なあ、豊。またお前の笑顔が見たいよ。

幾度願ったか四角くトリミングされたその日の空は、それでも抜けるように青かった。
「なあ豊、旅行に行こう」
――綺麗な空が見たいんだ。大きな空を、窓から何倍にもはみ出した空を、豊に見せたいんだ。

平良は嘘をついた。もはや手にすることすら飽きた外泊許可の申請書に嘘を書いた。寮へ帰るのだと、チームメイトのもとへ行くのだと、嘘を書いた。
「寮へ帰ってから、皆と旅行に行くんです」
そう看護士に告げると、彼女は頬を綻ばせてそれは楽しみね、と言った。どこへ行くのかと訊かれれば、平良の頬もそっと和らいだ。
「遠くに行きたい――景色の良いところがいいんです。旅行の雑誌も、買ってきたから」

ずっとずっと彼と、豊と、行きたかった場所だった。その白茶けたビルは、かつて彼と共に歩いたその街で一番高くそびえ、屋上からは海が見える。きっと風がさらと吹いて、水平線には靄が、眼下の街には肩を並べて歩いたその道があるのだ。忘れもしないあの頬と笑顔、最後に見たあの微笑、平良は愛しくてたまらなかった。そうして彼が笑うとき、その頬は薄赤く色付くのだった。

外泊も三度めの今回、出右手は平良のもとになにゆえか姿を現さなかった。平良は小さなバッグに財布と携帯電話だけを無造作に詰め込んで、そっと病室のドアを閉めた。私物の一切もなく、がらんどうとなった平良の病室に気付くものはいない。たた屑籠に、ティッシュペーパーに吐き出されたいくつもの錠剤だけが残されていた。

柔らかな陽光に目を細める。
地下鉄の駅へ行く道すがら、バッグから取り出した携帯電話を開く。アドレス帳の“た”行、たったひとつだけ登録されているその名前、躊躇いなどない。
「――もしもし、…豊?今どこにいるんだ、なあ、あの高いビル、あそこで待ち合わせをしよう。お前の顔が見たいんだ。なあ豊、会いたいよ」
ああ、それでもその電話は呼び出し音すら鳴らない。――この番号は、現在使われておりません――ただ無情なアナウンスが流れるばかりでも、たとえそれが分かっていても、平良には出右手の声が聴こえるのだ。
『もしもし、先輩』

平良は走った。わき目もふらず、ただ走った。あの白茶けたビルへ、走った。
今はただ、出右手豊その人に、会いたくて会いたくてたまらなかった。


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