このスタジアムはどうだ。コンクリートに混じってどこか鳥籠のような、黴臭い木の匂いがしないか。なりを潜めた喧騒が、いまだやかましく響いている。ここにはかつて、少年たちがいた。

二日ほど前の事である。平良のもとへ真っ白い封書が届いた。便箋が一枚だけのごく薄いもので、読んでみればなにやら名も聞かぬ遠い親類が自分を引き取るのだという。ああついに来た、平良はチームを離れなければいけない。学校としての実体を持たない世宇子が、世にいう教育者の目こぼしなど貰えるはずがなかった。
大部分の世宇子のメンバーには親がない。平良は親戚をたらい回しにされたし、明天名は施設で幼少期を過ごしたと聞いた。それでもその年の晩夏、三年メンバーの離脱に伴うチームの解散の折、子供らの帰る先がなくなることを憂慮した大人たちがある決断をした。そしてその決断こそが、平良にあの真っ白い封書を突きつけたのだ。

ただ軽いばかりのボストンバックを肩に下げ、昼下がりのバスに乗り込んだ。がらんどうになった寮の、翻ったカーテンが目に焼き付いて離れない。バスに乗り込んでつと視線を上げると、見知った横顔がある。奥、窓際の席に頬杖をついて西日を受けている。その頬を、幼いと思った。
「……明天名?」
明天名は平良を見ない。ただ窓の外を眺めながら、ああ先輩、と返事をするばかりだ。
「横、いいか」
頷く。焦点の定まらぬ目に、平良は明天名がどこか別の誰かのように見えた。
「平良先輩は、どちらまで」
「……さあ。俺は、親戚の家が引き取るそうだけど」
「俺は、北へ行きます。地元だったと聞きました。生まれたところだと」
「……そうか。俺も北へ行くよ」
この二人のチームメイトは、今にしてようやく互いの帰る場所を知ったのだ。バスががたりと揺れて、細い脇道へと入った。小さな駅のロータリーへ向かう。

「俺は、サッカーが、好きでした」
消え入るように、ぽつりと明天名が呟く。
「サッカーだけをしていたい。こんな頭なんて、頭脳なんて、いらない」
平良は何も答えない。答えられなかった。おそらく明天名はサッカーをやめさせられる、のだろう。まさにその人並み外れた頭脳のために。それは平良にとって、どこか後ろめたい確信があった。

バスが吐息をついて、小さな駅につく。殺風景な小路を平良が歩き出そうとバスを降り、ふたたび窓際の明天名を振り返って別れを告げようと――だがしかし、そこに彼はいなかった。明天名の横顔も頬杖も全てが溶けたように消えていて、平良の腹の底には少しばかりの胸苦しさが残った。いやまさか、名残が見せた気のせいか――となかば無理に納得をしかける――が、どうだ。小さなバス停の肌寒い道の向こうに、見間違えるものか、いつの間にやら明天名が立っている。
うつ向いた顔の表情はわからない。彼の、明天名の頭の左半分、それがひどく爛れた火傷のように、でなければえぐり取られたかのように――無かった。

「平良先輩」
呼ばれ慣れたはずの言葉が、ひどく恐ろしい。立ちすくんだまま動けない足で、平良はただ明天名を見つめることしかできなかった。明天名の左頬の隈取りが、紫色の水ぶくれのように痛々しかった。
「先輩は、サッカーが好きですか」
頷くことしかできない。
「バスを降りてしまったら、サッカーが、できません」
平良の心臓が早鐘を打つ。
「世宇子から、神のアクアから放たれても、俺には術がないんです」
明天名が手を差し出す。
「知らない土地で生きていくことも、サッカーをすることもできないんなら、こんなものはいらないんです」
――頭でっかちの、俺の頭なんていらないんです。
明天名が平良の手を、そっと引いた。恐ろしいまでに冷たい手だった。
明天名は平良の手を引いたまま歩く。脇道を抜け、大通りを横切り、そして見知らぬ北の街の、古びたマンションの階段下に着いた。
「先輩は、きっと大丈夫です。だから」
醜く崩れたその顔で、明天名はひどく綺麗に笑った。
「さようなら」

明天名が平良の前から掻き消えるように溶けたとき、平良はマンションの下に大勢の人だかりを見た。
そこには明天名がいた、いや、あった。既にこと切れ、頭をコンクリートに叩きつけられたまま、かろうじて潰れなかった右目はどこか遠くを見つめていた。マンションの屋上は空に溶ける高さで、そしてそのまま明天名の頭の左側はコンクリートにひしゃげていた。それでも明天名のその右目には、薄く薄く、涙の跡があったのだった。

平良を引き取った親類はひどく親切な夫婦で、まるで自らの子のように平良を愛した。
北の街の生活にも新しい学校にも次第になれてゆく。平良は幸福にも、「一般的な」子供としての生活を手に入れたのだ。
それでも時折、思い出す。あの明天名の、ひどく綺麗な笑顔を。夕暮れの日を浴びた幼い横顔を。涙の跡を。そしてただただ、あの声が耳に残って離れないのだ。
『俺は、サッカーが、好きでした』

かつて彼等はスタジアムに居た。コンクリートに混じってどこか鳥籠のような黴臭い木の匂いがして、なりを潜めた喧騒がいまだやかましく響いている。ここには少年たちがいたのだ。サッカーを愛し、スタジアムという名の籠から羽ばたいた少年たちがいたのだ。
遠くまで遠くまで羽ばたき飛んだ平良というその少年は、戸惑いながらもついぞ飛ぶことの出来なかった金髪の少年を、いく年経ってもけして忘れることはないであろう。
その少年は、明天名智、という名であった。


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