天井はただ白く、空調の程好く効いた個室だった。蛍光灯に目が眩む。平良は天井から刺さる光を目蓋の裏に感じながら、ゆっくりと目を開けた。

手が、脚が動かない――寝返りどころか身動きすら取れない。腕、手首、脚、足首、胴体のその全てが二重の拘束具――といっても強力なマジックテープ式ではあったが――でもって、ベッドに固定されていた。数時間前に死に物狂いで窓を叩き続けた、あの手は不思議と痛くない。血の滲んだ箇所に治療が施されていることが、手首から先の感覚で分かる。
ああここが保護室というものか、と思考の片隅で納得した。話になら聞いたことがある。

平良は顔をベッドの横へ向ける。全身を拘束されているとはいえ、首から上と手首、足首から先はわずかに動かせた。
今は何時なのだろう。目線の先にある窓には夕日がよく映えていた。また目を閉じて、ふっと息をはいた。そして再び目を開いた時、そこに彼は居た。

「――豊…?」

夕暮れの逆光を浴びて、それでもくっきりと見える。愛しい、愛してたまらなかった、9の背番号。後ろ姿の出右手は、最期に笑って話したその日のままに、平良の目線の先に、立っていた。

『平良先輩』
その声。変わっていなかった。自らを呼ぶその声。嬉しいとも悲しいとも涙など出なかった。平良はただ出右手の後ろ姿を、背番号を、見つめていた。ただ愛しさと驚愕だけが込み上げて、名を呼ぶことしかできなかった。
『先輩、体調は大丈夫ですか?オレ、先輩が治るまで…』
……何度だって、お見舞いに来ますから。
少し微笑を含んだ声で出右手が言う。
「バカ、お前だって脚やっちまっただろう…リハビリは」
『大丈夫、です』
出右手はトントン、と脚を鳴らして軽く跳ねる。
『ほらもう、大丈夫』
出右手の後ろ姿が空を見上げた。夕暮れから夜へと柔らかく移ろってゆく空を、微笑を含んだその声で。
『ねえ先輩…これから毎日、お見舞い…来ても、いいですか?』
平良は小さくうん、と返事をするのが精一杯だった。その姿が、声が、全てが、愛しすぎた。

看護士が個室に入ってきた。夕飯を持ってきたらしい。看護士は平良の上半身と腕だけの拘束を取り去ると、箸を握らせてくれた。そしてそのまま窓のカーテンを閉めた。9の背番号の愛しい彼は、もう、居なくなっていた。

三日間保護室で過ごしたあと、平良は通常の病室へと戻された。出右手はあの言葉の通り、毎日平良と少しばかり話をしては居なくなってゆく。 しかし平良にはもう、分かっていた。
出右手は死んだ。跡形もなく潰れてしまったその身体を、自分が見た。だからこうして毎日会える彼は――幻覚だと。

平良はそれでも良かった。
豊に会える。以前のように毎日こうして会える。話ができる。声が聴ける。
今日も看護士は、平良が薬を飲んだかと舌の上を確認する。平良は看護士が去ると、舌下に隠した薬を捨てる。薬を飲んでしまえば、自分は治ってしまう。幻覚が見えなくなってしまう。
精神疾患の悪化の一途。それが平良には、何よりもこの上なく幸せでたまらなかった。


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