最後まで神のアクアの効果が安定しなかったのは部灰だった。

無論、幾度となく摂取量や濃度の実験を繰り返し、その度に喉や胃の焼けるような痛みに耐え、絶叫せんばかりの頭痛も押さえ付け、指先すら動かせない目眩や吐き気にも見舞われた。それでもまだ研究員達は呆れ返るのだ、また手を煩わせるのかと。

身体に強烈な負担を強いるが故に、摂取実験は週に一度のみ行われた。
つまり、置いていかれる。一度実験に失敗する度に、既にスタジアム入りして練習を始めている『成功者』達に。
スポーツをする少年にとっての一週間は、煉獄の長さだった。そして今日も失敗したのだ、例の如くに。

今回の副作用はひどい目眩だった。
立つどころか身動きすら取れないままベッドで点滴を打たれ続け、冷めた目の研究員に見下ろされながら記録を取られる。点滴の速度を調節した研究員が部屋を出ると、廊下での彼らの会話が異様に敏感になった聴覚に反響して刺さる。
――もう時間もない…他のを探した方が良かったな。
――だろうな。適性がない。どう考えても。
――お似合いだろうよ、あいつの『名前』、ヘパイスだったろ、確か?
――手間ばかり増えるな、いい加減にして欲しいもんだ……

やめろ、僕はその話が大嫌いなんだ、僕は炎だ、部灰炎だ、そいつじゃない、出来損ないじゃない、今すぐ点滴を引きちぎって、グラウンドに出てやる。見せてやる。見せてやる。僕を見せてやる。
悔しくて泣いても天井が無闇に白いだけで、頭痛が増すばかりである。本当は、下唇を噛んで悔しがりたい。
あと六日。あと六日で決める。白いばかりで、涙でぼやけすらしない天井に誓う。
次で最後だ。必ずスタジアムへ行く。誰よりも強くなってここを出る。
換気のために開いた窓から、いつもより強く風が吹き込んだ。

点滴が取れて3日。

今日で一週間が経つ。摂取実験の日が来る。時折ふらつく足取りに研究員の内心の舌打ちを聞きながら、実験室の扉が開く。
ゼロコンマ数ミリグラム単位で濃度、量共に調節された薬物を、液体化してグラスで飲むなど最早笑い話である。
形からすら神である事に拘り続ける総帥を、今部灰は崇拝した。
グラスを手にとる。ためらい等もはや皆無である。一気に空の胃に流し込み、グラスを床へ満身の力を込めて叩き付けた。

途端、視界が開けた。
脳が冴え渡り、髪の一筋、爪の一枚までに何かが宿った。
――これが、神になるということか。
研究員達が色めき立つ。当たり前だろう、『ヘパイス』がついに完成したのだから。

血圧を測ろうと、血液検査をしようと、駆け寄る研究員の一人を突き飛ばした。14歳の力で、のはずであった。
駆け寄った研究員を見る。おかしい、いないじゃないか――いや、目の前の壁に彼はいた。
頭蓋など見当たらず、骨もなく砕け飛び散り、肉片ですらなくなって、ただ人の形をした赤色の跡が壁にくっきりと残っていた。
僕も神になった、そう思うともう喜びと安堵にしか部灰は満たされていなかった。今年15歳になる少年の笑顔はまだ幼さが残り、愛らしいとすら感じられた。
研究員に取っては緊急事態らしい。あわただしくどこかへ連絡を取り、震えながら何かの機器を操作している。

「やめてよ」
連絡を取る研究員の手首を握ってふてくされたように呟いた。
「成功したんでしょ?問題なんてあるの」
部灰は気に食わない。失敗しても成功しても、どうして彼らは自分を疎むのか。
悔しくて掴んだ手をぎゅっと握った。途端、研究員の手首の骨が砕けたらしい。絶叫して部灰から離れた彼の、手首から肩にかけての皮が引き剥がされ、肘までは青白い骨が露出していた。
見れば、残る二人は扉へ向かって駆け出し、緊急用の避難扉を必死で閉めようとしている。

ああくそ、腹が立つ。
今までのいつよりも速く走れる軽い身体で、瞬時に彼らに追い付いた。軽く二人の脚へ払いをかけると各々の脛の骨が折れたようで、皮を突き破ってぱっきりと綺麗に折れた骨が見えた。
むしゃくしゃして、失神した一人を蹴り飛ばすと、かれの鳩尾から上がえぐれてしまった。案外、血は出ないものなのだろうか。
そしてもう一人、この顔は忘れていなかった。先週、部灰を見下ろしながら点滴を打った研究員だ。
「ねえ、成功したみたいなんだけど」
尻餅をついて怯えきった顔をした彼に、屈んで同じ目線になって話し掛けた。
「何で誰も喜んでくれないの?誉めてくれてもいいんじゃないの?君くらい」
それでも彼は、這いずって部灰から離れようとする。イライラする、悔しい、悲しい、早くスタジアムでサッカーがしたいのに。
「ねえ、やっと僕は」
涙が溢れてくる。頭が痛い。
「神様になれたんだよ!」
泣きながら彼の肩を揺さぶった。肉に指が食い込んで気持ち悪い。またどこかの骨が折れた音がする。彼の口から泡の混じった血が出てきて嫌になる。泣きじゃくって肩から指を剥がし、何度も何度も彼を殴った。殴っても痛くならない自分のこの拳こそ、神の証だというのに。
殴り疲れて泣きはらした目で床を見ても、赤いやら白いやら黒いやらで肩から上は何もない。

ふっと目線を上げると、そこに一人、背の高い細身の男性が立っていた。
「総帥」
男は笑んでいた。
「ようやく完成したな、私の可愛い選手達の、最後の一人が」
部灰は立ち上がった。自分でも、今までになく軽く、すっくと立てたのが分かった。
「ついて来い、ユニフォームは用意してある。スタジアムへ行け、ヘパイス」

部灰は後へついて歩く。しゃんと背筋を伸ばして、誇らしげに、顔を綻ばせながら。
背の高い男の後ろ姿を崇拝の瞳で見れば、今は全てが報われた気がする。
大きく深呼吸して、明日からの自分を思う。

僕は、ヘパイス。


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