ与える。終令はとっくに鳴り終えていた。

夏休みが始まろうとも、スタジアムには今日も変わらずチームメイトが集まっている。明天名の顔を見ると、真っ先に安芸がかけてきた。
「おい、どうして電話出ないんだよ!」
「ごめん、気づかなかった。何か用事あった?」
「宿題見せてもらおうと思ってさ」
「またかよ、別にいいけど…あ」
しまった、忘れてきた。机の中だ。教室に忘れてきた、というと、安芸がこの世の終わりのような顔をした。明天名としても置き去りは気分が良くない、部活が終わったら取りにいくのだと約束した。

日が落ちきる少し前、まだ明かりのともる職員室で教室に入る許可をとる。普段は使うことのない職員室前の階段をのぼって教室へ向かった。校門では安芸が待っている。湿気を帯びた風が窓を揺らしている――雨になるかもしれない。
校舎の二階、廊下の突き当たりに明天名の教室がある。人気のない教室は、一歩入るとワックスの匂いが鼻についた。軽い頭痛を覚えて窓を開ける。ふと、教師の話がよぎった。
窓の外、風に騒ぐ木々をみた。まるで自ら死んでいったという、名も知らぬ怪談話の彼のように、さらさらざわざわと音をたてて葉が散ってゆく。真っ暗な教室の中で、明天名は窓から身を乗り出した。吹き込んでくる風になぜかひどく息が苦しくなる。
自ら命を絶ったという彼は、最期に見た景色を明天名の目の前に突きつけた。

――ねえ、独りは怖いんだ。
声が聴こえた。ああ、きっと彼の声だ。自ら命を絶つのはどれだけ寂しくて、おそろしいのだろう。明天名はいまだ立ちすくんだままに、窓から吹く風を頬に受けていた。
安芸が待っているというのに、脚が動かない。気がつけば、明天名はステンレスの窓枠に膝がつくほどに身を乗り出していた。風は明天名の髪をなびかせて、その手は窓の外の木の葉にただ降れようとした。風に騒ぐ木の葉が明天名の手に触れたとき、彼の視界は窓の外、濃紺の闇の中で暗転した。

安芸は雨のぱらつきはじめた校門で、誰かを待っていた。ふと誰を待っていたのだろうと、考える。ただどうしても思い出せなくて、彼はついにきびすをかえしたのだった。

明天名のいた教室に、彼の机は、もうなかった。ただ彼の机のあった場所には、夏の陽射しが燦々とまたたいていた。


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