部灰は自分の生まれた家を知っていた。いつも気に入りの備品を買いに行くスポーツショップへ延びる大通りを、少しばかり奥へ入った所にある、赤い屋根の家だった。

今日もまた、青く晴れた空だった。例のごとくスポーツショップへ出掛けた矢先、何故だか時間を間違えて、店が開くより大分早く寮の自室を出てしまったことに気がついた。かと言って戻るのも面倒であったから、部灰はそのまま散歩と洒落こむことにした。暑くなりそうな朝だった。

足取り軽く細い道を幾度も曲がって、気づけば目の前に忘れもしない赤い屋根があった。低い垣根の向こうから、二階の窓を越えて立つヒメシャラと、居眠りでもしているような柿の木が招いているようで、何とはなしに近づいてみる。そのまま少し悩んで、門柱を越えた。

コンクリート塀で隣家と隔てられた敷地の中は、どこか薄い布にでも覆われているようで、遠慮なく降り注ぐ太陽の光も鳴き始めた蝉の声も、何かよそよそしい他人事だった。軒下へ寄ると壁が汚れていて、かつて自分がここへ向かってボールを蹴っていた、そんな光景が思い出されたが、それももう十年以上も前のことだったので、思い出ですらよそよそしい他人事にみえた。

目をとじて頭の中で玄関の扉を開ける。目の前に真横に敷かれた廊下のフローリング、脇には階段がそびえていて、二階に登った奥の部屋には客用布団の仕舞われた押し入れがあった。ふすまに落書きをしてしまったのかもしれない。頭の中のふすまには、色とりどりのクレヨンで描かれた不揃いの丸が並んでいた。

懐かしくなって微笑んだ。目を開けると視線の先に、作業着の男性がふたり見えた。あわてて会釈をした、ばつの悪そうな部灰の顔を見て、ふたりのうち若い方が何か言う。どうやら今日でこの家は解体が決まったらしい。重機が入るから早く出なさい、と急かされた。頷いて礼を言うと、そそくさとスポーツショップへ向かった。

部灰は今回に限って、やけにスポーツショップで長居をした。特に理由はなかった。すっかり日が真上に登った頃、帰り道の脇から上がる砂ぼこりとショベルカーのだるそうな音が、蝉の声を牽制するように響いていた。

次の日から部灰は、自分の生まれた家を思い出せなくなっていたことを思い出せなくなっていた。それでもオリンピックや何かで色とりどりの丸を見ると、どこか煮え切らない気持ちになった。それでも普通の日常を送っていれば、ヒメシャラにも柿の木にも、進んで近づく必要もなかった。それだけは幸いであることに、間違いはなかった。


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