スタジアムの観覧席から浴びる初夏の風は少しだけ涼しくて、練習の終わった夕暮れ時の汗をさらりと乾かしてくれる気がした。

「アテナは可愛いね」
ヘパイスが言う。あれ、と思う。低めの少しだけ沈んだ声色だった。
「きれいな眼も、鼻も口も、真面目でちょっと生意気で、でも本当は素直で、そんな所が大好きだよ」
「…先輩」

どうしたんですか。
そう問おうとしたその時に、ヘパイスが立ち上がった。
「ごめんね、初めて愚痴っちゃう」
観覧席のフェンスに手を掛けて、声色も低いまま、それでも顔はいつもの笑顔でヘパイスが言う。
「僕はね、本当は僕が嫌い」

アテナの思考に浮かぶ文献の一文、『ナルシスト的な思考を持つクライアントは、深層心理で自己嫌悪的な思考を持つ事例が多い』。駆け巡った全ての言葉と文章に、アテナは心臓を鷲掴みにされた。
「何でだろう?アテナのことが好きになるとね、なればなるほどその度に、僕は僕が嫌いになっちゃうんだよ」

また風が吹いた。
二人の対照的な色の、その長い髪をすっと通りすぎて、見慣れた褐色のその横顔が別の誰かに見える。沈黙が鼓動に圧迫をかける。

「僕はアテナが好きだよ」

ふいに告げられた愛しいはずの言葉が、なぜか絶望の淵で背を押す何かに聞こえる。
素直になれずいつまでも反抗的な自分に笑いかけて、挫けて泣いた時は優しく背を撫でて、いつだってくだらない台詞で呆れさせて、笑わせてくれたあなたは誰だったんでしょうか。

「ごめんね、変なこと言っちゃった。アテナ、シャワー浴びてご飯食べよう。はは、汗でベタベタだよ」
早く部室へ帰ろう。そう言って背を向け、歩きだしたヘパイスの手を、思わず駆けてアテナが掴んだ。
言葉が出ない、こんな時に限って。無駄口は叩くくせに、生意気な口も叩くくせに。
衝動のまま抱きついた小柄なその背に、青く抜かれた背番号の3を見た。

「先輩」
理解する。その聡明な頭で今やっと理解する。また涙が溢れてしまった、それでもいまは背を撫でられるよりもあなたの背を撫でたい。
「好きです」

ヘパイスが振り向いた。笑顔が消えて、その顔がまた、別人に見える。その別の人その人こそが、先輩、あなたでした。
あまり言わなかった事を後悔しても遅いから、自分が言われて嬉しく思ったその言葉をあなたに言いたくてたまりません。
「好きです」

握ったヘパイスの手が少しだけ震えた気がした。
アテナが見上げる。自身も泣いてしまっているのがわかっても、視界はぼやけないように必死に保った。
ヘパイスの目がアテナを見つめて、一筋だけ涙が流れていた。

二つも年上のこの人が、自分を愛してくれたから、まだ知らなかった沢山のことをアテナは学んだ。
あなたはまだ、学ばせてくれるでしょうか。今の顔を、声を、心をもっと沢山学ばせてくれるでしょうか。

夕暮れの日を浴びて、ひどく大人びた顔をしたヘパイスを、アテナは今何よりも美しく思った。


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