平日の電車は淡々と景色を追い越してゆく。昼を過ぎてのぼりきった冬の太陽から、目がしみるような光が降ってくる。白い化粧をわずかに残すあぜ道で、去年のススキが枯れたまま地面にへばりついていた。

名門大学付属の高校への受験だった。成功すれば大学卒業までの住居、身分の証明、学歴、ひいては将来性までもが保証されるのは明らかである。加えて、トップクラスの進学塾からも合格間違いなしと背中を押されている。
受験生になった時点で明天名はきっぱりとサッカーをやめた。それは、周囲にとってひどく理想的な選択だった。

電車がわずかに減速した。枕木の軋みが響く。明天名は今日まで電車に乗ったことも、コンビニエンスストアで弁当を買ったこともなかった。試験のために向かう地方都市への前日入りのために、わずかに緊張しながらビジネスホテルへ予約の電話をしたのはひと月ほど前だったか。どんな問題集より、スムーズに日常をこなしてゆく術を見よう見まねで学ぶしかない事の方が、今は重荷だった。
続いて甲高いブレーキ音が響く。灰一色のホームが見えてきた。日焼けして退色したベンチの足元で、鳩が二、三羽寛いでいる。明天名は弾かれたように立ち上がった。

緩く首をしめる空調の膜を振り切ってホームに降りる。
どこか何かを諦めたような、くたびれた佇まいの名も知らぬ駅は、それでも懐かしい。まだまだ先の駅で切られるはずの切符を少し躊躇って廃棄用の箱へ入れる。日除けか雨避けか、申し訳程度の屋根とベンチの他は、長く延びるコンクリートの固まりだけでできた場所だ。明天名はベンチに腰掛けた。手をつくと、ざらりとした砂ぼこりに胸が高鳴った。
思い出したようにパンの袋を開ける。小さくちぎって投げたその欠片を鳩がつまむ。

明天名はサッカーが好きだった。
中学へ進学してまもなく、その実力と姿勢は彼をレギュラーメンバーに押し上げた。ただボールを追うとき、チームメイトと額をつき合わせて戦略を練るとき、同級生と愚痴を言い合い気まずそうに笑いあうとき、その全てが愛しかった。
――そうだ、これはいつだったか、差し入れに先輩が買ってきてくれたパンと同じものだ。
サッカーと別れ、様々な書籍とにらみ合い続けた日々にも多くの収穫があった。外部から与えられる知識は喜びに他ならなかった。
つがいか友か、寄り添い歩く鳩に自分が重ならない。鳩の生態は知っているが、羽の触感は知らない。

遠くで踏切の警報が鳴る。残響とともにレールが軋んで、ヘッドライトが近づいてきた。一口もかじらなかったパンをもうひと欠片鳩に投げてベンチを立つ。
――どうして下車してしまったんだろう。日があるうちに、ホテルに着かなきゃいけないのに。
ふたたび電車に乗り込む。車両の端に空いている席を見つけ、腰掛けようと――その時、鳩が一羽、ホームからひょいと乗り込んできた。ドア向かいの婦人が少し驚いて、顔を綻ばせた。明天名は座るのをやめる。鳩は明天名の足元で、どこか遠くを見ていた。

「どこまで行くんだ?」
口だけ動かして問うてみる。答えはない。
「俺は、五つめの駅で降りるんだ。明日、受験があるから」
今度はごく小さく、言葉にしてみる。視界の端が早送りのビデオのようだ。
「単願だから、後がないんだ。落ちるはずはないけど、緊張もしてないんだ」
コンビニエンスストアの袋がにわかに重く、指にくい込んでくる。ガラスに自分の横顔が映っている。
「合格したら、誉めて欲しいけど」
レールの軋みが突然爆音になる。耳に刺さる。馬鹿げた事を言った、と下唇を噛むと意味もなく喉に空気がせり上がってきた。続きを言わなければいけないと思った。
「でも、次の駅が何ていう場所なのかも、知らないんだ」

五つめの駅で、鳩は下車しなかった。六つめの駅で、列車は快速になるという。日はもうとっくに沈んで、乗り過ごせばホテルにたどり着けなくなるだろう。それでも明天名の目の前で、電車のドアは閉まった。窓を飛び去る街の明かりに二度め、胸が高鳴る。道に迷う直前の高揚感に脚がすくんでも、自らの未来を闇に蹴落としたその脚を誇りに思った。

足早に改札を抜ける人に流されて吸った空気は恐ろしく冷えていた。小さく栄えた駅から延びる商店街で、明天名ははじめて暖かい孤独を感じた。ホテルにキャンセルを知らせなければならない。上気した頬が熱い。受験票の青ざめた写真は、明日意味をなくすだろう。
くたびれた中華料理店から、賑やかな声とやかましい匂いが溢れてくる。幾日かして、自分の握る薄い財布に現実を突きつけられることも知っていた。それでも全てがまざる知らない空気を幸せだと思った。今、明天名はどこまでも愚かで、どこまでも幸福であった。

鳩はもういない。あの鳩が明天名をかえりみることは、もう二度とないだろう。


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